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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書13章1-23節「実を結ぶクリスチャン」



 今日のタイトルは「実を結ぶクリスチャン」です。この聖書箇所には、実を結ぶ人と結ばない人がいることが教えられています。それは神様の子どもとして実を結ぶという事です。キリストの驚くばかりの恵みによって救われたのだから、実を結ぶクリスチャンになろう!・・それが今日の説教の目的です。そして、もう一つの目的は「天の御国の学者」になるという事です。この13章のたとえ話を理解するなら、私たちは天の御国の学者になれるのです。

13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」

1.七つの「天の御国のたとえ」

 13章では、たとえ話が7つ続きます。「天の御国のたとえ」です。これはイエス・キリストがこれまで宣べ伝えてきた「天の御国」とは異なります。主イエスが宣べ伝えてきた「天の御国」は、旧約聖書で預言されていた「メシアが支配する王国」でした。それはダビデに約束された永遠の王国です。しかし13章で語られている「天の御国」は「世のはじめから隠されていた」と35節で言われています。つまり、「奥義としての天の御国」であり、それは今の時代、教会時代の事です。

2.たとえの目的

 なぜ、イエス様はたとえで話されたのでしょうか?――弟子たちも不思議に思って質問しています。
13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」
13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
13:12 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
13:13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。

「彼らには許されていません」とはどういう事でしょうか?――二つの理由があります。
@「奥義としての天の御国」はイスラエル人のための福音ではないからです。彼らはまず「メシアが支配する王国」の福音を聞き、受け入れなければならなかったのです。
A彼らが信じないからです。イエスをメシアとして受け入れた人は、奥義を知る権利が与えられます。信仰を持って聞く人だけに将来の啓示が与えられるのです。

 これは現在の教会時代でも同じです。聖書には多くの預言がありますが、聖書の言葉を信じていない人に預言を話しても意味がありません。聖書を神の言葉と信じていないなら、将来のことを話しても信じないからです。信じるどころか預言の言葉を笑い種とし、信者や教会を批判することになりかねません。預言は信者のために与えられています。ですから預言を知っているからと言って未信者に話すことは控えるべきでしょう。

Tコリント 14:22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
※通常、たとえを用いるのは、話を分かりやすくするためですが、イエス様のたとえは、話を分かりにくくするために用いられている場合があります。それは実に神の知恵です。

3.種蒔きのたとえ  (教会時代における宣教)

13:3 イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
13:4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
13:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
13:6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」



 @道ばたに落ちた種・・・鳥が食べてしまった。
 A岩地に落ちた種・・・・根がないため枯れた
 Bいばらの中に落ちた種・・・ふさがれてしまった。
 C良い地に落ちた種・・・実を結んだ。

 このたとえの解き明かしは18-23節です。
13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

 @心に蒔かれた種を奪っていく悪い者とは悪魔です。(ルカ8章参照) 教会時代においても悪魔の働きは続きます。
 A自分のうちに信仰の根がない人は、試練、迫害、困難に遭うとつまづいてキリストから離れてしまいます。
 Bクリスチャンとして生活していても、富の誘惑や自分の生活の心配、快楽の思いがいばらのように覆いかぶさり、実を結べません。
 C御言葉を聞いて悟る人とは、御言葉を喜び、正しく受け入れ、試練に耐えていく人です。

 確かにイエス様の種まきのたとえは今の教会時代を表しています。
・はじめて教会へ来て福音を聞き、感激して「とてもいいお話でした。また来ます!」と言って、二度と来られない人がいます。教会へ行きたいという気持ちはあっても、町内会の用事があったり、友人が遊びに来たり、子供の学校行事があったり、そうこうしているうちにせっかく芽生えた信仰心が無くなってしまうのです。
・信じる決心をしたのに、家に帰って両親に話すと親の反対に遭い、信仰から離れる人もいます。配偶者や子供の反対でくじけてしまう人もいます。
・イエス様は信じているが、自分の趣味の時間を持ちたい、家族サービスを優先したい、と言う理由で信仰生活を止める人もいます。
・信仰生活を断念する人には、様々な理由があります。個人的な理由(仕事、家族、誘惑・・)、教会での人間関係のつまずき、牧会者への不満・・などが多いようです。そういう人たちにとって日曜礼拝出席や毎日のディボーションは重荷と感じられ、実を結べないのです。

 イエス様はこのたとえを話しながら、クリスチャンを分類し、ランク分けしているのでしょうか?・・そうではありません。このたとえはクリスチャンに対するイエス様の切なる願いなのです。「実を結ぶクリスチャンになりなさい」と!

13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
13:17 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。


 見て信じる人は幸いです。聞いて信じる人は幸いです。その人は神の国に入るからです。
イエス様が十字架に架かり、血を流し、激しい痛みに耐えてその命を投げ出されたのは、あなたを永遠の裁きから救い、天の御国に導き、永遠の救いの喜びを与えるためです。主はこの一事のためにご自分をささげられたのです。その確証のために墓より三日目によみがえられ、今も生きて働いておられる救い主となられました。

 イエス・キリストの福音を信じる者は誰でも救われます。確かにイエス・キリストを信じる者は死んでも生きるのです。どんなに汚れた罪人であっても信じるだけで救われる恵みの時代です。神の霊が信仰者のうちに住まわれる時代です。だから教会時代のことをイエス様は「天の御国」と呼ばれています。

 このかけがえのない福音によって救われたのは、私たちがキリストにあって新しい歩みを始めるためです。世の光として、地の塩として生きるためです。ですから、悪魔の誘惑に負けてはいけません。肉の欲に負けてはいけません。この世に負けてはいけません。みじめなクリスチャンにならないでください。実を結ぶクリスチャンになりましょう。

4.実を結ぶクリスチャンになるため



 実を結ぶクリスチャンになるためにはどうしたらよいのでしょう?――この種まきのたとえの四つ目から学ぶことが出来ます。
ルカ 8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

 おいしいお米を作るためには、
@春になって良い土壌(育苗箱)に種が蒔かれなければなりません。---それは良い心、正しい心で御言葉を聞くことです。そうすると芽を出し、苗となります。
A育った苗を田植えし、陽に当て、しっかり水が与えられなければなりません。そして病気や害虫から守られなければなりません。--神様の恵みをいただき、御言葉を吸収して、強くなるのです。
B夏の日照りに耐え、台風の激しい雨風にも耐えなければなりません。----試練に耐えるのです。そうするなら、時が来ると神様が実を結ばせてくださいます。一本の苗から100倍、60倍、30倍の実を成らせていただけます。

 この種まきのたとえは実を結ぶ人になることを教えると同時に、種を蒔くことの大切さを教えているでしょう。お米のたとえを続けるなら、その年に良く実った稲穂を取って置いて種籾(たねもみ)にして、翌年の種とします。それは実を結んだクリスチャンこそ次にその種を蒔く人になるのです。それは福音を宣べ伝えることです。種を蒔かなければ収穫はありません。そして、良い地に落ちた種から収穫することが出来ます。

 神様はこの教会時代、みことばを宣べ伝えなさいと命じておられます。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい、と。イスラエル人、異邦人の区別はありません。身分の高い人にも低い人にも、大人にも子供にも、男性にも女性にも、富む人にも貧しい人にも福音の種を蒔き続けなさいと命じられています。