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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書6章1-21節「宝を天にたくわえなさい」


 山上の垂訓は、メシアが支配する王国を待ち望むユダヤ人たちへの説教であったことをお話ししました。イエス・キリストは「律法の正しい解釈」により「信仰による義」へ導かれています。

1.善行

6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
 1節がこれから語られる教えの導入であり、結論でもあります。要点は次の二つです。
a.人に見せるために善行をしてはいけない――それは偽善である
b.偽善は父なる神からの報いを受けられない

 主イエスは次の三つの善行を取り上げて教えられました。
@施し A祈り B断食
 これらは神に喜ばれる善行としてイスラエルで奨励されていました。世界の多くの宗教も取り入れ実践しています。しかしイエス・キリストは、善行においても心が伴っている事が大切だと教えられました。見せかけでなく、信仰によって行うのです。

@施し

6:2 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
6:3 あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 当時、身体に障害を持っている人や病気のために働けない人は、町の通りや、神殿、会堂の入り口に置いてもらい施しを求めました。彼らに施しをすることは神に喜ばれる善行とされていました。箴言には次のように書かれています。
箴言 19:17 貧しい者に施しをするのは、【主】に貸すこと。主がその行いに報いてくださる。
 しかし、偽善者たちは自分の前でラッパを吹き、人々の注目を浴びて施しをしたのです。(本当のラッパではなく誇張です)
 施しは尊い事ですが、彼らは人から称賛を受けるために施したので、「すでに自分の報いを受けている」とイエス様は責められました。

 チャリティーや募金活動が行なわれる度に、大企業の社長や有名人が出てきて「私は恵まれない人たちのために〜千万円を寄付いたします」と約束して、感謝状をいただいている場面が放送されます。彼らは「すでに報いを受けている」のです。

 教会での献金も同様です。クリスチャンは人から称賛を受けるような献金の仕方を避けるべきです。献金することは主の御心ですが、人々に知ってもらいたいという密かな思いを持って金額が分かるように献金することは偽善です。感謝されることによって神様からの報いを失っているのです。また、教会も献金をした人を集会の中で誉め称えたり、献金者の名前と献金額を会計報告等に載せるのは愚かなことです。牧師も人間ですから多額の献金を直接受け取った時などは、「ありがとうございます。感謝いたします」とお礼を言う時があります。それは、心からそう思っていますし、社会通念上、感謝の一言も無ければ、ささげた人に失礼だからです。けれど、それは献金した人が受けるはずの天での報いを奪い取ることになってしまいます。ですから、献金を直接受け取ることはなるべく避けたほうが良いでしょう。

 また、多くの教会で利用される献金袋には様々な理由から名前を書く欄が設けてありますが、本来、記名式というのは神様の御心ではありません。証しのためという建前がありますが、自分がささげたことを知ってもらいたいという思いがあることは否めません。人からの称賛を受けるためでなく、主の御心に沿った献金をささげるなら、記名は無くてもよいでしょう。
※献金袋を記名式にする理由はいくつかあります。
・キリスト教国において所得税控除対象となる場合
・牧師が教会員の霊的状況を理解したいという目的のため
・牧師や会計係の不正防止のため(会計報告に個人名と献金額を掲載する事により不正が防止される)

A祈り

6:5 また、祈るとき
偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
6:6 あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
6:7 また、祈るとき、
異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。
6:8 ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
6:12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
6:13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
6:15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 祈りについてイエス様が教えられた要点は次の二つです。
a.偽善者のように人々に見えるように祈るな
 人から尊敬されたいという思いで、人が集まるところにわざわざ出ていって大きい声で祈ることを戒めています。当時、そのような祈りをする律法学者やパリサイ人がいたからです。あなたが一人で祈る時には「家の奥の自分の部屋に入り――」静まって神様に祈るのです。祈りに偽善を持ち込んではいけません。
b.異邦人のように同じ言葉を繰り返し祈るな
 イスラム教の祈りは一日5回、メッカの方角を向いて行われます。祈りの言葉が定められ、同じ祈りが毎日繰り返されます。仏教にはお経があり、繰り返し唱えられます。ユダヤ教には祈祷書があり、カトリックにも祈祷文があります。誰でも祈ることが出来るための便宜なのでしょうが、イエス・キリストは同じ言葉をただ繰り返し祈ってはいけないと教えられました。「主の祈り」を教えられた目的は、祈りは難しいものではなく、誰にでもできる簡単なもの――だから難しい祈祷文を覚えて繰り返し祈る必要がないことを教えられたのです。祈祷文を何回読んでも、何時間祈っても意味はありません。神様は祈る前から私たちの必要を知っておられ、心を見ておられるからです。

 しかし、残念なことに多くのクリスチャンも失敗をしています。イエス様が「こう祈りなさい」と命じられたから、という理由で「主の祈り」を繰り返し祈るという間違った受け取り方をしています。同じことばをただ繰り返してはいけませんと言われているのに、その意味を汲み取らずに「主の祈り」を祈祷文として型にはめ、繰り返し唱えることは誤りです。

 また「主の祈り」は本来、旧約時代のユダヤ人に対して語られていて、十字架以前の信仰者に教えられた祈りです。したがって教会時代の祈りとしてそのまま受け取ってはいけません。
a.「御国が来ますように」というのは、ユダヤ人に約束されたメシア王国の事です。
b.教会、福音、聖霊については何も言及されていません。
c.教会時代の祈りは「イエス・キリストの御名によって」祈ります。
d.救いの喜びや感謝の言葉がありません。
e.罪の赦しについて十字架の贖いが基礎となっていません。
 これらの理由で、教会時代のクリスチャンに直接適応される祈りではないと言えます。ただし、クリスチャンにとって祈りの模範として教えられているのは当然のことです。教えられるべきは、祈りは難しいことではなく、あなたの必要や願いを自分の言葉で父なる神様に心から祈ることです。人に見せるための祈りでなく、だらだらと長い祈りをしたり、同じ祈りを何度も繰り返してはいけません。祈祷文を何度も繰り返し祈ることと、あきらめずに一つの願いを祈ることには大きな違いがあります。

B断食

6:16 あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らは断食をしていることが人に見えるように、顔をやつれさせるのです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
6:17 断食するときは頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18 それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

 断食は祈りのためだと以前お話ししました。断食も人の尊敬を得るためにするのではありません。「今、断食中なので顔色が悪いのです」「断食中なので――」といちいち報告するな!暗い顔をするな!とイエス様は教えられます。頭に油を塗り、顔を洗ってやつれを隠し、断食している事を悟られないようにしなさい、とまで言われます。

 施し、祈り、断食はそれ自体は神様の御心であり神様に喜ばれることです。しかし、人から誉められるために、感謝されるために、という動機から行うなら偽善だとイエス様は言われます。また、純粋な心で善行をしたとしても、人からの称賛を受けるなら神様からの報いはなくなってしまうことを知っておくべきです。

2.天に宝を

6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

 善行を人前で行うなら、それはこの地上に宝を蓄えることです。イエス様は地上に宝を蓄えることを止め、天に宝を蓄えなさいと教えられました。「天に宝を蓄える」という事は、未信者には理解できません。曲がった考えの人は「奉仕させるため、献金させるために教会が用いる常とう手段」だと言うでしょう。しかしクリスチャンは唯一の神様の存在を信じており、行いに応じて報いが与えられる事を信じています。善行は神様の御心であり、決して無駄ではないと信じています。

 あなたが「天国は必ずある」と信じるなら、イエス様のことばに従ってください。――「自分のために、天に宝を蓄えなさい。」
 天に宝を蓄えようとするなら、あなたの生き方が一新するでしょう。あなたがする善行は偽善ではなくなります。これからはもう罪の内を歩もうとしません。あなたの関心は地上の事から天上の事へ、一時的なことから永遠に向けられるようになります。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるからです。