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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書5章1-12節「心のきよい者は幸いです」


 イエス・キリストの初期の伝道は、ガリラヤ湖畔にあるカペナウムを拠点として始められました。マタイ4章23節以降にその働きが記されています。
4:23 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。
4:24 イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒やされた。
4:25 こうして大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、およびヨルダンの川向こうから来て、イエスに従った。

 イエス・キリストが宣べ伝えられたのは「御国の福音」でした。そして、ご自身がその御国の王・メシアとして来られたのです。病人を癒すしるしはメシアとしての力の証明でした。将来の千年王国においてはすべての病人は癒され、長寿となり、平和な生活を送ります。義なる王キリストが支配されるからです。ガリラヤでイエス・キリストがすべての病人を癒されたのは、その王国の前触れでした。田舎町から始められた福音宣教でしたが、そのしるしにより、瞬く間にイエス・キリストの名声は広がり、大勢の群衆が集まりはじめました。その数は何百人、何千人、何万人と膨れ上がりました。

1.山上の垂訓

5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
 この群衆を見て、イエス・キリストは山に登られ教え始められました。著者マタイは主イエスが語られた説教を5〜7章にまとめています。山上の垂訓と呼ばれる聖書箇所です。「この山上の垂訓は、世界のすべての教えの中でダイヤモンドのように輝いている」とある注解者は記しています。
イエスは口を開き」と、ここから重要な教えが始まることを示し、八つの「幸いな人」について教え始められました。(八福の教えと呼ばれています)

@5:3 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

 心の貧しい者とは、一般的には心が狭い、卑しいという意味と受け取られます。しかし、そういう意味で語られたのではないことは明らかです。主イエスが語られた「心の貧しい」とは、「満たされていない心、求めている心」に近いでしょう。
 ルカ18章9-14節を参照します。
18:9 自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために宮に上って行った。一人はパリサイ人で、もう一人は取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております。』
18:13 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」

 このたとえに登場するパリサイ人は、お金も名誉もあり、行いも立派で非の打ちどころのない人です。何も求める必要がありません。彼は心の富んだ人です。反対に取税人は、自分の心の汚さに悩み、宮にも上れず、目を天に向けることもできず、自分の胸を打ちたたきながら神様のあわれみを願い求めています。彼は心の貧しい人です。このような人こそ幸いだと教えられているのです。

 山上の垂訓を聞いていた群衆の中には、貧しい人たち、多くの病人がいて、イエス様に助けを求めていました。自分の弱さを知り、神様に求めていました。もし人の心がこの世のもので一杯になっていたなら、神様の救いを求めはしません。自分の弱さ、罪深さを嘆き、救いを求める人だけがその救いを見い出します。その人は天の御国へ入ることが出来るのです。その人は幸いな人です。

A5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
 これも逆説的な教えです。悲しむ人は幸いであるはずがないのに幸いだと教えられています。何を悲しむのかという事が大切です。人は何を悲しむでしょうか?――お金がない、名誉がない、才能がない、美しい顔がない・・という悲しみがあります。人によっては切実な悲しみであり、「あなたは幸いですね」と言うなら怒りを買います。しかし、それらより私たちには悲しむべき事があります。それは、先ほどルカ福音書に登場した取税人の悲しみだと思います。取税人は自分の罪を悲しみました。天に目を向けることもできないほど罪人である自分を嘆き悲しみました。そのような人だけが罪を赦され、慰められるのです。
 また、自分の罪だけでなく、人々の罪を悲しむことも含まれるでしょう。多くの人々が神様に背を向け滅びへと向かっているのは悲しいことです。イエス様は滅びゆくイスラエルのために涙を流されました。人々のために悲しみ、その救いを祈る人は幸いです。

B 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
 柔和とは弱い人のことではありません。旧約聖書の中ではモーセが最も柔和な人であると記されています。彼はイスラエル人の不平不満、つぶやき、怒りを浴びせられました。その時に彼がしたことは、神様の前に告白し、彼らの罪の赦しを求めました。ここに彼の柔和さが現れています。
 新約聖書で柔和な人といえば、文句なしにイエス・キリストです。罪人の身代わりとして自らを犠牲にし、うらみ言のひとつも言わず、十字架上でいのちをささげられました。イエス・キリストはまさに柔和なお方でした。柔和な人は神様から大きな報いを受けます。その人は幸いな人です。

C 5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
 「義に飢え渇く者」とは、人間の不十分な正しさでは満足できない人です。人間が持つ不義や不公平、悪と汚れを心から悲しみ、正義が支配する世界を持ち望む人です。それは神の完全な義を愛し、神の義の実現、つまり神の国が地上で実現されることを願う人でしょう。「御心が天で行われるように地上でも行われますように」と祈る人です。神の国は必ず実現されるのですから、その人は必ず満ち足りるようになります。そして義に満ち足りるもう一つの方法があります。それは犯したいっさいの罪の赦しをいただくことです。イエス・キリストの十字架の贖いによって罪を赦され、神の義を与えられるとき、人は義に満ち足りるようになります。

D 5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
 「
あわれみ深い者」とは、どういう人でしょう?――今度はマタイ9章の記事を参照します。
9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

 イエス様の教えから分かることは、「
あわれみ深い者」とは、罪人や弱い人、貧しい人を受け入れ、助ける人のことです。あわれみの心を持っていない人には神様のあわれみも与えられません。私たちが救われるのも、生かされるのも神様のあわれみによるからです。
Tヨハネ 3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。

E 5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
 「きよい」という語は「汚れていない、純粋な」という意味です。きよい心を持っている人は、この世では赤ちゃん達だけでしょう。誰も自分で自分をきよいと言える人はいません。心がきよい人になるには、ただ一つの方法しかありません。神様の聖霊によって心を洗い清められることです。旧約のダビデはこのことを理解し、次のように告白しています。
詩篇 51:10-11 神よ、私にきよい心を、造り揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から投げ捨てず、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください。
 聖霊を内に宿す人たちは心のきよい人です。そのきよさを保つ方法は罪の告白によります。その人は幸いです。必ず神を見るからです。

F 5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
 日本は世界の中でも平和な国、安心な国です。でも天国へ皆行けるかといえば、まったく違います。日本人の保つ平和は、争いを起こさない、面倒を起こさない、面倒なことに首を突っ込まない、という事です。そのため自己主張しない、問題は先送り、白黒付けないのです。
 イエス様の教えは「平和をつくる者」です。本当の平和は人々の心が変わらなければあり得ません。人々の心を変えることが出来るのは、神のことば以外にありません。神のことばによって私たちは
神との平和を持ち、そして人との平和のために働くことが出来ます。そして究極的な平和は神の国(千年王国)で実現されますが、その実現のために働く人は神の子どもと呼ばれるのです。

G5:10-11 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
 義というのは「神の義」です。人間が作りえる義はありません。パウロは「福音には神の義が啓示されていて」と書き、福音を宣べ伝えることによって神の義のために働きました。
ローマ1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
 パウロは福音を宣べ伝えたために迫害を受けました。「義のために迫害された」のです。神の福音のために働き、迫害される人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。群衆に対してイエス様は山上の垂訓を語られましたが、特に召された12弟子たちに対してこれらの教えは向けられています。彼らがのちに福音を宣教するようになり、迫害されることを知っておられたからです。それで、
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
と教えられました。福音を宣べ伝え迫害される人々に、神様は最大の報いを与えられるのです。

2.垂訓の意義

@天の御国へ入る人は幸い
 「八福の教え」には「天の御国」つまり神の王国へ入る人は幸いな人である、という前提があります。これは「御国の福音」だからです。神の国に入ることに比べるなら、今の一時的な悲しみや迫害は取るに足らないことであり、神の国のために苦しんだ人ほど報いが大きいことを約束されているのです。

A十戒の正しい解釈
 当時のユダヤ人たちの間では「幸いな人」とはどういう人たちと考えられていたでしょう?――それはモーセの十戒、律法(口伝律法を含む)を守り行う者でした。ユダヤ人たちはそのように教えられ、律法を守ることを厳しく教えられて育ちました。「十戒を守ることは、あなたの幸せのためだ、神の国に入るためだ」と信じられていたからです。しかしイエス・キリストは「本当の幸せは律法を守ることによって得られるのではなく、律法を与えられた神様の御心を知り、神様の救いと神の国を待ち望むことだと教えられました。なぜなら人は律法を守ることによって心がきよくなるのではないからです。律法の役目は私たちが自分の心の貧しさ、罪深さを知ることにあり、神様のあわれみを願うようになることでした。神様のあわれみによって罪を赦され、心きよめられて、神の国へ入ることが出来るのです。
 父なる神様が与えられた十戒を、イエス・キリストは「八福の教え」によって正しく解釈し、父なる神の御心を明らかにされたのです。