本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書7章13-29節「狭い門からはいりなさい」

 イエス・キリストの山上の垂訓は、選民であるユダヤ人に向けて語られ、モーセを通して与えられた律法の正しい解釈を教えられました。そのまとめとなるのが黄金律と呼ばれる次の御言葉です。
7:12 ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。

1.狭い門と広い門


7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
 イエス様は再び人々に決断を迫られます。狭い門か広い門か?――どちらを選ぶのかと。
 狭い門、広い門とは一体何でしょう?――イエス様のこれまでの教えを踏まえるなら次のように考えられます。
広い門とは・・・立派に見える門。多くの人が通っていて、楽で快適に見える門。パリサイ派の人たちが教えていた形だけの教え。律法にただ従う生き方。富に仕え、自分の生活第一の生き方。地上に宝を積む生き方。滅びへ至る道。
狭い門とは・・・貧相に見える門。わずかな人だけが通っていて、窮屈で危険に見える門。イエス様が教えた黄金律。神に心から仕える生き方。神の国とその義を第一に求める生き方。天に宝を積む生き方。永遠のいのちに至る道。

 旧約聖書には、広い門を通って滅びた人たちと、狭い門を通って救われた人たちの実例があります。
 a.洪水前の時代、神様はノアに福音を託されました。ノアはその時代において唯一の伝道者でした。彼は洪水が起こることと、救われるためには箱船に入らなければならないことを警告しました。しかし信じて箱船に入り助かったのは、ノアと彼の妻、そして三人の息子とその伴侶、計8名だけでした。ほかの人たちは、ノアが宣べ伝えた福音のことばを信じるどころか、神の啓示をあざ笑い、ノアを侮辱しました。救いの扉は開かれていたのに、誰もそこから入ろうとしなかったので、彼らは洪水で滅ぼされました。

 b.出エジプト時代、神様はモーセを指導者として立てられました。しかし人々は荒野で不平不満をつのらせ、モーセに反抗しました。それゆえヨシュアとカレブ以外は誰も約束の地に入ることが出来ませんでした。

 門が狭いのは、神様が狭くされているのではありません。救いの門はすべての人に対して開かれているのに、人間がその罪深さと欲望のためにその門を無視するから狭いのです。神様の御心はすべての人が信じて救われることです。

 ヨハネによる福音書では次のように書かれています。
ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
 狭い門とは神のひとり子として来られたイエス・キリストの事であり、キリストの福音を信じて生きることを意味します。これ以外に救いはありません。しかし、この門は狭く、救われる人は少ないのです。なぜなら多くの人々が広い道を選び、福音を受け入れないからです。


2.偽預言者

 門を狭くしている原因のもう一つが、偽預言者(偽教師でもある)たちの存在です。彼らは神のことばを自分勝手に解釈し、都合の良いように利用する人たちです。彼らは広い道を人々に教え導きます。それは誰もが信じやすく楽で簡単な道です。イエス様は何度も「偽預言者たちに気を付けなさい」と警告されました。
7:15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
7:16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
7:17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
7:18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
7:19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
7:20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。

 イエス様は偽預言者の見分け方について教えられました。まず、彼らは外側では見分けがつきません。彼らは羊の衣をかぶった狼であると言われました。彼らの言葉は丁寧であり、礼儀も服装もしっかりしています。よく祈り、聖書のことばを語ります。彼らは信仰深い人と思われています。だから「実によって見分けなさい!」と教えられました。
 では偽預言者たちはどんな実を結ぶのでしょうか?――それは御霊の実と逆の実を考えたらよいでしょう。
ガラテヤ 5:22-23 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
 聖書が示す「御霊の実」の反対を考えると、「冷血、怒り、不安、心が狭い、不親切、悪意、いい加減、ひねくれ、放縦」です。そして偽教師たちは「神のため」と言いながら「自分のため」に働いています。ですから彼らの生活は次のようです。
富を築きます。豪華な家に住み、貯蓄をし、豪華なものを買いあさります。
名誉を求めます。尊敬されることを切望し、肩書を愛します。批判されると怒ります。
高慢です。人を服従させ、従う者には優しいのですが、従わない者には冷たく悪魔呼ばわりさえします。

 またイエス様は、キリスト教徒と呼ばれる人のなかに偽預言者が多いことを教えています。
7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
7:23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』

 彼らは普通に教会に集い、クリスチャンと認められていて、その多くは教会で人々を指導している人たちです。しかし彼らは救われていません。裁きの日に、彼らは御国(メシア王国)に入ることができません。彼らはイエス・キリストに向かって文句を言います。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。」と。彼らの反論を注意深く見ると、預言をしたことや悪霊を追い出したこと、奇跡を行ったこと・・それらが彼らの救いの基礎となっているのです。それらは彼らの自慢です。彼らの説教の多くは自分の体験談です。「私の祈りを神様が聞いてくださった!悪霊を追い出すことが出来た!奇跡が与えられた!異言を話せた!イエス様が私の前に現れてくださった!―――」聖書を学んでいない人たちがその様な話を聞いたなら、「この先生はすごい!」と感じるでしょう。「この先生について行けば大丈夫だ」と信じます。だまされてはいけません。そんな武勇伝は神様の前に愚かなことです。


 使徒パウロは自分の霊的経験があまりにも素晴らしかったのでそれを手紙に書きました。
Uコリント12:1 私は誇らずにはいられません。誇っても無益ですが、主の幻と啓示の話に入りましょう。
12:2 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。
12:3 私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。
12:4 彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。
12:5 このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。
12:6 たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを語るからです。しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。

 パウロは自分の事だと知られたくなかったので「一人の人を知っています」と書いていますが、実はパウロ自身のことです。あえてこのような体験を手紙に書いたのは、コリント教会の人たちが肉的なことを誇っていたからです。パウロは彼らの高慢を打ち砕くために、愚か者として思い切った自慢話をしたのです。「体験を誇るのは愚かなことだ」とパウロは戒めているのです。

 信仰者に必要なことは、体験談ではなくキリストのことばを聞いて信じ、従っていくことです。偽預言者、偽教師たちの体験談説教は聞いていてワクワクするでしょう。「私にも神様の奇跡が起きる」と信じます。「私も不思議なことが出来る」と信じます。ワクワクの連続で、華やかな信仰生活です。しかしそれは大きな落とし穴です。間違った教えに耳を傾けてはいけません。イエス様のことばを聞き、信じ、主の御心に従う――それは狭い門を通る道ですが、必ずいのちに至る道なのです。

3.岩の上と砂の上


7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

 狭い門から入る人は、岩の上に自分の家を建てた賢い人のようです。岩の上に家を建てるのは苦労します。基礎造りに時間がかかります。忍耐と我慢が必要です。しかし基礎がしっかり定まると家は倒れる心配がありません。私たちの信仰もそうあるべきです。キリストのことばに従うことは苦しみを伴います。迫害され、貧しくなり、悪口を言われます。しかし、キリストという基礎がしっかりあるなら、試練や災害に遭っても倒れることはありません。

 広い門から入る人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人です。砂地は柔らかいので家をすぐに建てることが出来ます。簡単です。楽です。しかし、試練や災害が襲ってくると、家は倒れてしまいます。彼らの信仰の基礎はキリストではなく、自分の楽しい生活だからです。嵐が来て、生活が厳しくなると、神様に見捨てられたと考えます。そして彼らは言うのです。「もう神なんて信じない!」――まさにひどい倒れ方をするのです。

 「
狭い門から入りなさい。」――これがイエス・キリストが語られた山上の垂訓の最後の招きです。入る人が少なくても心配する必要はありません。教会の礼拝出席が少なくても関係ありません。イエス様が、「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」とおっしゃっているのですから。そのわずかな人に自分が入っていることを喜びましょう。広い門から入っていく人たちの背中が楽しそうに見えても、その先は断崖絶壁だと知るならゾッとするでしょう。だから広い門から入る人たちに「そこから入ってはいけない」と警告しましょう。主の福音を伝えましょう。
詩篇 100:4 感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ。主に感謝し御名をほめたたえよ。