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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書3章1-17節「バプテスマを受ける主イエスA」



1.水のバプテスマ

 バプテスマのヨハネは、史上最も偉大な人であり、キリスト来臨の道備えをした人です。彼がヨルダン川で授けた水のバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれるものでした。そのヨハネの元に、主イエスがバプテスマを受けるために来られました。

3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。

なぜ主イエスは水のバプテスマを受ける必要があったのでしょうか?

 ヨハネのバプテスマは「罪を悔い改めた証し」として受けるのに、悔い改める必要のないイエス・キリストが、なぜバプテスマを受けられたのでしょうか?イエス様に悔い改めるべき罪があったとでも言うのでしょうか?――ヨハネも理解できなかったので、イエス様に次のように質問しました。

3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」

 イエス様の次のように答えられました。
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。

 バプテスマを受けることは正しいことだからという理由です。けれども「ヨハネのバプテスマ」が罪を悔い改めた証しなら、なぜキリストが受ける必要があるのでしょう?――依然として疑問は残ります。人々へ模範を示すためとも考えられますが、それだけのためにバプテスマを受けられたとは考えられません。

答えは、ヨハネが授けた水のバプテスマの究極的な目的のためです
 ヨハネのバプテスマの目的は「
悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」です。それは「もうすぐメシアが来られるから、メシアを迎える準備をしなさい」という究極的な目的があります。したがってイエス様も「メシアとしての働きの準備」という目的を持って、ヨハネからバプテスマを受けられたと言えるでしょう。

 それを証明するかのように、4章からメシアとしての働き(公生涯)が開始されています。およそ30歳の時です。それまではヨセフとマリアの子として両親に仕え、ひたすら大工の仕事を続けておられました。そしてバプテスマを受けたことをきっかけに、メシアとしての働きをスタートされたのです。

 30歳という年齢を聖書の中で検索すると面白いことが分かります。ヤコブの息子のヨセフがエジプトでパロに仕えるようになったのが30歳でした。イスラエルの初代の王サウルが、王様になったのが30歳。ダビデが王様になったのも30歳。そして祭司として会見の天幕で奉仕する人は30歳から50歳までの人でした。(民数記4章参照)

 これらから、神様に仕える特別な働きは30歳からということが分かります。イエス様も30歳になられてから三年半と言われる公生涯をスタートされました。

 従ってイエス様がヨハネから水のバプテスマを受けられた理由は、「メシアとしての働きの準備」のためだと言えるでしょう。



2.聖霊のバプテスマ


 イエス様がヨハネから水のバプテスマを受けられると、不思議な出来事が起こりました。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 聖霊がくだり、父なる神の御声が天からありました。これは三位一体の神の啓示です。「神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られる」は、「聖霊のバプテスマ」と言われます。聖霊のバプテスマは私達にも起こることです。ただし、イエス様が受けた聖霊のバプテスマと私たちが受ける聖霊のバプテスマの意味や受け取り方は異なります。

 私達が受ける聖霊のバプテスマは、キリストを救い主として信じ、救われる時に起こります。聖霊が私たちの内に住んでくださるようになります。そしてそれは目に見えません。次の聖書箇所は聖霊の内住について記しています。

テトス 3:6 神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
Tコリント 6:19 あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。


 ここでも一つの疑問が生じます。
なぜ、イエス様は聖霊のバプテスマを受ける必要があったのでしょうか?

 イエス様は三位一体の神ですから、常に聖霊と共におられたのではないでしょうか?

答えは、これもメシアとしての働きの開始のためだと考えられます

 聖霊と一つであるイエス様に改めて聖霊が降ったことは、神様から油注ぎを受けたということでしょう。油注ぎとはイスラエルで王となる時に必ず行われる儀式でした。イエス・キリストもメシアとして、同時にダビデの王座に就くイスラエルの王として、働きを開始するためにどうしても油注ぎが必要でした。
 目に見える形で聖霊が注がれたことにより、人々に対して父なる神が御子イエスをメシアとして、またイスラエルの王として承認、宣言されたと言えます。


※霊的な目が開かれていない人には、三位一体の神を理解できません。しかし、聖書は私たちに父、子、聖霊が常に一つであり、天地創造の時から共に働かれていることを教えています。神様を人間の理屈で理解することはできません。

3.父なる神様の御心に従う

 イエス様が水のバプテスマを受けられ、聖霊のバプテスマを受けられたのは、メシアとしての公生涯の開始のためでした。その宣言を父なる神様がされました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」これ以上の宣言はないでしょう。イエス様は父なる神が愛され喜ばれるおかたです。それはイエス様が父なる神様のひとり子であり、御心に完全に従われるおかただからです。

 クリスチャンはイエス様の御足の跡に従う者です。イエス様が行われたように父なる神の御心に従うことが求められています。信仰を持っていれば、「バプテスマなど受ける必要がない、礼典など守る必要がない、教会へ集わなくてもよい」と考える人たちもいます。しかし、バプテスマを受けることは正しいことだとイエス様が教えられました。信仰は行いを伴ってこそ本当の信仰です。

 神様を信じているだけなら悪霊達でも信じて恐れています。違いは何かと言うなら、信仰者は神様の御心、みことばに従うことです。
・バプテスマを受けること
・毎日の食事と同じように御言葉の糧をいただくこと
・教会に集い、礼拝し、賛美し、祈り、ささげること
・福音を宣べ伝えること
どれも神様の明らかな御心です。

 バプテスマのヨハネは偽善者であったパリサイ人、サドカイ人に命じました。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」――あなたはクリスチャンとして実を結んでいるでしょうか?天国のゴールに入るときに、栄光の冠をいただくことが出来るでしょうか?

 以前、オリンピックでバドミントン競技の選手たちが失格処分を受けたことがありました。次の試合で強いチームとの対戦を避けるために、この試合は負けておきたいと考え、無気力試合を続けたためでした。彼女たちはスポーツマンシップに反する行為を犯しても賞を受けたいと考えました。私達も気を付けなければ、彼女たちと同じように、愚かな歩みのために賞を受けられなくなってしまいます。

 イエス様の十字架の贖いによって救われたことを感謝しつつ歩み、実を結ぶ者となりましょう。水のバプテスマを受けていないなら、その決心が出来ますように。罪を犯している人はその罪を捨て去ることが出来ますように。だらしない生き方を続けている人は、世の光として歩むことが出来ますように。