マタイによる福音書11章20-30節 「疲れた人、重荷を負っている人」

 先回の学びでは、バプテスマのヨハネが不信に陥り、イエス様に疑問を投げかけました。「おいでになるはずの方は、あなたですか?」・・それに対するイエス様の答えは、「わたしにつまずかない者は幸いです。」でした。ユダヤ人たちの願いは王としてイスラエルを治めるキリストでした。しかし、イエス・キリストは完全な救いのために、まず私たちの罪の問題を解決するためにこの地上に降られました。悲しみのメシアとして、家畜小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされなければなりませんでした。宮殿に住む王子ではなく貧しい大工の子として働かなければなりませんでした。苦しみを受け、十字架に釘づけにされなければなりませんでした。木に架けられ、人々の罪を背負って呪われた者とならなければなりませんでした。すべての事には理由がありました。私たちに罪の赦しを与えるため、キリストはご自分を犠牲にされたのです。それを人々は理解しようとしませんでした。多くの人がイエス・キリストにつまずいたのです。

1.悔い改めない人々 20節-24節

11:20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
11:21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
11:23 カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
11:24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
 イエス様は悔い改めない人々に対するさばきについて語られます。町単位で裁かれることを預言されました。その町々とはコラジン、ベツサイダ、カペナウムです。いずれもガリラヤの町々であり、イエス様が伝道された町々です。特にカペナウムはガリラヤ伝道の拠点とされた町でした。その町の人々が悔い改めなかったと責められています。イエス・キリストが来られて、大勢の病人をいやし、悪霊に憑かれた人を直され、死人を生き返らせました。それを見て多くの人々は驚いたでしょう。「素晴らしい神の御わざだ!」と言って神様を誉め称えたかもしれません。でもそれで終わりでした。彼らは自分の生活を変えようとはしませんでした。今までの不信仰を悔いて改めようとしませんでした。イエス・キリストにつまずき、信じて歩もうとしませんでした。何も変わらなかった・・・それが彼らの大きな罪でした。「ツロ、シドン、ソドムの町のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。」 ツロとシドンの町は、不道徳と偶像礼拝がはびこり、預言者からのさばきの警告を幾度も受けたのに悔い改めない町でした。ソドムは暴力が支配し、性的堕落の町であったために天から降る硫黄の火によって滅ぼされた町でした。それらの町々よりひどいさばきを受けると言うのです。それは神の御子キリストの説教を聞き、しるしを見たのに悔い改めなかったからです。
 私たちは歴史から学ばなければなりません。不道徳な町、偶像礼拝を行う町は常に滅ぼされてきました。日本は今がその瀬戸際かも知れません。このまま福音を無視して不道徳の中を歩むなら、日本という国は必ず滅んでいくでしょう。異常気象や原発は大きな問題ですが、最も大きな問題は不信仰と堕落です。どれほど良いリーダーが立てられ、良い政治が行われても、人々の心が清くなければ国は滅んでいきます。神の言葉を無視し続けるなら、ますます人の心は冷たくなり、問題は増え、残酷な犯罪も増えていきます。しかし、人々が福音を聞いて悔い改めるなら、神様の祝福にあずかります。日本に本当に必要なものは、福音です。
(政治に意味がないという事ではありません。正しい政治を志すクリスチャンの国会議員が増えることを願います。)

2.悔い改めた人々 25-27節

11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
 イエス様は罪を悔い改めない人たちにくだる裁きを語られましたが、向きを変えられ、父なる神様に感謝しています。それは悔い改めて、救いを受ける人たちもいたからです。「幼子たち」です。「幼子たち」とは、実際の幼い子供たちも含むでしょうが、幼子のように純粋に神の言葉を求める人たちの事です。そういう人は謙遜であり、へりくだる人、心の貧しい人です。賢い者や知恵のある者は「幼子たち」と区別されています。なぜなら、彼らは「自分は何でも知っている、自分は自分の知恵で生きていける」と思うからです。神様を必要としません。へりくだることが出来ません。聖書がどれほど永遠の救いについて語っても、自分の考えと合わなければ受け入れません。でも「幼子たち」は違います。「心の貧しい人」は違います。神様の言葉を喜んで受け入れます。自分には神様の救いと助けが必要だと思うからです。「幼子たち」だけが悔い改めることが出来ます。そして、これが父なる神様の御心であり、ご計画であったとイエス様は語られました。これはまさに信仰の奥義です。

3.イエス様の招き 28-30節

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

a.わたしのところに来なさい。
 再びイエス様は向きを変えられて、人々に語られています。これはイエス様の招きのことばです。疲れた人、重荷を負っている人への招きです。皆さんも生きていく中でいろいろな疲れがあるでしょう。いろいろな重荷があるでしょう。イエス様は「わたしのところに来なさい。わたしが休ませてあげます」と言われます。どのようにしてイエス様は私たちを休ませてくださるのでしょうか?課せられている仕事や責任を捨て去れと言われるのでしょうか?
b.わたしのくびきを負いなさい
 その方法は、「わたしのくびきを負いなさい」という事です。くびきとは何かを説明しなければ話が進みません。くびきとは牛を使って畑を耕す時に牛の首のところに取りつける横木です。これを使って牛を正しい方向へ歩かせ畑を耕させるのです。
 単純に考えるなら、苦しんでいる人にさらにくびきを負いなさいというのは重荷が増えることです。しかし、イエス様が「わたしのくびきを負いなさい」と言われた理由は、それまでのユダヤ人は別の重いくびきを付けられていた、と言う前提があります。
使徒 15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
 この個所では、教会時代に入り、異邦人クリスチャンが増えてきたときに、エルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちが「異邦人にも律法を守らせるべきではないか?」という事を議論していたときの使徒ペテロのことばです。ペテロは「自分たちも負いきれなかったくびきを負わせるべきでない」と言っています。つまり、くびきとは、彼らが守らなければならなかった旧約の律法の規定すべてを示しています。それらは重いくびきであったことを認めています。また、使徒パウロも次のように書いています。
ガラテヤ 5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
 ここでのくびきも、律法の規定であり、律法を守ろうとする人たちについて、「彼らは奴隷となっている」とパウロは語っています。つまり、くびきとは、律法の戒めによって支配され強制的に従わされている状態です。イエス様がここで教えられていることは、「今までは負いきれないほどの律法や規則、義務を課せられて、それを守ろうとしてきた。しかし、あなたはそれらを守ることが出来なかったでしょう。失敗し、罪を犯して苦しんできた。けれども、これからは古いくびきは捨てて、わたしのくびきを付けて私に従いなさい。私があなたを導きます。わたしのくびきは軽いから、あなたはもう疲れたり、重荷で苦しむことはありません」という意味です。
※「くびき」には別の解釈があります。二頭の牛をつなぐ横木と考え、イエス様が私たちと共にくびき(重荷)を負って歩んでくださるという解釈です。しかし、「イエス様が与えられるくびき」と解釈するほうが文脈と合っているでしょう。
c.わたしから学びなさい

 次にイエス様は「わたしから学びなさい」と言われます。言い換えるなら「イエス様の弟子となりなさい。イエス様の学校に入学しなさい。」という意味です。それは奴隷となることではありません。なぜなら、イエス様の愛に満ちた学校、感動の授業だからです。それは恵みと祝福を受ける学びです。真理を知る学びです。

 私たちがこの社会から学んできたことは、周りの人との競争であると思います。隣の人に負けないように、落ちこぼれないように、後ろ指を指されないように頑張ることでした。落ちこぼれた人を見て、非難し、陰口を言い、優越感に浸って、「ああいう人にはなりたくない」と他者を見下すことによって自分を励ましました。しかし、本当は自分が善い人間でないことを自分自身がよく知っているのです。自分が裸の者であって、みじめで、誰も愛することが出来ない愚かな者であることを知っています。
 イエス様の元に来るとき、私たちは休みをいただくことが出来ます。自分が罪びとであることを素直に認めることが出来るからです。その時にイエス・キリストの十字架の意味が見えてきます。誰にも赦してもらえなかったあなたを父なる神様は赦してくださり、そのままのあなたを受け入れてくださるのです。これからは競争ではなく、神様の栄光のために、そして人々を愛するために働くことが出来ます。このくびきは、まったく重くないくびきです。どうかイエス様の招きに応じてください。イエス・キリストのところに来て、イエス様が与えるくびきを負ってください。そしてイエス様から学んでください。必ずあなたの魂に安らぎが来ます。「キリストを信じてよかった!生きていてよかった!」と感謝に満ち溢れるようになります。