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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書1章18-25節「処女懐胎」


1.系図が示す処女懐胎

 系図についてさらに細かいことを述べるなら、マタイが記載したのは父ヨセフ方の系図であり、ルカが記載したのは母マリヤの系図だと考えられます。(系図表参照)
 マタイではダビデの次に記載されているのはソロモンですが、ルカではナタンになっていて、それ以降は全く異なる名前を連ねています。そして11節に注目すると、エコンヤという名が記載されています。
1:11 バビロン捕囚のころ、ヨシヤがエコンヤとその兄弟たちを生んだ。
 このエコンヤという人はエコヌヤ、又はエホヤキンとも呼ばれるイスラエルの王様でした。彼は南ユダ王国を滅びへと導いた悪い王様でした。彼の時代にバビロンの王ネブカデネザルが攻めてきて、エコンヤを含め南ユダ王国の人々はバビロンへ捕囚されました。聖書にはエコンヤついて厳しい預言があります。
エレミヤ 22:28-30 この人エコンヤは、蔑まれて砕かれる像なのか。だれにも顧みられない器なのか。なぜ、彼とその子孫は投げ捨てられ、見も知らぬ地に投げやられるのか。
地よ、地よ、地よ、【主】のことばを聞け。
「【主】はこう言われる。この人を『子を残さず、一生栄えない男』と記録せよ。彼の子孫のうち一人も、ダビデの王座に着いて栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」

 従って、キリストが生まれるのはエコンヤの子孫からではないことになります。もし、ユダヤ人がマタイの系図を読むなら、イエスはメシアであるはずがないと気がつくでしょう。では、なぜマタイは正直にエコンヤの名を載せたのでしょうか?それはキリストがヨセフからでなく、処女マリアから生まれてきたことを示したかったからでしょう。イエスの戸籍上の父親となるのはヨセフであり、ユダヤ人に対する系図としては父方の系図を記載したのですが、そこからキリストは生まれてきたのではないことをマタイは示しています。その証拠に16節で、「キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。」と書き加えています。
 もし、エコンヤについての預言に気が付き、真理を追究しようとするなら、その人は母マリアの系図を調べるはずです。そうすると、母マリアもアブラハム、ダビデの子孫として生まれ、彼女の系図にはエコンヤは含まれていません。マタイは系図に問題を持たせながら、キリストが処女懐胎によって生まれてきたことを示そうとしているのです。

2.処女懐胎の預言

 マタイは18節以降、イエス・キリストが処女マリアから生まれたことを記しています。
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。
1:21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。
1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。


 ヨセフとマリアは婚約中でした。ユダヤの婚約期間は約一年間だったようです。婚約中は結婚と同じように見られますが、同棲などはせず別々に暮らします。女性の純血を証明する期間だと言われています。その期間にマリアのお腹が大きくなってきたのですから、ヨセフは驚き、失望、落胆したことでしょう。内密に彼女を去らせようとします。律法の規定では婚約中でも他の男と関係を持つなら姦淫罪となり、石打ちによる死刑が定められています。もし、ヨセフがマリアを訴えたなら、マリアは死刑となったことでしょう。
申命記22:23-24 ある男と婚約中の処女の娘がいて、ほかの男が町で彼女を見かけて一緒に寝た場合、あなたがたはその二人をその町の門のところに連れ出し、石を投げて殺さなければならない。その女は町の中にいながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻を辱めたからである。こうして、あなたがたの中からその悪い者を除き去りなさい。
 ヨセフが訴えなくても、明るみになるならマリアは姦淫の女と呼ばれ、村八分にされるか、遊女として生きる道しかありません。ヨセフは彼女をそうさせたくなかったので、内密に去らせようとしました。夫婦の間で一番大きな問題は、この姦淫の罪です。マタイでは「ヨセフは正しい人であった」と記し、彼が取ろうとした行動を肯定しています。不倫をしたはずのマリアを訴えず、けれど夫婦として続けようともしませんでした。彼が取った行動は正しく、あわれみに満ちていました。

 このヨセフに夢の中で御使いが現れ、啓示を与えました。
1:20-21 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
 御使いの語りかけは「ダビデの子ヨセフ」でした。「ダビデの子」と呼ばれるのは新約聖書の中ではイエス様だけです。その言葉で呼ばれたのですから、ヨセフは神様が特別な啓示を与えようとしておられることを理解できたのでしょう。
 ※聖書では、呼び方で啓示の内容が示唆されることがあります。「アブラハムの子よ」と言う呼び方では「信仰」という概念が含まれます。「ヤコブの子よ」「イスラエルの子よ」という呼び方では「神が選ばれた民、契約の民」としての意味が含まれます。「ダビデの子よ」と呼ばれる時には「王国」と「救世主メシア」についての意味が含まれます。

「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。」と御使いはヨセフに告げました。処女懐胎の告知です。マタイによる福音書が人々のつまづきとなっているのは、書き出しの系図と処女懐胎だと言われます。肉体の関係なしに、どうして子が生れるのか?――常識人ならだれもが疑うでしょう。しかし、ヨセフもマリアも御使いの言葉を信じました。それは生きて働かれる神様を信じていたからです。「神にとって不可能なことは一つもない。」「神様が語られたことばは必ず実現する」という確信を二人は持っていたのです。
 御使いはヨセフが確信を持てるように、預言者イザヤのことばを示しました。
イザヤ 7:14 それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。
 ヨセフはこの御言葉によって神様のご計画を知り、神様がこの預言を実現しようとされていることを理解したのでしょう。彼のその後の行動は彼の信仰を明らかにしています。
1:24-25 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。

3.処女懐胎の意義

 イエス・キリストが処女マリアから生まれてきたことには大きな意義、目的があります。キリストがアダムの子孫として生まれてくるなら、「アダムの種」を継承して生まれてくるのであり、罪の性質を受け継いで生まれることになります。「アダムの種」と呼びましたが、旧約聖書のへブル語では、子孫という語と種(英語でseed)は同じ語であり、とても重要なキーワードとなっています。神様が天地創造されたとき、地上の生き物を「種ごと」に造られました。ですから、種から別の種へ変異することはありません。進化論はその原則を無視して、種を飛び越える突然変異があったと仮定しますが、現実では全くありえません。種は私たちが考える以上の莫大なデータ(遺伝子情報)によって成り立っており、それは次の世代へ必ず引き継がれます。
 もし、イエス・キリストがアダムの種によって生まれるなら、イエスは人間の性質を持ち、罪ある者として生まれてきたことになり、彼には人を罪から救うことが出来ません。罪人は罪人のために身代わりとなって死ぬ権利がないからです。罪がないお方だけが罪人の身代わりとなって死ぬ権利を持つことが出来ます。したがって救い主はアダムの種(子孫)から生まれることが出来ないのです。
 御使いが告げたのはその胎に宿っている子は聖霊によるです。キリストがアダムの種によらずに聖霊によって生まれるなら、彼には罪がなく、人を救うことが出来ます。ですからイエス・キリストは肉体としてはマリアから生まれた100パーセント人間ですが、聖霊によって生まれた100パーセント神であるお方だと言えるのです。これがイエス・キリストが処女懐胎によってお生まれになった理由です。

 カトリック教会の誤りの一つは、マリアを神聖化し、マリアに祈りをささげるようになったことです。マリアを神聖化するため、ヨセフと結婚後も一度も肉体関係を持つことがなかったと教えます。永遠の聖なる処女とし、祈りをささげる対象とするため、聖書のことばを曲げて解釈しました。しかし、聖書は次のことを教えています。
@ヨセフとマリアが関係を持たなかったのはイエス様が生まれるまででした。
1:25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。
Aイエス様には弟、妹たちがいました。
マタイ13:55-56 「この人は大工の息子ではないか。母はマリアといい、弟たちはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。妹たちもみな私たちと一緒にいるではないか。」
Bマリヤ自身、救い主を喜んでいる。
ルカ1:46〜48 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。」
C聖書のどこにもマリアに対する礼拝や祈りを教えていない。

4.赤ちゃんの名前

 赤ちゃんの名前について御使いの指示がありました。
1:21 「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
 イエスと言う名は「主は救い、主は救う」という意味です。旧約聖書に登場するヨシュア、ホセアのギリシャ語発音が「イエースース」で、日本語では「イエス」と訳されました。当時では珍しい名前ではありませんが、救い主として最もふさわしい名前だと言えます。
 さらに御使いはこの方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。と告げました。ここで啓示されたのは、イスラエル国をローマ帝国の支配から解放する救い主ではなく、「罪から救ってくださる」救い主だということです。

 また、引用されたイザヤの預言では「インマヌエルと呼ばれる」とあります。イエス様はその公生涯の中で一度も「インマヌエル」と呼ばれていませんが、この「インマヌエル」は彼の称号、肩書きのようなもので、彼がする仕事、働きの内容を表しています。「インマヌエル」とは、「神が私たちと共におられる」という意味です。イエス・キリストがお生まれになったことにより、神が人間の世界に来られ、共に住まれたことを示しています。それがインマヌエルです。また、キリストを信じる人の心のうちにキリストが共に住んでくださるという約束があります。(エペソ3:17)それがインマヌエルです。このことは私たちに旧約聖書の一つの記事を思い出させます。旧約聖書で、神様の名前として示されたのは「わたしはある、と言う者である」でした。ギリシャ語で「エゴーエイミー」です。ヨハネによる福音書中、イエス様が何度も語られた「わたしはいるのです」という言葉は同じ「エゴーエイミー」でした。
 クリスチャンがしばしば用いる言葉があります。「主が共にいてくださいます」――それがインマヌエルです。神が存在されるだけでなく、あなたと共にいてくださることを知るのは、何という幸いでしょう。そしてイエスという名によって私たちは罪から救われ、永遠のいのちと祝福をいただくことが出来るのは、何という神様の恵みでしょう。