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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書9章27-38節 「イエスはキリストです」



 マタイ8、9章において、10のしるしが記されています。これらのしるしはイエス・キリストが神から遣わされたメシアであることの証明です。

1.二人の盲人のいやし

9:27 イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
9:28 家に入られると、その盲人たちはみもとにやって来た。イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。
9:29 そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
9:30 すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
9:31 ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。

 二人の盲人が「ダビデの子よ」と叫びながらイエス様の後をついて来ました。「ダビデの子」とは「メシア」と同じ意味です。聖書の預言によって「ダビデの子孫からメシアは生まれる」とユダヤ人は知っていましたので、キリストのことをこう呼んだのです。

 疑問に感じるのは、イエス様が盲人たちをすぐにいやされなかったことです。彼らが叫びながらついてきているのにイエス様は無視しているようです。家に入り、そこまで彼らがついてきたときにやっと彼らをいやされました。どうしてイエス様は他のいやしのしるしと同じように、ただちに彼らをいやされなかったのでしょうか?

 これは盲目である彼らの立場に立って考えることが必要だと思います。彼らは目が見えないという障がいを負っていました。当時の障がい者は仕事に就くことが出来ない為、神殿や会堂の入り口に座らせてもらい、人々のあわれみを頂いて生活していました。物乞いの生活です。そういう生活は次第に「人のあわれみを頂いて当然、人の世話になって当然」という障がい者独特のおごりになってしまうことがあるそうです。盲人らはどんな病気をも直してくれるメシアが来られたと聞いて、あわれみを期待し、イエス様一行のおられる所へと出ていきました。彼らは「私たちをあわれんでください」と要求しました。あわれんでもらって当然という彼らの心境が含まれているのだと思います。

 しかし、イエス様に無視されたときに、彼らの気持ちはどうだったでしょう?…どうしてという疑問と同時に、怒りが込み上げたかもしれません。それでも、さっさと進んでいかれるイエス様の後をついて行くしかありませんでした。頼れるお方はこのメシア以外にないのです。どれほどの時間、彼らが付いて行ったのか分かりませんが、彼らにとって貴重な時間でした。彼らの心は次第に「あわれんでもらって当然」という意識から、「どうか助けてください。あなたしか私たちを救うことが出来るお方はいないのですから」という気持ちに変わっていったのだと思います。

 イエス様は「
わたしにそんなことができると信じるのか?」と質問されました。「私がメシアだと信じるのか?」という事です。イエス様はこの質問によって「目が見えない」という障がいの問題から、ご自身の事に目を向けさせています。つまり、「目が見える、見えない」という問題より、「キリストを信じるのか信じないのか」と言う問題に彼らの心の目を向けさせたのです。

 「
そうです。主よ。」・・素晴らしい答えでした。「あなたがたの信仰の通りになれ」・・これがイエス様が二人の盲人に求められたことです。目が見える事より、信仰を持つ事が大切なことです。信仰を持つときにすべての解決があるからです。二人の盲人はすぐに目が開かれました。イエス様の偉大な力の現れでした。そして信仰の勝利でした。


 このしるしの結末にはもう一つの疑問があります。「
決して誰にも知られないように」と厳しく戒められたことです。なぜ誰にも話してはいけないのでしょうか?・・聖書には答えがありません。推測が許されるなら、次の理由からでしょう。

・イエス様が十字架に架かる前に、すべき働き、語るべき言葉があったから。時期尚早でした。
・人々に伝えるべきは神の国の福音であり、しるしや奇跡だけが伝えられるべきでないから。

2.悪霊につかれて口のきけない人のいやし

9:32 この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれて口のきけない人が、みもとに連れて来られた。
9:33 悪霊が追い出されると、その人はものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言った。
9:34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。

 10番目のしるしは、悪霊につかれて口のきけない人のいやしです。イスラエルでは、悪霊によって口がきけない人は、誰にも治すことが出来ないとされていたようです。しかし、旧約聖書のイザヤ書には、メシアが来られるとき、口のきけない人が喜び歌うようになると預言されていました。

イザヤ35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。
35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは【主】の栄光、私たちの神の威光を見る。
35:3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。
神は来て、あなたがたを救われる。」
35:5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
35:6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、
口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。

 それでユダヤ人の間では、メシアが来られるときにこの預言は成就されると信じられていました。ですから口のきけない人のいやしはイエス様がメシアであるという証明となったのです。群集は驚いて「
こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」と言いました。

 けれど素直に受け入れない人たちもいました。偵察に来ていたパリサイ人たちです。彼らの高慢の罪がイエス様を素直に受け入れなかった原因だと前にお話ししました。ガリラヤ出身の田舎者、貧しい大工の息子、30歳そこそこの若造がメシアであるはずがないと。もう一つの理由はねたみでした。群衆がイエス・キリストの教えに驚嘆し、そのしるしを見て熱狂する姿を見てイエス・キリストをねたみました。

 人間の恐ろしいところは、気に食わない人がいるとき、その人が何をやっても気に入らないのです。悪意を持ってすべて受け取るからです。このパリサイ人たちもそうでした。イエス・キリストがどれほど良い教えをしても、神のしるしを行っても、彼らは気に入りませんでした。屁理屈を言ってますます憎んだのです。

 彼らの高慢とねたみが後々、キリストを十字架刑に追いやりました。群衆は指導者たちの強い意見に逆らうことが出来ず、キリストを十字架につける事に賛成し、ある人たちは黙って知らないふりをしたのです。霊的なことを言えば、その中にいた一人が私であり、あなたもそこにいたのです。全人類がキリストを十字架につけ、殺したのです。しかし、父なる神様はこのキリストを墓からよみがえらせました。それは私たちに福音が宣べ伝えられるためです。

 マタイは10のしるしを記すことにより、二つの選択を私達に提示しています。一つはキリストのしるしを見て、その偉大な御わざを素直に受け入れ、神様を賛美する生き方です。もう一つは、悪意を持ってキリストを否定し、神の言葉を無視して生きる生活です。あなたはどう考えるでしょうか?イエスは救い主だと信じるでしょうか?全部作り話だと考えるでしょうか?
 イエスがキリストなのかどうか色眼鏡をかけず、考えてください。イエスがキリストだと信じてください。

3.羊飼いがいない羊

9:35 それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。
9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
9:37 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」




 これまでのイエス・キリストの働きのまとめとなっています。すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされました。そして目の前の群衆が救いを求めて集まっている姿を見て、「
彼らをかわいそうに思われた」のです。これがイエス様の群衆に対する思いです。

 「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」とは、教え導いてくれる人がおらず、人生に疲れ、目的がなく、希望のない人生を送っている状態です。その原因は「働き手が少ない」からです。多くの人が救いを求めています。彼らに御言葉を伝え、導く牧者が必要です。イエス様一人では到底対応できません。働き手が必要です。

 この状況は今の日本でも同じです。求めている魂、病んでいる魂が多く、自ら死を選ぶ人もいます。福音が宣べ伝えられ、正しく導いてくれる人がいれば、その人たちの魂は息を吹き返すのです。日本のクリスチャン人口は1パーセントの壁を超えることが出来ない状態です。日本の風土が問題ではありません。問題は働き人が少ないという事です。

 イエス様は「
働き手を送ってくださるようにまず祈りなさい」と言われました。働き手を神様が送ってくださるという事は注目すべきことです。働き手になれと言うのではなく、送ってくださるように祈れと。宣教は人間主導ではなく神様主導なのです。人の栄光ではなく神様の栄光があらわされるためです。「私が」ではなく「あの人を」ではなく、神様が与えてくださるように祈ることから始めましょう。