本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書3章1-12節「バプテスマを受ける主イエス@」



3:1 そのころバプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べ伝えて、
3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言った。
3:3 この人は、預言者イザヤによって「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われた人である。
3:4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
3:5 そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

1.ユダヤ人のために

 著者マタイはユダヤ人のためにこの福音書を記しました。主イエスが約束されたメシアであることをユダヤ人に理解してもらうために、マタイは言葉を連ねています。
@系図を示し、イエスが正当なメシアの家系であること
A処女から生まれるというイザヤの預言が成就したこと
B異邦人である東方の博士らでさえ、イエスを礼拝に訪れたこと
C多くのメシア預言が成就したこと(ベツレヘムでの誕生、エジプトへの避難、ナザレ人と呼ばれる等)

 また、旧約聖書の預言によってユダヤ人の間では、メシアが来る前に預言者エリヤが再来すると信じられていました。
マラキ 4:5 「見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」
イザヤ 40:3 荒野で叫ぶ者の声がする。「【主】の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ。」

 ですから、マタイは3章でバプテスマのヨハネについて記し、彼こそ預言されたエリヤだと宣言し、これをもってメシア登場の舞台がすべて整ったことを示しています。

2.バプテスマのヨハネ


 バプテスマのヨハネはメシアの前に遣わされる預言者として特別な存在でした。旧約時代の最後の預言者であり、新しい時代への橋渡しをする人でした。イエス様は彼について次のように話されました。
ルカ 7:28 わたしはあなたがたに言います。女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はだれもいません。

 言わば、人類の中でもっとも偉大な人だというのです。ヨハネの偉大さはその働きの中に見ることが出来ます。彼は特別なしるしや奇跡を行なったとは書かれていません。単純に「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と説いたのです。彼はエリヤの霊と力を持って来たのに(ルカ1:17)、エリヤのように天から火を呼んだり、人を生き返らせたりはしませんでした。説教こそ彼の真骨頂でした。彼は一所にいたのではなく、伝道のためにヨルダン川沿いを歩き回って宣べ伝えました。ヨハネの説教は人々の間に広がり、イスラエルの全域から群衆がヨハネの元に集まってきて、その信仰と行いを悔い改めてバプテスマを受けました。

ルカ 3:3 ヨハネはヨルダン川周辺のすべての地域に行って、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 説教者にとって
バプテスマのヨハネは素晴らしい模範です。彼の質素な生活、キリストに対するへりくだった態度、それでいて人々にはへつらわない。彼の説教は、多くの人々の心の中に突き刺さり、悔い改めさせ、バプテスマを受けに来させました。霊的な暗黒時代にあったユダヤ人たちにリバイバルを引き起こしたのです。それでいてヨハネは高慢にならず、神様の栄光だけを求めた人でした。

3.バプテスマについて

その起源―― 「バプテスマ」という言葉は、旧約聖書の中には一度も出てきません。いつからバプテスマが行われていたのかも不明です。イスラエルにおいて異邦人がユダヤ教に改宗する場合に限り、罪を洗い清めるという意味で身体を水に沈める儀式が行われていましたが、こちらもいつから始まったか不明です。

 また歴史を調べると、紀元前2世紀ごろからバプテスマに似たことをエッセネ派と言うグループが行っていたことが知られています。エッセネ派はユダヤ教の一つで、俗社会から離れ、修道院生活を送っていたグループでした。イスラエルの死海の近くのクムランに拠点を置いていたとされます。その場所から有名な死海写本が洞窟から発見されました。エッセネ派は身を清めるために、毎日、全身を水に沈めていたことが分かっています。ヨハネが行なったバプテスマはこのような背景からであったと思われます。

その意味―― 現在、クリスチャンに命じられているバプテスマは、ヨハネが授けたバプテスマと意味も方法も異なります。ヨハネのバプテスマは、罪を悔い改めた証しとして受けたのですが、クリスチャンはイエス・キリストを信じ救われた証しとして受けます

その方法
―― ヨハネが授けた水のバプテスマは、ユダヤ教で行われていた形式で、受ける人が自ら水の中に沈む方法を採っていたようです。現在のクリスチャンが受けるバプテスマは、キリストと共に葬られ、キリストと共によみがえったことを表すために、バプテスマを授ける人が受浸者を沈めて起き上がらせる形式で行なっています。(※教派により違いがあります)

 聖書には沈め方の規定がないので、やり方は自由かもしれませんが、大切なことは水の中に沈められることであり、それがバプテスマの本来の意味です。バプテスマを簡略化して滴礼を採用している教会もありますが、聖書根本主義教会は聖書が教える礼典の簡略化を認めず、全浸礼(身体全体を水に沈める)を行います。聖書が教えている礼典は「水のバプテスマ」と「主の晩餐」の二つですが、その意味をよく理解し、命じられている通りに行なうべきでしょう。

[参照]出30:9 あなたがたはその上で、異なった香や全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げてはならない。 また、 その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。



4.パリサイ人等への説教


@厳しい非難
 バプテスマのヨハネの元に多くの群衆がやってきました。その中にはパリサイ人、サドカイ人と呼ばれる人たちもいました。ヨハネは彼らを見るなり、厳しい非難の言葉をかけています。
3:7 ヨハネは、大勢のパリサイ人やサドカイ人が、バプテスマを受けに来るのを見ると、彼らに言った。「まむしの子孫たち、だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

これほどまでヨハネが彼らを非難するのはなぜでしょうか?

 パリサイ人とは;律法に熱心であり、律法を徹底して守ることを主張し、律法を守らない者を罪人として非難したグループ。パリサイと言う言葉は「分ける」ことを意味し、律法を守る者と守らない者に分けたのでこう呼ばれた。

 サドカイ人とは;モーセ五書のみを重んじた。おもに祭司職を持った富裕層であり、ユダヤ最高議会サンへドリンの多数派でもあった。

 おそらく彼らはバプテスマを受けるためではなく、ヨハネを偵察するためにエルサレムの指導者たちから遣わされて、群衆に交じって来ていたのでしょう。次の聖書訳が参考になります。
参照:前田訳
「多くのパリサイ人とサドカイ人が洗礼のところへ来るのを見てヨハネは彼らに言った」
NIV;
But when he saw many of the Pharisees and Sadducees coming to where he was baptizing

※参照 ルカ福音書の次の箇所は、群衆に紛れたパリサイ人等に向けて語られたと受け取るなら合点がいきます。
ルカ 3:7 ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。

 パリサイ人らを「まむしの子孫たち」と呼び、ヨハネははじめからけんか腰です。また、のちに来られたイエス様もヨハネと同様、彼らに厳しい言葉をかけられました。なぜ、それほどまで非難されるのでしょうか?・・9節にその答えがあります。

3:9 あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:10 斧はすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。

 アブラハムの子孫、選民であることにあぐらをかき、神の前にへりくだろうとせず、言い伝え(口伝律法)を教えて人々を滅びへと導いているからです。それは新約聖書で言うなら、人を滅びへと追いやる異端の教師たちと同じです。ヨハネもイエス様も、彼らの心の内側にある高慢と愚かな考え違いを徹底的に非難されたのです。

Aキリストの紹介
3:11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。
3:12 また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめられます。麦を集めて倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

 ヨハネはキリストのことを旧約聖書の預言によって深く理解し、その確信は全く揺れ動きませんでした。ヨハネはキリストのことを「聖霊と火によるバプテスマを授けるかた」と紹介しています。聖霊のバプテスマは信仰者に対してであり、火のバプテスマは不信仰者に対してのものです。(12節参照)

 「あとに来られる方は自分とは比べものにならないほど偉大なお方だ」とヨハネは紹介し、「そのお方と比べるなら、私が授けている水のバプテスマは水遊びしているようなものだ」というニュアンスです。



 バプテスマのヨハネは、旧約聖書からキリストのことを調べ、キリストの来臨と栄光を確信し、キリストのことを心熱く人々に伝えました。現在の私たちと違うのは、ヨハネにとってキリストは未だ見ぬお方だったということです。そのイエス・キリストにお会いした時、ヨハネは心から感激し、喜び踊ったことでしょう。

 私たちにはキリストの生涯がはっきりと知らされています。キリストが語られたことば、キリストが行われたしるしの数々を聖書から知ることが出来ます。人の罪の身代わりとなり十字架に架かって死なれ、墓に葬られ、そして三日目によみがえられたという証言を聞いています。私たちはヨハネよりもはるかにキリストの生涯を知っているのですから、キリストの福音を信じ、弟子となって心熱く人々に伝えましょう。