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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書11章1-19節 「キリストに何を期待するのか」



 バプテスマのヨハネは、キリストが来られることを預言し、御国の福音を宣べ伝えた人です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣言し、荒野へ出ていって悔い改めに基づく水のバプテスマを授けました。

1.バプテスマのヨハネの疑い

11:1 イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。
11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
11:6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

 バプテスマのヨハネは彼の弟子たちをイエス様のもとへ遣わして、「おいでになるはずの方(メシア)は、あなたですか。」と尋ねさせました。それは獄中にいたヨハネに疑問が生じたからでした。「イエスと言う人は本当にメシアなのだろうか?」と言う疑問です。

 ヨハネが疑った理由は
@預言されたメシアなら、イスラエルの王となり、世界を治め支配されるはずなのに、どうしていまだにエルサレムに上らず、ガリラヤの田舎で働きを続けているのか?

A預言によれば、メシアは捕らわれた人を解放するはずなのに、自分は未だ牢獄に捕らえられたままでいる。
参照;イザヤ61:1-3 神である主の霊が、わたしの上にある。【主】はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。

Bヨハネの弟子たちからの報告は、悪いことばかりでした。「イエス様とその弟子たちは断食をせず、安息日の規定を破り、取税人や遊女たちと宴会を開いている…」といった内容でした。(9:14〜参照)

 バプテスマのヨハネが聞いた報告は、弟子たちの偏見に満ちた報告だったのでしょう。正しい情報が伝わっていなかったのです。ですからイエス様はヨハネの弟子たちに、正しい情報を伝えるようにと話されました。その内容はイエスがメシアとして来臨されたことを示すに十分な証明でした。

 私たちもクリスチャンになる前に、キリストについて聞いていたことは偏見に満ちたものばかりでした。教えてくれるのは神様のことを知らない人、イエス・キリストのことを信じていない人たちでした。学校で学んだことはキリスト教の歴史と概論だけでした。そこに救いのメッセージは全くありません。福音が削除されたキリスト教でした。

 しかしイエス・キリストを信じている人たちから聞く話は全く違う話でした。キリストは十字架で処刑され滅びてしまったのではなく、墓よりよみがえられて今も生きておられる、という事実でした。永遠の命が約束されている福音のメッセージでした。

 真理を知るためには正しい情報が必要です。正しい情報を伝えてくれる人が必要です。



2.ヨハネはすぐれた人

11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスは、ヨハネについて群衆に話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。柔らかい着物を着た人なら王の宮殿にいます。
11:9 でなかったら、なぜ行ったのですか。預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。
11:10 この人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。
11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

 イエス様はヨハネの弟子たちが帰っていった後、群衆にヨハネについて話されました。
@彼は預言者です・・・彼は贅沢な生活をしている人たちとは違い、荒野で神の言葉を熱心に告げ知らせた立派な預言者だと教えました。宮殿に住んで、贅沢な生活をしている人たちに対する非難も含まれています。

A彼は預言者よりすぐれた者です・・・彼は旧約聖書マラキ書3:1で預言されていた人で、メシア到来のための準備をする人だと教えました。

Bもっともすぐれた人です・・・ヨハネについては多くの記事がありませんが、わずかな新約聖書の記事だけでも彼の働きとそのへりくだりを聖書の中で見ることが出来ます。彼は何の奇跡も用いずに、悔い改めの宣教をしました。そのとき、エルサレム、全ユダヤ、ヨルダン川沿いのすべての地域の人たちが彼の元に来て水のバプテスマを受けました。彼はそれでいて自分のことを「荒野で叫んでいる声にすぎない」「私は後に来られるキリストの靴を脱がせてあげる価値もない」と言いました。働きにおいて、謙遜さにおいて、バプテスマのヨハネは卓越しています。ヨハネの熱心な宣教によって天の御国に入ろうとする人たちが増え続けていることをイエス様は認めています。



※11節では天の御国にいる人の方が彼より優れていると、説明されます。この「天の御国の一番小さい者」の解釈は難しいのですが、ヨハネがどれほど偉大な人であっても天の御国に入った人には敵わないことを主イエスは教えられたのでしょう。天の御国へ入ることはそれほど大きな祝福であることを教えておられます。

※12節の「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」とは、ヨハネが整えた道を迫害し壊そうとする人たちが増えてきた、という解釈がありますが、次を参照してください。
ルカ 16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。

 ルカ福音書では、ヨハネの宣教によって悔い改めて天の御国へ入ろうとする人たちが増えていることを教えられています。マタイも同じ文脈ですので、解釈としてはヨハネの宣教によって、多くの人が悔い改めて天の御国の民となっている(信じて義とされる)、という解釈が正しいでしょう。

C来たるべきエリヤです・・・マラキ4:5ではエリヤが再び来ると預言されていました。
マラキ4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。

 エリヤという預言者は、紀元前870年ごろから活躍した預言者でした。彼は天から火を呼び、炎の預言者と呼ばれています。彼の生涯の結末は特別でした。死を経験することなく天に上げられたと聖書は記しています。そのエリヤが世の終わりの時に再来するとマラキは預言しました。

 14節でイエス様は
「あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。」と言われました。もし人々が彼を受け入れ、皆悔い改めたなら、彼はエリヤであり、キリストの王国がすぐに始まったはずでした。しかし、歴史は違う方向へ進みました。ユダヤ人はヨハネのメッセージを聞いたのですが、来られたキリストを受け入れず十字架につけて殺してしまいました。ですからバプテスマのヨハネは預言されたエリヤとはならなかったのです。このエリヤ預言もメシア王国の預言と同様、教会時代の後に延期されてしまいました。

 近い将来、イエス様が再臨される前にエリヤが来るはずです。バプテスマのヨハネと同じように力強いメッセージを持った預言者が来て、「キリスト再臨のために悔い改めなさい。道をまっすぐにしなさい」と宣教するはずです。
(マラキ3:1と4:5の預言は別々に考えてもよいでしょう。ヨハネは確かに3:1の預言者として成就しました。しかし、4:5のエリヤとしての成就とはなりませんでした)

3.この時代の疑い

11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ』と言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行いが証明します。」


 「耳のあるものは聞きなさい」と言ってたとえを話されました。しっかり聞きなさいという強調です。大切な真理だからよく理解しなさいという事です。ここで語られているたとえは、その時代の人々の救い主に対する態度を示しています。

17節 『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 一人の子供が言います。「結婚式のお祝いごっこをしよう」。そして笛を吹いてあげるのですが、誰も遊びに加わらず、踊ってくれなかったことに文句を言っているのです。そして今度は「葬式ごっこをしよう」と言います。そして弔いの歌を歌ったのに、誰も加わってくれず、悲しんでくれなかったことに文句を言います。つまり、自分の思い通りに他の人が動いてくれないと、人は文句を言う。そういう我がままな人間を示しています。

 同じように、ヨハネが来て食べも飲みもしないのを見て、人々は文句を言いました。「あれは悪霊に憑かれているのだ」と。イエス様が来て食べたり飲んだりすると、人々は文句を言いました。「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ」と。

 メシアを待ち望んでいると言いながら、エリヤが来ても文句を言い、キリストが来ても文句を言って受け入れない。何が問題なのかと言うなら、自分の思い通りのメシアでないからと言う理由です。思い通りに願いをかなえてくれないからです。彼らが求めていたメシアは、ローマ帝国の支配を打ち砕き、イスラエル王国を打ち立てる王でしたが、来られたメシアは全く違いました。ガリラヤの田舎町出身で、ローマ帝国を打ち壊すどころか、ユダヤの律法の規定すら守らず、飲み食いしている…思い通りのメシアではなかったのです。期待はずれでした。

 私たちはキリストが十字架に架からなければならなかったことを知っています。私たちの罪の贖いのためです。そしてよみがえられたこと、教会時代が始まったこと、イエス様が再び来て支配されるという預言を知っているのは何と幸いでしょう。

 イエス様がここで教えておられることをしっかり心に留めたいと思います。わがままな信仰を持たないようにしましょう。あなたはキリストに何を期待するのでしょうか?自分の幸せばかりを追い求めるならキリストにつまづいてしまいます。なぜなら、試練や迫害、困難は必ずあるからです。
 10章での12使徒に対するイエス様の言葉は厳しい言葉でした。「わたしは剣をもたらすために来たのです。」「自分の十字架を負ってわたしについてきなさい」

 クリスチャン一人一人も、キリストが来られる準備をするべきです。あなたはその準備をされていますか?――それはヨハネがしたように福音を伝えることです。イエス様が再び来られるときまで準備を続けていきましょう。