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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書4章1-11節「荒野での悪魔の試みU」

 荒野における悪魔の試練は、イエス様と悪魔との直接対決の場面です。私たちはこの箇所から多くのことを学ぶことが出来ます。特に誘惑に対して私たちがどのような態度で対処していくべきかを知ることは重要です。

一、第二の試み
 5-7節

4:5 すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、
4:6 こう言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」

 「聖なる都」とはエルサレム以外に考えられません。ヘロデが立てたエルサレム神殿の頂は約50メートルもの高さだったようです。飛び降りるなら必ず即死する高さです。その場所で悪魔はイエス・キリストに「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい」と誘惑したのです。
※エルサレムの神殿が選ばれたのは、そこがイスラエルのすべての中心であり、多くの人々が集まる場所であったからでしょう。その頂から飛び降りて助かるなら、人々の賞賛と羨望の的になるはずです。

悪魔の策略は、
@「あなたが神の子なら」と誘惑した
 第一の試みの時には、「神の子であることを証明してみなさい」と言うものでしたが、ここでの趣旨は異なります。「あなたが神の子なら父なる神様はあなたを愛しているはずでしょう。それならどんな事があっても守ってくれるはずでしょう!身を投げて、父なる神様の愛を証明しなさい!」と煽るのです。それは悪魔がエバをそそのかした時の言葉と似ています。
創世記 3:3-5 しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」

 言い換えるなら、「神様はあなたがたを愛しているのだから、神様は決してあなたを死なせないはずです。木の実を食べてみなさい。」と誘惑したのです。つまり、「神は愛ですから、あなたに災いが降りかかることなどありえない」と教えたのです。確かに神様は愛なる神であり、すべての罪をキリストにあって赦して下さいますが、罪の生活を続けることや御言葉に従わないことを容認してはおられません。また、私たちを訓練するために与えられる試練もあります。ですから、神様の愛を履き違えてはいけません。信仰を持てば楽な生活が出来るのではありません。クリスチャンであっても病気にかかるし、事故にも遭います。それでも神様は変わらぬ愛をもって私たちを導いておられるのです。

A神を試しなさい、と誘惑した
 「神様が本当にあなたを守ってくれるのか?御言葉の約束は間違いないのか?間違いないと信じるのなら、実証してみなさい!」とそそのかします。神様の約束を試しなさいという誘惑です。私たちは知らず知らずのうちに神を試しているときがあります。
「あなたは全能者なのに、どうして私の病気をすぐに癒してくださらないのですか?」
「これから私はあなたに従いますので、今の私の願いを聞いてください!」
断食して祈るなら、
「断食してまで祈っているのですから、どうか必ず私の祈りを聞いてください」
という形で現れます。
 なぜ人は神を試そうとするのでしょうか?――その答えは、私達が不信仰だからです。神の愛はいつも示されているのに、それを信じないで、目に見える形で神様の愛を体験しなければ満足できないからです。しるしを求める信仰はいつまでも神様のしるしに頼り、御言葉に頼ろうとはしません。神様を試し続けているのです。

 聖書の中で、唯一、「神様を試してみよ」と容認されている箇所があります。
マラキ 3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
 聖書の中で十分の一のささげもの(十分の一献金)は特別です。それをささげる人に神様は祝福を注いでくださいます。「神様の祝福が自分にはないと思うなら、それを確実に受け取る方法が一つだけあります。十分の一献金をささげてみなさい」・・これがマラキ3章10節の約束です。ただし、この御言葉をもって新約時代の教会が十分の一献金を制度化することには疑問が残ります。

B聖書のことばを用いて誘惑した
 この悪魔の策略は狡猾です。詩篇91篇のことばを用いています。
詩篇 91:11-12 主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。
 悪魔も聖書のことばを知っていて、それを誘惑のために利用しました。ここに聖書のことばの間違った用い方を学ぶことが出来ます。それは自分の生活のために都合のよい御言葉を選んで用いることです。自分の考えを擁護するためにぴったりのことばを選ぶのです。私たち信仰者は気をつけなければなりません。確かに「御使いがあなたを守り、あなたの足が石に打ち当たらない」と約束されていますが、それは神様を信頼し、「私の避けどころ、私の砦」と告白する人に対する神様の祝福と守りを描いています。「神を試すため実際に飛び降りても大丈夫だ」とは書いてありません。

 「
自分に都合のよい御言葉の用い方」の一例をあげるなら、偶像礼拝に加担すべきかを悩んでいたナアマン将軍に対して預言者エリシャは次のように言っています。
U列王記5:19 エリシャは彼に言った。「安心して行きなさい。」
 このことばはどういう意味でしょうか?偶像礼拝に加担しても大丈夫です、と言う意味でしょうか?・・もちろん、そうではありません。聖書は初めから終わりまで、「偶像を拝んではならない。偶像礼拝を避けなさい。」と命じています。しかし、エリシャのことばを自分の都合の良いように受け取るなら、「神様は優しいお方だから、信仰を持っていれば多少偶像礼拝に加担しても大丈夫だと言っておられるのだ」となってしまいます。
 ですから聖書の一節だけを取って、自分の考えを擁護するために利用することは避けるべきです。御言葉の正しい用い方は、その聖句の前後をよく読んで御言葉の意味を正しく理解し、聖書全体を通して語られている神様の御心に従うことです。

悪魔に対する主イエスの答えは
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」
 これは申命記6章16節の御言葉でした。
申命記 6:16 あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である【主】を試みてはならない。
 マサという場所で起こった出来事を読むと、さらに理解の助けになります。
出エジプト17:7 それで、彼はその場所をマサ、またメリバと名づけた。それは、イスラエルの子らが争ったからであり、また彼らが「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。
 イスラエルがエジプトを脱出した後、荒野で水がなくなってしまいました。喉がカラカラになった群衆はモーセに詰め寄り、争いました。それは「神様が共におられてエジプトを脱出させてくれたと言うのなら、今すぐ水を出してみろ」という強迫でした。「神様がおられるのなら、しるしを見せてくれ!そうすれば信じるから。」という浅はかな信仰です。そしてこの不信仰を旧約の申命記はすでに戒めていたのです。

 イエス様の悪魔に対する答えは、御言葉を正しく解釈することの大切さを教えています。一節だけ、一語だけで解釈するのではなく、聖書全体を通して神様の御心をよく理解したうえで解釈すべきです。そして、すぐに神を試そうとする私たちが陥りやすい不信仰に対する警鐘となっているのです。

二、第三の試み 8-11節

4:8 悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、
4:9 こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」

@権力、名声、富の誘惑

 悪魔の最後の誘惑は、最も分かりやすいものです。「〜をあげるから、私の言うことを聞きなさい」です。親が子供によく使う方法ですが、この箇所を学ぶと親は反省させられます。子供が親に従うのは当たり前であって、物欲しさのために従わせるのは、親の権威より物を求める欲求を優先させることになります。
 悪魔が差し出したものは、全世界の支配とそこにあるすべての物でした。一般人ならこれほどおいしい話はありません。その代償は何かと言うなら、「ひれ伏して私(悪魔)を拝みなさい」でした。ギリシャ語を見ると、「拝むなら」は一度の行為を指しています。つまり、「一度でいいから私を拝め。そうすればすべての支配をあなたにあげよう」と言う誘惑です。私達にもこのような誘惑はなんと多いことでしょう。仏式の葬儀に参列する時に、クリスチャンは常に試練に遭います。家族や親戚から、「形だけでいいから手を合わせてくれ。一本でいいから線香をあげてくれ!」と半ば強制的に頼まれます。サタンの言葉と似ているでしょう。「一度だけなら・・」という誘惑です。もし断れば迫害です。迫害を避けるために「線香を一本だけなら・・。憎まれることをするのはクリスチャンとして証しに悪いし・・」と考える人もいます。

しかし、イエス様の答えは単純明快です。
4:10 そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」
――申命記6章13節からの引用でした。どれほど多くのものを得ることが約束されていても、どれほど人から賞賛を受けることでも、主の御心でなければ愚かな選択です。一度だけでも、形だけでも悪魔の言葉に従うなら、私たちの信仰生活は敗北となってしまうのです。

A十字架抜きという誘惑
 悪魔の誘惑の言葉に隠されている策略は、イエス・キリストを十字架に架けさせないということでした。イエス・キリストに罪の贖いをさせないように仕向けたかったのです。「十字架という苦しみを受けなくても、安易な方法でこの世の支配者となれるのだから」と、イエス・キリストを陥れようとしました。悪魔が最も嫌ったことは、キリストの十字架によって罪の赦しが与えられることです。なぜなら、悪魔は人間を神に「訴える者」だからです。そして己の行先である永遠の地獄に私達を引き込みたいのです。しかし十字架によって罪の赦しが与えられたら、悪魔の働きは無に帰してしまいます。ですから、何としてもキリストを十字架に架けさせたくなかったのです。

※この後、悪魔がペテロに働いた時も、またイスカリオテ・ユダに入った時も、同じ目的だったと言えるでしょう。ユダに裏切らせた目的は、十字架に架かる前にイエスを殺すことでした。真夜中に祭司長たちが遣わした群衆・役人たちと争わせてイエスを殺そうとしたのです。しかし、イエス様が争うのを止められたため、悪魔の策略は失敗に終わりました。参照;
ペテロについてーマタイ16:21-23、ユダについてーマタイ26:3-4、52

 この悪魔の策略は、三つの誘惑に共通するものです。イエス・キリストに罪を犯させることが出来なければ、十字架抜きでイスラエルの王、世界の支配者とすることを悪魔は策略したのです。

 悪魔の三つの誘惑に対するイエス様の答えは、すべて聖書の申命記のことばでした。このことは私たちに、御言葉こそが誘惑に対する勝利の秘訣であることを教えています。神様のことばをよく学び、それに従う心を持つとき、悪魔の策略に対抗することが出来ます。そして、さらに誘惑に打ち勝つ秘訣をイエス様は教えられました。それは祈りです。
マタイ 26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
 したがって、
悪魔の誘惑に打ち勝つ方法は、御言葉と祈りによるのです!

4:11 すると悪魔はイエスを離れた。そして、見よ、御使いたちが近づいて来てイエスに仕えた。

 御言葉に従う人に対して悪魔はなんの力も発揮することができません。そして主イエスを信じる信仰者には御使いが同じように仕えてくれるのです。