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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書9章1-13節「罪を赦す権威」


 イエス・キリストの宣教は華々しく始まりました。山上の垂訓には多くの群衆がやってきて耳を傾けました。主イエスが行なわれた病人のいやしや、悪霊追い出しに人々は驚き、神を崇めました。しかし、主イエスの伝道に黒雲がかかり始めました。宗教指導者たちがイエスの宣教を問題視するようになったからです。宗教指導者たちはイエスというナザレ人を偵察するためにガリラヤ湖畔に位置するカペナウムという田舎町に集まってきました。
ルカ 5:17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人たちと律法の教師たちが、そこに座っていた。彼らはガリラヤとユダヤのすべての村やエルサレムから来ていた。イエスは主の御力によって、病気を治しておられた。
 この異様な状況の中でマタイ9章の話が始まります。

1.中風の人のいやし

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると見よ。人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
9:3 すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で「この人は神を冒涜している」と言った。
9:4 イエスは彼らの思いを知って言われた。「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
9:6 しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 すると彼は起き上がり、家に帰った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。

 「人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た」・・マルコ及びルカ福音書を読むと、人々が家にあふれていたため、彼らは屋根に上り、屋根をはがしてこの病人をイエス様のおられる所に吊り下ろしたと記しています。通常なら、座って話を聞いている人たちに「どいてくれ!」と頼むところです。しかしそれが出来なかった――なぜなら、そこに座っている人たちは律法学者やパリサイ人という宗教指導者たちだったからです。

 中風とは現在の脳卒中であり、後遺症として半身麻痺、手足の麻痺、言語障害などが起こる病気です。この男は脳出血によって体が麻痺していたと思われます。現在でも治療が難しい病気ですから、当時の医療では治る可能性はほとんどなかったでしょう。この病気にかかった男の落胆は激しかったに違いありません。
 「しっかりしなさい」というイエス様のことばに、この中風の男が人生をあきらめている様子をうかがい知ります。男は絶望しているのです。「もう自分は駄目だ」と思っているのです。そういう状態の人に「しっかりしなさい、元気を出しなさい、頑張りなさい!」と励ます事は今の日本では敬遠されます。そっとしてあげて見守ってあげるだけでいい、と教えます。けれどイエス・キリストは違いました。「しっかりしなさい」と。その理由は明らかです。イエス・キリストが救い主として来られたからです。「キリスト」とは救い主という意味です。罪のさばきと永遠の地獄から私たちを救ってくださるおかたです。さらに、試練、絶望、孤独からも救い出してくださるお方であることも含まれているのです。ここに登場する中風の男は病気を癒され、絶望から救い出されました。

 この中風の男はイエス様より年配であったでしょう。イエス様はこの時30歳を過ぎたばかりでしたが「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言って、彼の病気を癒されました。イエス様が、ただの人ではなく、罪を赦す権威を持っていることを示し、父なる神と同じ権威を持っていることを人々に示されたのです。また、人の病気や死、苦しみは、罪が原因であることが示されています。アダムとエバが神様に従わず罪を犯した時から、人は苦しみながら生き、そして死ぬものとなったのです。

 しかし、律法の教師たちは、このしるしを素直に受け取りませんでした。「この人は神を冒涜している」と考えました。罪を赦すことが出来るのは神だけだと信じていたからです。彼らの考えは半分正解で、半分間違っていました。罪を赦すことが出来るのは神だけという事は正しいことです。しかし、イエス・キリストが「神を冒涜している」と間違った判断をしました。どうして彼らはイエスがメシアだと信じることが出来なかったのでしょう?彼らは旧約聖書を暗唱できるほど学び、メシアが来ることを信じていたのになぜつまずいたのでしょう?――その理由は彼らの高慢のゆえでした。「ガリラヤの田舎出身の人がどうしてメシアであろうか?大工の息子がメシアなんて馬鹿げている!」と考えたのです。おまけに弟子たちの多くはガリラヤ湖の漁師たちで律法を深く学んだことがない人ばかりです。おそらく身なりも汚かったでしょう。そんな弟子たちを抱える人がメシアであるはずがない!と判断したのです。彼らは人を生まれ育ちで判断しました。外見で判断しました。学歴で判断しました。彼らの高慢という罪が正しい判断をできなかった理由です。

※このしるしの特異な点は、癒された男の信仰は問われていないことです。「イエスは彼らの信仰を見て」と中風の男を主イエスのものとへ連れてきた人々の信仰を見ておられます。この事は、信仰者が不信者のために祈り、とりなすことの重要性を教えています。信仰者が不信者のために祈るとき、神様の守りや祝福、救いの御手が延ばされます。

2.マタイの召命

9:9 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

 イエス様と弟子たちは次の場所へ移動されました。律法学者、パリサイ人たちも後をぞろぞろ付いて行ったようです。ここでマタイは自分がイエス様に弟子として招かれた時のことを記しています。彼の証しです。彼は収税所に座っていました。取税人だったからです。当時の取税人はユダヤ人にとって嫌われ者でした。ローマ帝国の手先となって働いたからです。また、取税人は決められた税金以上に徴収して自分の懐に入れたり、お金持ちの人を優遇し、わいろを受け取ったりしていました。ですからユダヤ人たちは、取税人とは決して交わりを持ちませんでした。悪人としてさげすんでいたからです。その取税人のマタイにイエス・キリストが声をかけられ、弟子として招いてくださったことをマタイは生涯忘れなかったでしょう。座っていたマタイは
立ち上がって、何もかも捨てて、主イエスに従ったのです。
※主イエスに出会う前のマタイには、激しい葛藤や嘆きがあったはずです。そしてメシア到来のうわさを聞いてマタイが抱いた希望はどれほど大きかったでしょう。

3.罪人との食事

9:10 イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。
9:11 これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。

 10節の食事の席とは、実はマタイの家での出来事です。マタイはキリストの弟子となったことがうれしくて、すぐさまイエス様を自分の家に招き、大判振舞いをしたことをルカ福音書は記しています。その席に来たのは「
取税人たちや罪人たち」と記しています。社会のつまはじきとなっていた取税人マタイが招ける人は彼らしかいなかったのです。「罪人たち」とはおそらく娼婦たちの事だと考えられます。金持ちの取税人にまとわり付く女性たちであったでしょう。この食卓にイエス様と弟子たちが招かれました。弟子たちにとってはとても居心地の悪い食事会であったでしょう。さらに家の外では律法学者、パリサイ人等、群衆が取り巻いていました。異様な雰囲気です。

 パリサイ人はイエス様の行動を観察中でしたので、イエス様に直接でなく弟子たちに質問しました。なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか――ここでも彼らの主張は半分正しく、半分は正しくありません。ユダヤ人にとって取税人や罪人と食事をすることは許されていません。それは律法に反することでした。イエス様でさえ次のように言っておられます。
マタイ 18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
 「彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」――それは彼らと交際するなという事です。では、なぜ聖書もイエス様も、異邦人や取税人と交わってはいけないと教えたのでしょうか?それは罪びとに対する懲らしめでもありますが、もっと大きな理由は、神の選民であるイスラエルを堕落から守るためです。取税人と交わるなら富の誘惑に負けてしまい、神に仕えることが出来なくなります。遊女から離れるのは性的堕落に陥らないためです。異邦人と交わっていけないのは、異邦人にならって偶像礼拝を行わないためです。ですから、「彼らから離れよ」と旧約聖書は教えたのです。
 従ってイエス様が取税人たちと食事をされたことは聖書の教えと矛盾しています。ご自身が語られた教えと矛盾しています。パリサイ人等に非難されて当然でした。
 彼らに対するイエス様の答えを見ましょう。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。
9:13 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」――これが答えです。罪人を救うために来たお方がキリストです。ですからキリストは取税人と異邦人、そして遊女たちと食事を共にし、彼らに福音を伝えられたのです。

 今日の聖書箇所を学んで教えられることは、イエス・キリストに従うためには、まず自分が罪人であると知ることが必要だという事です。自分の弱さ、心の汚さ、不品行を嘆き苦しむときに、キリストのことばが生きて働きます。救いのことばとなります。もし、自分の罪を悔いることがないなら、キリストは私たちに何の関係もありません。キリストの救いが必要ではないからです。しかし、自分の罪深さを知るとき、キリストによって救われるのです。私たちの罪のためにキリストが身代わりとなって十字架に架かり、死んでくださったことを感謝するのです。私たちが義と認められるためにキリストがよみがえったことを感謝するのです。「あなたの罪は赦された」というイエス様のことばは、なんと素晴らしい福音でしょう!罪の赦しは私たちのうちに真実となり、永遠の喜びをいただくのです。