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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書4章1-11節「荒野での悪魔の試みT」

 3章では、イエス様がバプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられ、そして天の父から聖霊のバプテスマを受けられたことを学びました。それはメシアとしての公生涯開始のための準備でした。しかし、イエス様には公生涯に入る前にもう一つすべきことがありました。それは悪魔の試みを受けることです。

1、悪魔の試み


4:1 それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。

 イエス・キリストは荒野で悪魔の試みを受けられました。(※「試み」と「誘惑」は同じ原語ですので、その前後の内容によって試み(試練)と訳したり、誘惑と訳したりします。イエス様にとってこの箇所は試みですが、悪魔の立場では誘惑です。従ってどちらに訳してもよい言葉です。)

 悪魔とは英語でデビル、ギリシャ語でディアボロス、ヘブル語ではサタンです。本来の意味は「敵」あるいは「訴える者」です。つまり悪魔とは神に敵対する者であり、私たち人間を神に訴える者だと言えます。(ヨブ記参照)

 聖書が教える悪魔は、「堕落した天の御使いの長」と言う立場です。悪魔は天から地上に落とされ、「この世界を支配する者、空中の権威を持つ者」とされています。事実、この世界が創造者を忘れて霊的盲目になっていることは、悪魔がこの世界を支配している証拠です。サタンに従っている御使いたちを悪霊と呼びます。悪霊は人に取り憑いて気を狂わせたり、不思議な現象を起こして人々を不安に陥れます。悪霊の目的は、彼らの王である悪魔の支配の確立であり、そのため人々を惑わせ、神への信仰を阻むのです。

 では、神様はなぜ悪魔、悪霊の存在を許されているのでしょうか?――聖書には直接的な答えはありませんが、人間に自由意思を与えられているように、御使いたちにも自由意思を与えられているというのが理由でしょう。そして、どんな人にも生きる意味と目的があるように、悪魔悪霊にもその存在の意味と目的があるのです。

 イエス様が公生涯の前に悪魔の試みを受けられた目的は、世界を支配する悪魔との直接対決と言えます。イエス様自身が後に次のように教えられています。

12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。


 強盗の例話を用いて悪霊追い出しの説明をされた箇所です。義なるイエス様が、強盗の手口を教えておられるのには驚きです。強盗を容認されているかのようですが、ここで語られている論点は、強盗の良し悪しではなく、この世界を支配している悪魔の手から人々を奪い返すためにイエス・キリストは来られた!ということです。

 イエス様が宣教を開始するにあたり、まず、世界の支配者である悪魔と戦い、霊的勝利を得ることで、その勢力を抑えることが出来る――これが「悪魔の試み」を受けられた目的です。

2、四十日四十夜の断食

4:2 そして四十日四十夜、断食をし、その後で空腹を覚えられた。


 イエス様は悪魔の試みを受けるために荒野へ上って行き、40日40夜、断食されました。荒野へ行かれたイエス様のもう一つの目的は祈るためだったと考えられます。公生涯に入るための霊的準備です。すべてのことに先立って祈られたイエス様にとってこの40日間はとても貴重な祈りのときであったに違いありません。

40と言う数字は、聖書の中で幾度も出てきます。
・ノアの洪水時、雨が降り続いた日数
・モーセが十戒をいただくためにシナイ山にいた日数
・イスラエルが出エジプト後に荒野に滞在した年数
・預言者エリヤがアハブ王の妻イゼベルを恐れてさまよった日数---など

 これらのことから40という数字は「試練の時」「神の導きを待つ期間」として聖書は用いていることが分かります。

断食について
 旧約聖書では、悔い改めの時や嘆き悲しむ時などにも断食が行われていますが、聖書全体を通して教えられているのは、断食は祈りに専念するためです。(ルカ5:33、使徒13:3、使徒14:23参照)

 ですから、特別な祈りの必要があるときには断食することをお勧めします。ただし、イエス様が行なわれたからと言って、40日間断食に挑戦することはお勧めできません。と言うのは、長期間に及ぶ断食を、断食に慣れていない私たちが急に行うなら、体を壊したり、脳に障害をもたらしたり、最悪、いのちを落とすことになるからです。長期間の断食を行うためには正しい断食の仕方の知識と経験を持っていなければなりません。

 断食に入るときには急に食事を断ってはいけません。また断食を終えたとき、急にご飯をほおばるのも、いのちを縮めることになります。断食前は次第に食事を減らし、断食後は同じくらいの日数をかけて元の食事に戻さなければならないと言われています。ですから、断食をこれから始めたいという人は、一食断食、一日断食から始めるとよいでしょう。

 また、断食を肉体の苦行のように考えて行うのは意味がありません。それは主の御心ではないからです。なぜなら、断食を修行のように行うなら、人間的なおごりが出てきて武勇伝のように自慢したり、断食によって自分がさらに清められたと勘違いしてしまうからです。また、「肉体を痛めつければ神様が私を憐れんで願いを聞いてくださる」という考えは異教的であり、神様の御心ではありません。純粋に祈りに専念するために行うことが断食の目的であることを忘れてはいけません。

 また、仕事をしながら長期間、断食するのは勧められません。仕事をするにはエネルギーが必要です。食事を取らないとエネルギーは補給できません。当然体を痛めることになります。ですから断食は、祈りに専念することのできる環境を整えてからと言えるでしょう。正しい断食はその人に神様の大きな祝福を与え、肉体的な健康をも与えるのです。

3、悪魔の第一の試み

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」


 悪魔の最初の誘惑の言葉です。悪魔の言葉は誘導尋問のように悪賢く、イエス・キリストを神の御心から外れさせ、罪を犯させようとしました。

@食欲を満たすために奇跡を行え
 これは40日間断食をしている主イエスにとってはとても厳しい誘惑でした。しかし空腹から逃れるために奇跡を行うことは、食欲に負けて断食祈祷を止めることになってしまいます。断食を始めるのも止めるのも神様の御心の時でなければなりません。肉の欲に負けることは罪を犯すことです。

A神の子だと証明したいなら、奇跡を行え

 神の子であることを人々に信じてもらうことはイエス様の願いでした。証明しろと言われたならすぐにでも奇蹟を行えたはずです。神の子だと証明し、断食の苦しみから解放されるなら一石二鳥でしょう。しかしそれは父なる神の御心ではありませんでした。神の御子が人となられた目的を捨てることになってしまうからです。

4、イエス様の答え

4:4 イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

 このイエス様の答えはあまりにも有名です。申命記8章3節を引用されました。
申 8:3 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は【主】の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。

 これは、モーセに率いられ出エジプトを果たしたイスラエルに対して語られたことばでした。イスラエルが荒野で飢え、乾いたときに彼らは不平不満を言い出しました。エジプトから持って来た食料が底をついてしまったからです。その時、神様が天からマナを降らせてくださったのは、神様の恵みによって彼らが生かされていることを知るためでした。

 イエス様の答えは、私たち人間にとって何が本当に大切なことかを教えています。

@パンだけで生きるのではない!
 多くの人がパンだけのために生きようとしています。おいしいご飯を食べ、お腹を満たして眠れるのは幸せなことです。きれいな服を買って着れることはうれしいことです。広くて清潔な家に住むことは快適です。世の人はそれらのパンを買うために額に汗を流して働いているのです。しかしパンだけで人は本当の幸せをつかむことは出来ません。

 その証拠に、病気や事故によって持っているものを失ってしまうと、その人はどん底に落ちてしまいます。(イスラエル人が食糧が無くなった時、不平不満を言ったように)人は与えられたら喜び、失ったら悲しむ――この繰り返しです。その様な人生に本当の平安はありません。人は死ぬ時にはそのすべてを取り去られるのですから、パンだけを求め続けて生きることは、空しい人生なのです。あなたにはもっと大切な生き方があります。

A神の口から出る一つ一つのことばによる!
神のことば」こそ、人を生かし、満たし、幸せにすることができます。「神のことば」をしっかり握っている人は、パンを与えられても失っても感謝することが出来ます。パンに望みを置いていないので、パンを失っても平安を持ち続けることが出来ます。

 天からのマナを与えられたイスラエル人が学ぶべきは、彼らが神様の恵みによって生かされていることでした。ですから私たち人間が知るべきは、人は自分で生きているのではなく、創造者によって生かされ、目的を与えられていることです。その目的とは「神のことば」を受け取り、神の御心を知り、神の栄光のために生きることです。