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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書8章1-17節 「病をいやす主イエス」



 マタイが福音書を書いた目的は、イエス・キリストが神から遣わされたメシアであることを伝えるためです。マタイはユダヤ人たちが理解できるように証拠を挙げながらイエス様の御生涯を記しています。イエス・キリストが約束のメシアである証拠は、次の四つが挙げられます

@預言の成就(イエスの誕生と死、その働き)
A偉大な教え
B行なわれた奇跡(しるし)と復活
C弟子たちの証言

 マタイは系図から始め、処女からの誕生、そしてバプテスマのヨハネの証言などを書き記し、イエス・キリストこそ預言されていたメシアであることを明らかにしました。そして、5〜7章で山上の垂訓を丁寧にまとめて、主イエスの偉大な教えを記しました。

 8-9章においてはイエス・キリストが行なわれた奇跡(しるし)の数々をまとめています。10の奇跡が続けて記されています。マタイは起こった出来事の順序より、関連した出来事をまとめて記すことに重点を置いているようです。(マルコ、ルカの福音書と比較すると出来事の順序が異なっています。マルコとルカでは出来事の順序は、ほぼ同じです。)

しるし \ 福音書名 マタイ マルコ ルカ
@らい病人のいやし 8:1-4 1:40-45 5:12-16
A百人隊長のしもべのいやし 8:5-13 7:1-10
Bペテロの姑のいやし 8:14-17 1:29-34 4:38-41
C大暴風を静める 8:23-27 4:35-41 8:22-25
D悪霊憑きの二人の回復 8:28-34 5:1-20 8:26-39
E中風の人のいやし 9:1-8 2:1-12 5:17-26
F会堂管理者の娘のよみがえり 9:18-26 5:21-43 8:40-56
G長血の女のいやし 9:20-22 9:25-34 8:43-48
H二人の盲人の目をひらく 9:27-31
I悪霊憑きの口がきけない男 9:32-34


一、らい病人のいやし

8:1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
8:2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
8:4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」

 らい病は重い皮膚病の一つで、伝染病であり、かつては不治の病として恐れられていました。(現在では治療薬が発見されたため、適切に治療を行えば治癒する病気です)従って、この病にかかった人は隔離する政策が多くの国々で採られました。外見に奇形をもたらすため、呪われた病気と考えられ、日本でもひどい人権侵害が行われました。現在はハンセン病と呼ばれています。

 聖書が記すらい病は、レビ記を読むと、家や衣服にも付くと記されているためカビの種類と考えられ、らい病、ハンセン病とは異なるという見解があります。そのため新改訳聖書も第三版からツァラアトとヘブル語読みで記しています。(ギリシャ語:レプラ)また、新共同訳では「重い皮膚病」と訳されています。

 「らい病」という病名は、多くの偏見と差別を生んできたため最近では用いられなくなりました。しかしながら、聖書中の皮膚病にかかった男性が受けてきた偏見と差別は、らい病患者が受けてきた偏見と差別と同じであったと言えます。

 モーセの律法では、この病気に対する規定が次のように定められています。
レビ13:45 患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。
13:46 その患部が彼にある間、その人は汚れたままである。彼は汚れているので、ひとりで住む。宿営の外が彼の住まいとなる。


 この病はその人の罪に起因すると考えられ、宗教的に汚れた人と考えられました。「神に裁かれ見捨てられた人」という理解です。そのため、人々から「罪人」と呼ばれ、社会から追い出され、家族からも引き離され、神殿へ礼拝に行くこともできませんでした。

 本日の聖書箇所に登場する男性はその様な惨めな人生を送っていました。ルカによる福音書では全身がツァラアトにかかっていたとあります。望みなく死が訪れるのを待つ日々でした。その時にメシアが来られたという話を聞き、最後の望みをかけ、律法の規定を破ることを覚悟でイエス様の前に出ていき、ひれ伏しました。

 彼は「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と願いました。「病気をいやして下さい」ではなく、「私をきよくしてください」です。それは自分が汚れた人間だという理解からです。誰からも愛される価値のない人間だとわかっているからです。だから、メシアに望みを抱き、少しのあわれみを与えてくださいと願っているのです。主イエスのことばはあわれみに満ちています。――「わたしの心だ。きよくなれ」

 イエス様は彼にあえて触られ、病をいやされました。長い間、誰からも触れられなかった彼にとってイエス様の手はどれほどあたたかく感じたことでしょう。そして体が完治したことは彼の人生にどれほどの感謝と賛美を生み出したことでしょう。彼がいやされたのは体と心の両方でした。


 マタイはなぜこの記事を10の奇跡の中で最初に記したのでしょうか?――それはこの病が旧約の中で罪と汚れを象徴する病とされていたからでしょう。イエス・キリストが
人の罪を赦し、清める権威を持つお方であることを示すためにこの記事をまず最初に記したのです。それはキリストの来臨の最大の目的だからです。

二、百人隊長のしもべのいやし

8:5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
8:6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
8:7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8:8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
8:10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。

 古代ローマの軍隊は一軍団が6000人で構成されていました。全体を指揮する軍隊長の下に、1000人を指揮する千人隊長がおり、さらに百人ずつを指揮する百人隊長がいました。ここに登場する人はその一人であり、ユダヤ人ではなく異邦人でした。しかし、ルカ福音書では彼はユダヤ人を愛して、ユダヤ教の会堂を建てた人であり、ユダヤ人の長老たちが彼の言葉をイエス様の元に来て伝えています。この百人隊長は、聖書が示す神に対する熱い信仰を持っていたことが明らかです。また、自分のしもべの癒しを心から願っているところにも彼が愛情深く謙遜な人であることが分かります。この記事で強調されている真理がいくつかあります。

@イエス・キリストの権威
 百人隊長は権威についてよく理解しており、権威ある人の言葉に誰もが従うのだから、メシアとして来られた方の権威は病をも癒すことが出来ると信じました。

A信仰の在り方
 この癒しではイエス様はしもべに触れることもなければ、顔を見ることもありません。百人隊長はイエス様に「ただ、おことばを下さい」と願いました。つまりイエス様のおことばによってしもべは癒されると信じたのです。これを聞いたイエス様は百人隊長の信仰に驚き、「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」と人々に告げておられます。見たことを信じるのは本当の信仰ではなく、見えないものを信じることが信仰です。主が語られたことばに信頼することが信仰なのです。

Bとりなしの祈り
 信じたのはしもべではなく百人隊長です。しかし、癒されたのは百人隊長ではなくしもべでした。つまり、神は信仰者の祈りに応えて、未信者か信者か分からない人に恵みを注がれました。信仰を持たない人の祈りを神は聞かれませんが、信仰者のとりなしの祈りによって未信者にも神の恵みが与えられるのです。

C異邦人への祝福
 百人隊長は異邦人でした。しかし、イエス様はこの異邦人信仰者の願いを聞かれ、その望みどおりにしもべを癒されました。このしるしは将来起こる出来事の予表となっています。

8:11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 本来、信仰を持つべき御国の子――つまりユダヤ人たちはつまずき、多くの異邦人が御国(千年王国)に入ることを預言されました。事実、現在に至るまでユダヤ人はイエス・キリストにつまずいていて、多くの異邦人がキリストの福音を信じています。

三、ペテロの姑のいやし

8:14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
8:15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。

 まずペテロには姑がいたので、彼は結婚をしていた事が分かります。そして姑と同居していたようです。ペテロがイエス様の弟子となり漁師をやめてしまったので、ペテロの妻はどれほど苦労したでしょう。聖書中にはペテロの妻や子供についての記事は一つもありませんが、家族がいたことは確かであり、おそらく苦労の連続であったでしょう。
※パウロの書簡(Tコリント9:5)で、ペテロには信者の妻がいたことが書かれています。

 この記事は他のしるしに比べると、メッセージ性がない個所です。しかし、この記事は三つの福音書に記されています。何が重要だというのでしょうか?――おそらく弟子たちにとってとても記憶に残る出来事だったのでしょう。ペテロの姑は度々イエス様と弟子たちを招いてもてなしていたと考えられます。その姑が熱病にかかってしまったので、弟子たちは彼女のいやしのために熱心に祈ったはずです。イエス様が来られて、姑をいやされたとき、弟子たちは心から喜んだ事でしょう。

 百人の外国人が救われたという報告より、自分の家族一人が救われることのほうが嬉しいものです。そこに、このしるしの重要性があると思います。神様の恵みは遠くの人にではなく、あなたに与えられています。福音は遠くにあるのではなく、あなたの目の前に提供されています。それを信じて受け取り、そして身近な人から伝えて行く――その使命を私たちは与えられています。



 今回は三つのいやしの記事でしたが、重要なことはこれらの出来事を読んで、あなたはどう受け取るかです。作り話と思うなら、聖書の教えをすべてを否定することになります。イエス・キリストを超能力者、手品師と考えるなら、彼は弟子たちをだまし続けたペテン師という事になります。そしてキリストの教えは全く意味のないものとなってしまいます。

 しかし、イエス・キリストが行なったしるしを事実と信じるなら、イエス・キリストを救い主だと認めることになります。歴史はキリストが確かにお生まれになり、しるしを行ったことを認めています。キリスト教に反対したユダヤ教徒やローマ皇帝も、キリストが奇蹟を行ったことを否定しませんでした。

 マタイは17節で、これらは預言されていた通りであり、真実であると念押ししています。
8:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

 おそらくイエス様は人を癒すのに体力、精神力を消耗されたのでしょう。体力の続く限り人を癒されました。そのため、舟に乗って休息のために静かなところへ退かなければなりませんでした。預言の通りに人々の病を背負い、そして罪を背負って十字架の死を身に受けられました。ここに私達の罪の赦しが約束されているのです。この一事のためにイエス・キリストは来られ、御言葉を語り、しるしを行われたのです。