本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書4章12-25節「宣教を開始されるイエス」

 イエス様は宣教を開始するにあたり、水と聖霊のバプテスマを受けられ、そして悪魔の誘惑を受けられました。そしていよいよイエス・キリストの宣教が始まります。世の救い主として神が遣わされた御子の福音宣教の開始です。

1.宣教開始


4:12 イエスはヨハネが捕らえられたと聞いて、ガリラヤに退かれた。
 
いつ?――バプテスマのヨハネが捕らえられたという知らせを聞いてイエス様はガリラヤへ行かれます。この事が宣教開始のきっかけであったことをマタイは示しています。ヨハネは旧約時代最後の預言者であり、メシア来臨のために道備えをした人でした。その働きが終ろうとしていたことを知り、イエス様はいよいよご自分の時が来たことを悟られたのです。およそ30歳の時でした。

4:13 そしてナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある、湖のほとりの町カペナウムに来て住まわれた。
 
どこで?――イエス様が宣教の拠点として最初に選ばれたのはカペナウムでした。エルサレムから遠く離れた(直線距離約120キロ)田舎町、漁師の町でしたが、ガリラヤを含むこの地域では最も人が多く行き交う場所でした。イエス様の宣教はここから始まり、エルサレムは最終地点でした。
 新しい教えを広めようとするなら、最も人が多く集まる首都エルサレムで開始することが当然でしょう。イエス様の兄弟たちもそのように考えました。
ヨハネ 7:3-6 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。」
 イエス・キリストは常にご自分の「時」を知られ、父なる神の御心に従って行動されました。イエス様の最終目的地が神の都エルサレムであり、そこで十字架に架かる事が来臨の目的でした。

(参考:ヨハネによる福音書では初期ユダヤ伝道があったように記されていますが、ヨハネは出来事の順序よりも内容に重点を置いてまとめています。そのため初期ユダヤ伝道の有無に関しては、議論の余地があります。マタイによる福音書を含む共観福音書では、エルサレムは最終目的地であり、エルサレムを見据えて伝道されていくイエス様の姿を著わしています。)

 また、エルサレムから離れたこの地域において宣教が開始されることは、イザヤ書9章1-2節の預言の成就であったことをマタイは記しています。
4:14 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
4:16 闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」


 イスラエルの北方領土は、アッシリア帝国によってイスラエル住民が捕らえ移され、荒れ果てた地域でした。イスラエル人にとってこれらの地域は悲しい歴史の場所であり、祝福のない暗い場所でした。しかし、その場所に住む人々の所に救い主キリストが来られたのです。彼らは「偉大な光を見て」、彼らの上に「光が上った」のです。

4:17 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
 
何を?――主イエスは「天の御国」の福音を宣べ伝えられました。これはバプテスマのヨハネが宣べ伝えた事と同じです。ただし、ヨハネは後に来られるお方が「天の御国」をもたらされると預言したのに対し、イエス様は御自身が「天の御国」をもたらすお方でした。
※参照「天国」と「天の御国」の違い
 「
近づいた」とは、「すぐそこに来ている」という文法表現です。しかし、後にイスラエルはイエス・キリストの福音を拒絶したゆえ、王国は延期されてしまいました。キリストが支配する王国が立てられるのは教会時代の終わりであることが預言されています。(参照:ルカ13:35、ローマ11:25-27、黙示20:4)

 イスラエルが神の王国に入るために必要なことはただ一つでした。それは彼らが「悔い改める」ことです。罪の一つ一つを悔い改めることも必要ですが、もっとも大切なことは不信仰を悔い改めることです。唯一の創造者である神様がおられることはイスラエル人の誰もが認めていることでした。しかし、神様を知っている事と信仰を持つことは、似ていますがまったく別です。高速道路を100キロ以上で走ってはいけないと知っている事と、それを守ることは違います。神様を知っていても、罪の生活を続けることが出来るのです。イスラエルは悔い改めるどころか、神が遣わした御子を十字架に架けて殺してしまいました。それ故、彼らから王国の祝福は取り上げられ、延期されてしまったのです。

2.弟子たちの召命

4:18 イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
4:20 彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。
4:21 イエスはそこから進んで行き、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと一緒に舟の中で網を繕っているのを見ると、二人をお呼びになった。
4:22 彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。

(参考;この出来事の前にイエス様はナザレに帰られ説教をされています。ナザレ訪問前にすでに多くのしるし、病人の癒しを行われていました。しかし、ナザレで迫害に遭い、カペナウムに戻られています。4:13、ルカ4:16〜参照)

@なぜ漁師たちを?
 宣教を開始されたイエス様は早い段階で12弟子たちを集められ、使徒として任命されました。この聖書箇所はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがイエス様に召される場面です。注目すべきは、彼らが漁師たちであったことです。これから御国の福音宣教を開始するにあたり、皆さんならどういう人たちを集めたいでしょうか?――宣教を進めやすいように、律法の専門家や、人望のある人、管理能力のある人、弁論に長けた人、特別な才能を持った人などを集めようと思うはずです。しかし、イエス様が選ばれたのは普通の労働者の人たちでした。律法の知識も十分でない漁師たちでした。良い点があるとしたら体力くらいです。長旅に耐える体力があることは重要なポイントだったかもしれません。それでも理解に苦しむ人選です。しかし、福音書を読み進めていくと、次第に理由が分かってきます。弟子たちの無知や失敗、性格の弱さ、不信仰などを通してたくさんのことを教えられます。「私と同じだ」と共感します。その彼らをイエス様は見捨てず、彼らのために祈られたことを知るときに、主イエスは私の事も見捨てず、私のために祈ってくださるおかたであることを知ります。無に等しい私をも主の御用のために用いてくださることを教えられます。

わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。という呼びかけは、漁師であった彼らにぴったりのことばでしょう。主イエスのことばは彼らの心の琴線に響いたに違いありません。漁師は自分が生きていくために魚を捕るのですが、福音宣教は釣り上げた人々を生かすのです。
 牧師の説教も人を生かす働きです。少しずつそのことが分かるようになってきました。今までは自分の信仰を言い表し、自分の仕事として説教してきた様に感じます。しかし、説教は聞いてくださる人のための奉仕です。私が評価されるのではなく、説教を聞いた人が、御言葉を受け入れ、その信仰を強められ、ますますキリストの愛に満たされていくためです。

 (参考;ペテロたちがイエス様にお会いするのはこの時が最初ではありませんでした。アンデレはもともとバプテスマのヨハネの弟子でしたが、ヨハネがイエス様を見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と叫んだ時から、イエス様に付いていったことがヨハネ1章に記されています。そしてアンデレは弟のペテロをイエス様のもとに連れてきました。※ペテロたちの姑の癒しの記事は、ルカ福音書では召命の前のことですが、マルコでは召命の後になっています。また、ルカ福音書5章に詳しい召命記事があります。従ってペテロたちは何度かイエス様に会っており、メシアとしての働きを始められているのを知っていての召命でした。)

A弟子たちの献身
 イエス様の招きに対して、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはすぐに応答しました。その献身は実に見事でした。ペテロとアンデレは「彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。」、ヤコブとヨハネは「彼らはすぐに舟と父親を残してイエスに従った。
 網を捨てるのは、仕事を辞めることです。生活の基盤を失うことです。彼らは「イエス様に従っていけば何とかなる。大丈夫!」だと信じたのでしょう。「舟と父親を残して」というのは、自分が今まで携わってきた一切の仕事や人間関係、しがらみを捨ててイエス様に付いて行ったということです。言葉が悪いかもしれませんが、「親を捨てて宣教に出かけた」のは、一般世間から見れば親不孝であり、非常識だと非難されます。しかし、イエス様があなたを召命されるなら、御声に従うべきです。自分が今まで手に持っていたすべてを捨てて従っていく覚悟が必要です。その覚悟が出来なければ献身などと言わないほうがよいでしょう。
 すべてのクリスチャンが福音宣教のために献身するのではありません。それを求められる人だけです。しかし、召命されたときにはすぐに従えるよう準備をしておきましょう。使徒パウロは徹底的に献身という中に自分の身を置いて歩んだ人でした。その書簡を読むときに心して読まなければ、パウロの言葉は単なる理想主義だと受け取ってしまう事になります。
ピリピ 3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。
ガラテヤ 2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。


 イエス様こそ徹底的に献身しておられたお方であり、私たちの信仰の模範とすべきお方です。父なる神を愛し、その御心にしたがって人々を愛し、人々の罪を背負い、身代わりの死を遂げるため十字架の道を歩まれました。御心に従おうとするときには犠牲を払うことを躊躇したり恐れてはいけません。「私を用いてください」という祈りはすべてのクリスチャンにとってふさわしく、素晴らしい祈りです。イスラエル人の不信仰を教訓とし、どうか主の御心に従って歩んでください。