マタイによる福音書12章1-8節 「人の子は安息日の主です」
   参照マルコ2:23〜28、ルカ6:1〜5 ※マルコ、ルカ福音書では、手のなえた人のいやしの後に12使徒宣教となっています。
   前章までの出来事;公生涯開始(3章)→バプテスマ→悪魔との対決(4章)→山上の垂訓(5-7章)→10のしるし(8-9章)→12使徒の宣教(10章)→不信仰に対するさばき(11章)

 ガリラヤにおけるイエス・キリストの宣教が拡大するにつれ、つまづく人、疑問を抱く人が出てきました。そのおもな理由は
◎キリストなら、なぜエルサレムにのぼり、王として支配されないのか?
◎どうして取税人や遊女たちと宴会を開いて飲み食いしているのか?
というものでした。パリサイ人や律法学者たちは偵察に来て、イエス・キリストの行動を観察していました。彼らはイエスのことを、異端者、危険分子として見ていたのです。「ナザレから何のよいものが出ようか!」と言われたように、田舎から出てきた反乱の指導者だと考えました。12章はその衝突が公に明らかなものとなっていった場面です。

一、安息日問題;麦畑での出来事
12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
@安息日でもイエス様と弟子たちは伝道の旅をしていたことが分かります。
A「ひもじくなった」・・主イエスの奇跡によって弟子たちがいつもお腹を満たしていたのではありません。「人の子には枕するところもありません」とイエス様が言われたように、厳しい伝道の旅であったでしょう。弟子たちの所持金を集めて伝道資金にしていましたし、弟子達の家族やイエス様を信じた人の家で食事をさせてもらいました。何も口にすることが出来ないときもあったでしょう。イエス様と共に歩む人は、貧しさを味わうことを覚悟しなければなりません。
B「穂を摘んで食べ始めた」・・貧しい人が隣人の畑に入って作物を食べることを律法は許しています。
申命記23:24 隣人のぶどう畑に入ったとき、あなたは思う存分、満ち足りるまでぶどうを食べてもよいが、あなたのかごに入れてはならない。
23:25 隣人の麦畑の中に入ったとき、あなたは穂を手で摘んでもよい。しかし、隣人の麦畑でかまを使ってはならない。

律法には貧しい人、弱者のために多くの規定が設けてありました。落穂ひろい、ヨベルの年も同じ趣旨からです。
 問題は「穂を摘んで食べ始めた」のが安息日であったことです。
12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」
「パリサイ人」とは律法を学び、解釈し、それを順守していこうとする人たちです。現在ではユダヤ教正統派と言われている人たちがこの流れです。その多くは熱心な真面目な人たちです。しかしここに登場してくるパリサイ人らは、イエス・キリストの行動の偵察して、彼の不正を見つけ出そうとしていました。
「安息日にしてはならないこと」とは、穂を摘んだことを指摘しています。隣人の麦畑に入り、食べたことは問題ではありません。穂を食べるために、安息日に収穫、脱穀したことは労働にあたるというのです。馬鹿げていると私たちは思いますが、ユダヤ人たちは真剣にそう信じていました。現在でもユダヤ教にはこの様な規定がたくさんあり、彼らはそれらを守っています。
 「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。どんな仕事もしてはならない」;このモーセの十戒から安息日規定は始まりました。そしてユダヤ教は安息日にしてはいけない39種類の労働を規定しています。
1. Planting 2. Plowing 3. Reaping 4. Binding sheaves 5. Threshing 6. Winnowing 7. Selecting 8. Grinding 9. Sifting 10. Kneading 11. Baking 12. Shearing wool 13. Washing wool (Scouring/Laundering) 14. Beating/Combing wool 15. Dyeing 16. Spinning 17. Weaving 18. Making two loops 19. Weaving at least two threads 20. Separating two threads 21. Tying 22. Untying 23. Sewing 24. Tearing for the purpose of sewing 25. Trapping 26. Slaughtering 27. Flaying 28. Curing hide 29. Scraping hide 30. Scoring 31. Cutting hide into pieces 32. Writing 33. Erasing 34. Building 35. Tearing something down 36. Extinguishing a fire 37. Igniting a fire 38. Applying the finishing touch 39. Transferring between domains
1. 植え付け 2. 耕す 3. 収穫 4. 束にする 5. 脱穀 6. 穀物ともみ殻を分ける 7. 選別 8. 研摩 9. ふるいわけ 10. 練る 11. ベーキング 12. 剪断羊毛 13. 羊毛を洗う 14. 羊毛を打つ 15. 染色 16. 紡績 17. 機を織る 18. 二つの輪の作成 19. 最低2本の糸を織る 20. 分離 21. 結合 22. ほどく 23. 縫い物 24. 裁断(縫い物) 25. トラッピング26. 屠殺(とさつ 27. 皮を剥ぐ 28. 皮を治す 29. 皮をこすり落とす 30. スコアリング 31. 皮の裁断 32. 書く 33. 消す 34. 建設 35. 解体 36. 消火 37. 点火 38. 仕上げのタッチを適用 39. 移動 (日本語はWeb翻訳参考ですので、正確でないかも知れません)
 これら39種類の禁止事項それぞれに細かい規定をさらに付け加えています。これらはモーセの十戒とは別に、モーセが書き記さなかったが口で伝えた律法とされ、口伝律法と呼ばれています。本来、口で伝えられるべきものを記述し、まとめたものがタルムード、又はミシュナーと呼ばれています。新約聖書の中でたびたび登場する「安息日の距離」は、細則で規定されており、2000キュビト(約900m)と定められています。
 現在でもイスラエルでは、安息日にボタンを押すことさえ労働とみなすため、電気器具のスイッチを押すことをしません。電話に出ません。車の運転もしません。調理もしません。ペンを持って書くことも労働とみなされます。ユダヤ教正統派の人たちはこのような規定をかたくなに守っています。ですから、厳格なパリサイ人にとって、イエス様の弟子たちの行動はまさに安息日規定の違反でした。

二、イエス様の答え

 パリサイ人の批判に対してイエス・キリストは五つのことを挙げて真理を教えておられます。
@ダビデの例
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。
12:4 神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。
 これは1サムエル記21:1-6に書かれている出来事です。
Tサムエル21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに行った。アヒメレクはダビデを迎え、恐る恐る彼に言った。「なぜ、おひとりで、だれもお供がいないのですか。」
21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、ある事を命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じた事については、何事も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。
21:3 ところで、今、お手もとに何かあったら、五つのパンでも、何か、ある物を私に下さい。」
21:4 祭司はダビデに答えて言った。「普通のパンは手もとにありません。ですが、もし若い者たちが女から遠ざかっているなら、聖別されたパンがあります。」
21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「確かにこれまでのように、私が出かけて以来、私たちは女を遠ざけています。それで若い者たちは汚れていません。普通の旅でもそうですから、ましてきょうは確かに汚れていません。」
21:6 そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、【主】の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。

 ダビデが王となる前、初代イスラエル王サウルに仕えていた時の話です。ダビデがサウル王のねたみによって宮殿から逃げたときに、アヒメレクと言う祭司のところに立ち寄り、食べ物を求めました。その時、祭司アヒメレクは祭壇にささげられたパンを彼に与えました。
※神の宮には常に12個のパンがささげられ、安息日ごとに新しいパンと取り換えられました。その取り下げられたパンは祭司だけが食べることが出来ました。
レビ24:5 あなたは小麦粉を取り、それで輪型のパン十二個を焼く。一つの輪型のパンは十分の二エパである。
24:6 それを【主】の前の純金の机の上に、一並び六個ずつ、二並びに置く。
24:7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、【主】への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。
24:8 彼は安息日ごとに、絶えずこれを【主】の前に、整えておかなければならない。これはイスラエル人からのものであって永遠の契約である。
24:9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への火によるささげ物のうちから、彼の受け取る永遠の分け前である。」

 律法の規定では祭司しか食べてはならないパンでした。それをダビデと側近の者たちが食べたのです。つまり、パリサイ人が偉大な信仰者と認めるダビデでさえ、ひもじいとき、命をつなぐために、律法の規定を破っている。したがって危急の時には赦される律法がある、とイエス様は教えています。

A宮にいる祭司たち
12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。
 宮にいる祭司たちにとって安息日は休みではなく、忙しく働かなければなりません。規定されたささげものをささげ、礼拝の務めをします。彼らにとってそれは労働であり、平日以上に多くの仕事がありました。しかし、その奉仕(労働)は安息日の規定に全く抵触しません。・・安息日の労働禁止には例外があるのです。

B宮より大きい者
12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。
 宮よりも偉大、宮よりも価値のある者・・それはイエス様ご自身の事です。イスラエル人にとって宮は神の住まいでした。その住まいより偉大なものは一つしか考えられません。それは神ご自身です。つまり、イエス様はここで、ご自身が神と同一である事を啓示されています。イエス様の主張は、宮のために働く祭司たちが、安息日に労働しても罪に定められないなら、神であり救い主であるキリストのために働く弟子たちが安息日に働くことは、まったく罪ではない、ということです。

Cあわれみといけにえ
12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。
 この言葉は旧約聖書の中で幾度となく語られています。
Tサムエル15:22 するとサムエルは言った。「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
ホセア 6:6 わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。

 これらの御言葉を理解していたら、正しい判断が出来るはずだと教えられます。律法の規定に熱心になることはよいことでした。安息日の規定を守ることは大切で素晴らしいことでした。しかし、規定のためにあわれみの心を失って人を裁くのは大きな間違いであると教えられます。いつも私たちは自分の考えや言動が正しいと思います。そして自分の考えに合わない兄弟姉妹を非難します。罪に定めるのです。しかし、自分も罪びとであり、イエス様によって赦されたことを忘れてはいけません。気を付けなければ誰でもすぐにパリサイ人になってしまうのです。

D安息日の主
12:8 人の子は安息日の主です。
 イエス様はここではっきりとご自身のことを「安息日の主」だと言われました。創造主と同一であることの宣言です。安息日の主が安息日に働いたからと言って罪とされるはずがありません。なぜなら、神は今に至るまで私たちのために働いておられるからです。
ヨハネ5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
 しかし、パリサイ人にとってイエス・キリストのこれらの言葉は、神に対する冒涜としか映りませんでした。そのため、パリサイ人はイエス・キリストを殺そうと相談する結果となりました。

注:イエス様は「そんなことは律法に書かれてはいない」と反論されませんでした。彼らが信じ守り行っていることを認めながら反論されています。おそらく、一つの戒めに対する適応の範囲は人それぞれ異なるからでしょう。「安息日に仕事をするな」と命じられるときに、細かい事まで仕事ととるか、大まかな事だけを仕事ととるかは個人差があるからです。パリサイ人が細かい規定を設けて守ろうとしていたこと自体は大きな問題ではなく、彼らのあわれみのない考え方、そしてイエス・キリストに対する考え違いが問題でした。


三、適応


 私たちはこの記事を読むときに、高慢なパリサイ人に対するイエス様の非難として受け取るだけで終わってはいけません。私たちにもこの聖書箇所は重要なことを教えています。
@安息日の主として信じること
 教会時代では安息日(土曜日)の代わりに日曜日が礼拝日とされています。それはイエス・キリストの復活と、聖霊降臨による教会誕生に根拠を置いています。では、日曜礼拝を私たちクリスチャンは必ず守るべきでしょうか?・・・絶対に守るべきだという人、大事な用事がなければ礼拝を守るという人、気が向いたら礼拝に出席するという人・・あなたはどうでしょうか?---聖書に規定として書かれていないことは幸いです。律法ではなく、神様の恵みによって私たちは礼拝をするからです。霊とまことによって礼拝することが求められています。律法ではなく、強いられてでもなく、ただ、神を愛し、慕い求める人々によって礼拝がささげられる・・その様な礼拝を神様は喜ばれます。神様は礼拝者に喜びと平安を与えられます。迫害にも災害にも耐える心、貧しい中にあっても満ち足りる心、大震災に遭ってもびくともしない平安です。だから私たちは主を礼拝するのです。

Aあわれみといけにえ
 礼拝も賛美も奉仕も献金も、大切な事に間違いはありません。しかし、それを強いることは御心ではありません。強いられるなら恵みではなくなります。パウロは献金について次のように書いています。
Uコリント 9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
 けれども自由気ままな信仰生活がよいかと言えばそうではありません。教えられること、学んでいくいことは私たちの信仰の成長のために必要なことです。聖書はだらしのない信仰生活を送っている人を戒めなさい、と教えています。
コロサイ 1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。
Tテサロニケ 5:14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

 このキリストにある自由と戒めのバランスは大切です。パリサイ人になってはいけません。しかし放縦なクリスチャンになってはいけません。このバランスを保つことは本当に難しいことです。ただ、次のことを心にとめることは大きな助けになるでしょう。イエス様は常に高慢な人に対して厳しく、自分の弱さ、罪に苦しむ人に対して優しいお方だという事です。