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心に響く聖書の言葉


ヨハネによる福音書20章19-31節「信じる者になりなさい」


 イエス・キリストは十字架に架けられ、ほふられる小羊として血を流し、贖いの死を成し遂げられました。金曜日の夕方に彼の遺体は引き降ろされ、急いで墓に葬られました。安息日と過越の祭りが始まろうとしていたからです。しかし、三日目の日曜日の朝にイエス・キリストは預言通り復活されました。まずマグダラのマリヤと他の女たちに現れ、エマオへ向かう途中の弟子二人に現れ、そしてシモン・ペテロにも現れたことを他の福音書は伝えています。
 その日曜日の夕方、弟子たちは集まり、ユダヤ人の迫害を恐れて扉を閉ざしていました。その家が誰の家であったかは記されていませんが、おそらくイエス様と弟子たちが最後の晩餐を持った場所であったと思われます。彼らは不安を抱えながら閉じこもっていたのですが、マリヤたちの報告や復活したイエス様にお会いした弟子たちの報告を聞いて驚き戸惑っていました。今日の聖書箇所はその場面からはじまっています。

一、平安があなたがたにあるように

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

@宣教の挨拶
 復活されたイエス様が弟子たちの中に立たれました。最初のことばは「平安があなたがたにあるように」でした。おそらくヘブル語で「シャローム」と語られたのでしょう。ユダヤ人にとってそれは普通の挨拶(おはよう、こんにちは、こんばんは、さようなら)の言葉でした。それはアラビア語で「サラーム」、インドネシア語で「セラマット」となり、韓国語の「アンニョンハシムニカ」も同じです。
 新改訳聖書が「こんばんは」と訳さなかったのは正解だと思います。イエス様も「平安があるように」と言う意味を込めて言われたのでしょう。なぜなら弟子たちはこの時、平安ではなかったからです。「エルサレムの町を混乱させ十字架で処刑されたイエスの弟子たち」という理由で迫害されることは目に見えていたからです。ですからイエス様は「平安があるように」と告げられました。それは「もう心配する必要はない」という意味です。復活の主が弟子たちとともにおられるからです。

A宣教の命令
 弟子たちの驚きと喜びはいかばかりであったでしょう。その弟子たちに主イエスは続けて語られました。
「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
 弟子たちが宣教命令を受けるのはこれが初めてではありません。以前にもイエス様は12弟子を宣教に遣わされました。(マタイ10章参照)。その時には次のように命じられました。
マタイ10:11-12 どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
 「平安を祈るあいさつ」とは「シャローム」であったでしょう。福音は混乱や争いをもたらすものではなく、永遠に続く平安を与えるものです。その平安は第一に神との平和です。この平和の福音宣教のために12弟子は選ばれ、訓練され、働きを委ねられたのです。
 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
 驚き戸惑っている弟子たちにイエス様は聖霊を与えられました。これは一時的であったと考えられます。なぜなら50日後のペンテコステにおいて内住の聖霊が与えられ教会が始まるからです。この時点ではその初穂、ひな形として一時的に聖霊が与えられたのでしょう。
(弟子たちが実際に宣教を開始したのはペンテコステ以降でしたから、宣教命令と聖霊が与えられることは、将来の約束として弟子たちに語られた、という解釈もできるでしょう。)
 いずれにしても、福音宣教のためには聖霊の働きが必要不可欠であることを教えられます。

B宣教の働き
 23節は、使徒たちを通して語られる福音がもたらす結果です。(使徒たちに与えられた特別な権威であると考える人たちもいますが、罪が赦されるのはイエス・キリストの十字架を信じる信仰以外にありません。)
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
 福音の働きはまさに人々の罪を赦す働きです。すべての人間は罪人であり、死後にさばきが定められています。罪のゆえに神様は私たちを祝福したくても祝福できません。罪のゆえに人間は苦しみ、不安で、生きる目的が分かりません。しかし神様はイエス・キリストの十字架によって罪の赦しを与えられています。罪の赦しを受け取る方法はただ一つ、イエス・キリストが私の罪のために十字架で身代わりとなって死なれ、そして墓より三日目によみがえられた事を信じるだけです。この福音以外に罪赦される方法はありません。神様はすべての人が福音を信じて救われることを望んでおられます。そして福音を信じたクリスチャンがこの福音宣教の働きに携わる事を願っておられます。

二、信じる者になりなさい

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 著者ヨハネは一週間後の出来事に目を向けています。「八日後に」と書かれていますが、これもユダヤの数え方ですので、日本で言うなら七日後、つまり一週間後の日曜日です。復活されたイエス様が再び弟子たちの前に現れました。一週間前にはトマスがいませんでしたが、この時にはトマスも一緒でした。弟子たちは相変わらず部屋の中に閉じこもり、迫害を恐れていました。イエス様の最初のことばは再び「シャローム」でした。

 主イエスはトマスに言われました。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 見るまでは決して信じないと宣言したトマスに対するイエス様の優しさです。この世の中には何でも信じてしまう人もいますし、疑い深い人もいます。どちらがよいとは単純に言えません。福音は信じやすい人だけに向けて語られるものではありません。疑い深く頑固な人にも福音は語られるべきです。トマスはその代表です。イエス様が彼に言われたのは、「見なさい」「さわりなさい」です。夢でも幻でもない!ここに復活したイエス様がおられることを確認しなさい!という事です。
 トマスは一瞬で目が開かれ、「私の主、私の神」と叫びました。何事も信じようとしない頑固な人が信じる時に、固い信仰を持つことが多いようです。トマスの救いは、福音宣教の良き模範となっています。どれほど頑なな人でも、確かな証拠と熱意をもって伝えるなら信仰に導かれる事を教えられます。家族の救い、友人の救いを祈っている人にとって、トマスの救いは大きな励ましです。

三、見ずに信じる者は幸いです

20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
 弟子たちの前にイエス様が現れたのは、彼らを宣教に遣わすためでした。弟子たちが復活の証人となり、教会の基礎となるためです。彼らはイエス様を見て信じました。しかし本来、信仰とは見ずに信じることです。見て信じるのは当たり前のことです。神様がすべての時代において望んでおられるのは信仰者です。それは人が罪のさばきから救われるのは信仰によるからです。「信仰は勝利」と歌う聖歌がありますが、信仰こそ私たちを救う唯一の条件です。旧約聖書も新約聖書も「義人は信仰によって生きる」と宣言しています。今の教会時代は『主イエスを信じる信仰によって救われる』のです。

 私たちは現在、イエス様を見ることはできません。「私はイエス様を見ました」「私は御使いを見ました。」という人がときどきおられます。私は面と向かって「それは間違いです」と言う事はしませんが、その証を信じようとは思いません。マザーテレサの信仰と働きを尊敬していますが、彼女がインドのコルカタのスラム街で主に仕えて生きようと決心したのは、イエス様を見て啓示を受けたからと証ししています。多くの人は素晴らしい証しと受け取るのですが私は信じようとは思いません。と言うのは一つの証言を受け入れるなら、ほかの証言も受け入れなければならないからです。世の中にはいろいろな目撃証言があります。たくさんの人が「イエス様を見た」「イエス様と会話した」と証しします。それらの証には異端につながるものもあります。幽霊を見たという人、UFOや宇宙人を見たという人は数えきれません。証拠写真、証拠ビデオを持っていると言う人もいます。降霊術によって死人と会話できるという人もいます。ではイエス様を見たという人と幽霊を見たという人の証言の違いはどこにあるのでしょうか?それを区別するのは難しいことです。私達は、復活されたイエス様が40日間にわたって弟子たちの前に現れた後、天に帰られたことの意味をよく理解しなければなりません。再臨されるまで私たちはイエス様の姿を見ることはできないのです。

 しかし、私達はイエス様を見ています。それは信仰によって見ているのです。私の罪のために死んでよみがえられた主イエスを信仰によって信じ見ています。そして私の内側に生きておられると信じます。イエス様が「助け主を遣わします」と約束された聖霊が私の内に住んでおられることを信じます。イエス様が再臨されるときが近いことを信じます。将来、かならず私の目を通してイエス様を見ることができると信じます。「見ずに信じる者は幸いです」とは私たちに語られたことばです。

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