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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書5章13-48節「パリサイ人の義に勝る義」


5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

1.二つの鍵

 「心の貧しい者は幸いです」に始まる山上の垂訓の箇所に入りました。
八つの「幸いな人」は、モーセの十戒・律法の正しい解釈であるとお話ししました。このことは山上の垂訓全体を
理解する鍵となります。この鍵を使いながら山上の垂訓を読んでいくなら、難しいとされる主の御言葉の扉が開かれていきます。

 法律の目的は私たちの生活をがんじがらめにするためではなく、自由と尊厳を保ち、平和で安全な生活を送るためです。イスラエル人に十戒、律法が与えられた目的も、彼らの生活を規則で縛るためではなく、彼らを正しく導き、神様の祝福の中に歩ませるためでした。律法により罪を示され、へりくだり、神の救いと御国を求め、神の選びの民として喜び輝く生活を送るためでした。
 神の国を待ち望み、神の国のために働く人々に神様は祝福を約束しています。「天において報いは大きいのだから、喜び踊りなさい」と。そしてその人は世の光、地の塩になるのです。

 しかし当時のイスラエル人には、主イエスの教えはモーセの律法を否定しているように受け取られました。そこで主は、次のように教えられました。
5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
 キリストは
律法と預言者を成就するために来たと宣言されました。
@
律法の成就とは、律法には出来なかったことをキリストが完成されたという意味です。(へブル人への手紙10章を参照)
A
預言者の成就とは、預言者が語った(記した)預言を成就されたという事です。その中には多くのメシア預言の成就が含まれていることは勿論です。
 主イエスは律法と預言者を否定するどころか、神のことばの完全さを18−19節で教えられました。

 20節には山上の垂訓を理解するための
もう一つの鍵があります。
5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
 律法学者、パリサイ人たちは律法を学び、律法を守ろうと熱心に努力していた人たちでした。行いにおいて言うなら、ガリラヤの漁師たちは足元にも及ばない立派な人たちです。「彼らより正しくなければ天の御国へ入れない」と言われるなら、集まった群衆は皆、「無理です」と告白したでしょう。律法学者たちに勝る義をどうすれば持つことが出来るでしょう?――それは「
信仰による義」しかありません。これが二つ目の鍵です。聖書が教える救いの真理は、「すべての時代において罪人が救われるのは、信仰による」という事です。ですから、イエス様は山上の垂訓において「行いによる義」と「信仰による義」を対比させながら語られているのです。
 この二つの鍵、「律法の正しい解釈」と「信仰による義」を理解して、山上の垂訓を読んでいくなら、主イエスの教えをさらに深く知ることが出来ます。

※注釈;現在の教会時代では、「イエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われる」のですが、父なる神を信じる事は福音の大前提です。父なる神を信じなければ「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」という真理も理解出来ません。旧約時代の聖徒たちは「キリストの十字架による贖い」を理解していませんでしたが、父なる神を信じる信仰によって義とされました。それは彼らの罪も十字架によって赦されたからです。私たちは今、十字架の後の時代に生きていて、旧約時代の人々は十字架以前に生きていたという違いだけです。
※「旧約の聖徒たちもキリストの福音を信じて救われた」と考える神学者がいますが、それはあり得ないことです。旧約聖書にはメシア預言がありますが、現在の私たちと同じ福音理解は到底不可能です。アブラハムが信仰によって義とされたと同様、私たちも信仰によって義とされますが、その信じる内容は異なっているように、信仰はその時代に与えられた神のことば、啓示を信じるのです。

2.律法の正しい解釈

 21節から教えられているのは、@殺人 A姦淫 B離婚 C偽りの誓い D復讐 E憎しみ です。「〜と言われたのを聞いています。しかしわたしは言います。――」という形で、これらの律法規定(口伝律法を含む)の正しい解釈を主イエスは与えられました。
@殺人
5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
 
実際の殺人だけでなく、
心の中で怒る者、言葉でののしる者も殺人の罪を犯しているのであり、さばかれるべきだと教えられました。神の御心は「あなたの隣人を愛せよ」です。兄弟を憎み、怒り、ののしることは明らかに罪なのです。逆に自分が兄弟から恨まれていることを思い出したなら、何を差し置いても仲直りをしなさいと教えられました。恨まれていることを知りながら何もしないことは「隣人を愛さない」事です。
(
兄弟とは、イスラエルでは実の兄弟だけでなくイスラエルの同胞たちも指しています。)

A姦淫
5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

 姦淫についても同様です。姦淫を犯すだけが姦淫ではなく、情欲を抱いて女性を見るなら
心の中で姦淫を犯したことになると教えられました。律法によれば姦淫を犯した者が受けるさばきは石打の刑であり、死刑でした。ですからそれに比べるなら、イエス様が「右の目をえぐり出して捨ててしまいなさい」「右の手を切って捨ててしまいなさい」と言われた衝撃的なことばは、実際はあわれみのある教えです。律法はそこまで要求しているのです。しかし、実際に「目をえぐり出し」や「右の手を切って」しまう人はいないでしょう。ここに「行いによる義」の限界があり、「信仰による義」が必要となるのです。
※「姦淫」という語は聖書では既婚者に対して語られています。「結婚した夫」が他の女性と関係を持つ場合、男が「結婚した女」と関係を持つ場合です。

B離婚

5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』、と言われていました。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
 離婚についての規定は申命記の中に記されてあります。
申命記24:1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、

 ユダヤ人たちはこの律法の規定を自分達に都合の良いように解釈し、「妻が気に入らなくなったら離婚状を書いて離婚し、別の女性と再婚できる」と考えました。料理がまずい、態度が悪い――それだけで離婚条件に当てはめていったのです。イエス様はこの規定の正しい解釈を教えられました。「恥ずべき事」というのはただ一つ、「淫らな行い」つまり不貞を犯した場合です。それ以外の理由は離婚理由にならないと教えられました。

 この話には続きがあって、これを聞いた弟子たちはイエス様につぶやきます。
マタイ 19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
 当時のユダヤ人男性の結婚、離婚、再婚に対する考えがいかに軽薄で身勝手であったかが分かります。ここには女性蔑視という問題が根底に含まれています。
参照;マタイによる福音書19章1-15節「結婚、離婚、再婚」 

C偽りの誓い
5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 これも当時のユダヤ人たちが誓いの言葉を軽く口にするようになっていたことが背景にあります。自分の主張を押し通すために、周りの反対意見を鎮めるために「主は生きておられる。私は誓って〜します」と人々は誓いました。聖書の中にもたくさんの誓いの言葉が記されています。多くの人が不用意に誓い、不幸を背負ったり、誓いを守り通すことが出来ず罪を犯しました。それゆえユダヤ人は「神にかけて誓う」ではなく「天にかけて」「地にかけて」――と別の誓い方をするようになりました。逃げ道のためです。イエス様は彼らに「そんな誓いならはじめから誓うな!」と戒められました。参照:士師記 11:30-35(エフタの誓いと失敗)

 誓うことは自分に呪いをかけることになるのです。もし誓いを破ってしまったなら、それは神様の御名を汚すことであり、神様の祝福を失うことです。人は自分の髪の毛一本でさえ白くも黒くもできないのだから、後の事について軽々しく誓うな、とイエス様は教えられました。
参照;レビ19:12 あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは【主】である。

D復讐

5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。

 「目には目で、歯には歯で」という規定は律法の中での刑罰を示しています。争って目をつぶされたなら、被告人への刑罰は目をつぶすこと。歯を折られたなら歯を折るという事でした。これは復讐の限度を示していました。受けた被害と同じ程度、復讐することは許されましたがそれ以上の復讐は許されません。
 イエス様はこの律法を正しく解釈されました。復讐は許可されているが、神様の御心は相手を赦してあげることです。右の頬を打たれたなら当然、相手の右の頬を打ち返す権利があるが、それをせず、左の頬を向けなさい、と教えられます。それは無抵抗主義という事ではありません。理由があるのです。そうすることによって「復讐は神様がしてくださる。相手の頭の上に神の怒りを積むことになる。」という信仰に立つからです。
ロ-マ 12:19-20 愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。
12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」

 神様がすべての事を正しくさばいてくださる、という信仰に立つという事です。悪人の顔を殴って自分の手を痛める必要はありません。そして、もう一つの理由があります。相手を赦し愛することが信仰者の勝利となるからです。それが次の教えです。

E憎しみ
5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 「あなたの敵を憎め」という教えは旧約聖書にはないので、これは口伝律法でしょう。異邦人と親しくすることはイスラエルでは悪と考えられていました。また、詩篇等では悪人に対する神のさばきを求める箇所が多くあるため、「あなたの敵を憎め」と教えられていたのでしょう。悪人を憎むことは罪ではありませんが、イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられ、その理由も説明されました。

5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

 律法は復讐を許可していますが、父なる神の御心は、迫害者を赦し、敵を愛することだと教えられました。その説明のために二つの事を挙げられました。一つは、「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」です。
 もう一つは、ユダヤ人が軽蔑していた取税人と異邦人です。取税人や異邦人でも「愛してくれる人を愛し、兄弟には挨拶する」のだから、誇れることではないと皮肉を込めて戒められました。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことこそ父なる神の御心なのです。
※参照;
レビ記19:17 心の中で自分の兄弟を憎んではならない。同胞をよく戒めなければならない。そうすれば、彼のゆえに罪責を負うことはない。
19:18 あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。


3.信仰による義

 イエス様は間違って伝えられていた律法の教えを訂正されました。律法は目に見える犯罪を戒めているだけでなく、心で犯す罪、言葉で犯す罪まで戒めているのです。では、神様の律法に心から従うために必要なものは何でしょうか?・・・その答えは信仰です。神様の御言葉を信じるところからすべてが始まります。神様の御言葉を信じるなら、神様の愛を知ります。神様の愛を知るなら私たちは神様を愛することが出来ます。そして神様を愛するなら隣人をも愛することが出来るようになります。従って信仰がすべての事を正しい方向へ導くのです。「信仰による義」をいただくことにより、律法の要求に応えることが出来るようになります。この「信仰による義」こそ「パリサイ人の義」に勝る義であり、天の御国へ入る唯一の方法です。

 もし、「信仰による義」がなければ、律法は呪いとしか言えません。目で罪を犯したなら右の目をえぐり取れ。手がつまずきを与えるなら手を切り取れ。――それが律法の要求するさばきなのです。しかし「信仰による義」を持つなら律法の呪いから解放されます。なぜなら、信仰による義によって罪が赦されるからです。その義の源はイエス・キリストの十字架の贖いです。すべての時代の、すべての人が受けるべき罪のさばきをキリストが身代わりとなって背負ってくださったので、罪の赦しが与えられるのです。


 律法の要求は次の主のことばに要約されています。
5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

「完全でありなさい」と言われるなら、自分が不完全な者であることを誰もが悟ります。しかし、「信仰による義」を持つなら、人は完全に罪を赦されています。完全な救いが与えられています。神様に愛されていることを信じて歩むなら、隣人を愛することが出来ます。完全な神様の恵みとあわれみの中で前を向いて歩むことが出来ます。