マタイによる福音書13章44-58節 「教会時代の収穫」   並行カ所;マルコ6:1-6 三つのたとえはマタイのみ

 13章には七つのたとえ話があります。隠されていた「天の御国の奥義」と呼ばれています。それは教会時代についての預言の言葉です。最初の種まきのたとえは、「教会時代における福音宣教」についての預言でした。次の三つのたとえは、「教会時代における教会成長とサタンの働き」についての預言でした。そして今日の三つは「教会時代における収穫」を預言しています。

1. 二つの解釈

 畑に隠された宝と、真珠のたとえの解釈は大きく二つに分かれています。
@一般的な解釈は「宝、真珠とはキリストであり、このキリストの救いを受け天の御国に入ることは、すべての財産を投げ売る価値がある。」という解釈です。
Aもう一つの解釈は「宝、真珠を買う人こそキリストであり、私たちクリスチャンが宝、真珠である」という解釈です。
私はAの解釈が正しいと考えます。その理由は、
 ◎マタイは、地引き網のたとえを含めた三つのたとえ話を一まとめにしていると考えられ、いずれも教会時代の収穫について教えていると考えられるから。
 ◎他のたとえでは、種を蒔く人、網を引き上げる人はキリストであり、常に主人公はキリストであり、その宣教と収穫が主題だから。
 ◎「キリストの救いを得るためにすべてを投げ捨てよ」というメッセージは教会時代の福音、奥義ではありません。教会時代の福音、奥義は、神様の恵みによって救われることです。
 従って、キリストが宝と真珠を買う人であり、私たちに罪の赦しを与えるためにその命まで捨ててくださったという尊い真理を教えていると考えられます。この解釈を取るなら、さらに深い真理を見い出すことが出来ます。

2.畑に隠された宝

13:44 天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。
 キリストは宝を手に入れるために、そのすべてを投げ売ってくださるお方です。キリストは十字架に架かり、その命までささげて人を買い戻してくださいました。ここで「畑に隠された宝」と言われているのは誰でしょう。聖書の中で宝と言われているのは、常にイスラエル選民の事です。※聖書中、教会またはクリスチャンは一度も宝と呼ばれていません。
詩篇135:4 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。
出エジプト19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
出エジプト39:14 これらの宝石は、イスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい、十二個で、十二の部族のために印の彫り物が、一つの名につき一つずつあった。
申命記7:6 あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民だからである。あなたの神、【主】は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。

 イスラエル人は今の教会時代においては確かに隠された宝といえるでしょう。民族として1900年近く離散の民で、誰の目にも滅びたと思われていました。また、霊的にも彼らはキリストを受け入れないため、祝福されず、選民としての立場を失ったような状態です。神様は彼らを教会時代の間、あえて隠しておられます。それは彼らが救い主を十字架につけたからです。彼らの不信仰に対するさばきです。しかし、神様の目には彼らは依然として選ばれた民族です。宝の民です。マラキ書3章では、将来、再び彼らが宝の民となるという預言があります。
マラキ3:6 【主】であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。
3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。──万軍の【主】は仰せられる──しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか』と言う。
3:17 「彼らは、わたしのものとなる。──万軍の【主】は仰せられる──わたしが事を行う日に、
わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
 畑に隠された宝のたとえは、イスラエル選民のためにイエス・キリストは十字架に架かられたことを教えています。

3. すばらしい値打ちの真珠

13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。
 真珠を得るために、すべてを投げ売ってくださるお方はキリストです。
◎真珠というのは、昔のイスラエルでは金銀以上に高価な物でした。養殖がない時代ですから天然の物だけでした。養殖真珠の技術が用いられるようになったのは今から約100年前の出来事です。
◎質の良い真珠は、イスラエルでは採れず、ペルシャ湾やインド洋で採れたようです。ですから商人たちは、良い真珠を捜して遠い所まで旅をしました。インドから輸入していたとも言われています。そのため真珠はとても高価でした。
◎旧約聖書の箴言では、真珠は知恵に比べる高価なものの代表として取り上げられています。新約聖書でも「豚に真珠」と言うことわざになっている通り、高価なものを示しています。
箴言 8:11 知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。
マタイ 7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。

 では、真珠は何を示しているのでしょうか?・・イスラエル人にとって高価な真珠のイメージは、外国からの輸入品、外国産と言うものでした。イスラエル産ではありません。つまり、良い真珠とは異邦人クリスチャンの事をこのたとえは示しています。キリストは宝であるイスラエル選民のためだけでなく、素晴らしい価値の真珠である異邦人のためにも十字架で血を流してくださり、買い取ってくださったことを教えています。
 何と素晴らしい真理でしょう。私達、異邦人クリスチャンを、神様は素晴らしい値打ちの真珠だと言ってくださっています。一つの真珠のためにもイエス・キリストはすべてを捨てて、買い取ってくださるのです。ここにイエス・キリストの私たちに対する愛が示されています。

 参考;天然真珠ができるのは、「砂などの異物が体内に入ったこと」が原因だと言われてましたが、最近の研究では、貝の中にある外套膜と言う部分が破損して破片が体内に入った時に作られると考えられています。貝がその壊れた組織を包んで真珠を作るのは、ちょうどキリストの愛の様だと思います。私たちは神様の前で本当は役に立たない者でした。罪に汚れた者でした。何も誉められる所のないものです。壊れたガラクタでした。しかし、キリストは壊れたガラクタのような私たちをその愛で包み、輝きを与え、素晴らしい価値ある者と変えてくださいました。イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負ってくださり、十字架で死んでくださったからです。身代わりの死によってすべての罪が赦され、神の子供とされたのです。何と感謝なことでしょう。これからは真珠を見るたびにこの真理を思い起こしましょう。
 
4.地引き網のたとえ

13:47 また、天の御国は、海におろしてあらゆる種類の魚を集める地引き網のようなものです。
13:48 網がいっぱいになると岸に引き上げ、すわり込んで、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるのです。
13:49 この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、
13:50 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。
 地引き網のたとえは、宝のたとえと真珠のたとえのまとめとなっています。また13章で語られたすべてのたとえのまとめでもあります。
◎網を引き上げる人は・・キリストです。
◎網をおろす海とは・・・全世界の事を指しています。
◎あらゆる種類の魚とは・・世界中の人々であり、イスラエル人も異邦人もすべて含まれます。身分の高い人も低い人も、大人も子供も、男性も女性も、富む人も貧しい人も含まれます。
◎網がいっぱいになるとは・・救われるべき人が救われる時、教会の完成の時です。
ローマ11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
◎良いものは器に入れ、悪いものは捨てる・・毒麦のたとえと同じです。「主よ」と叫ぶ人たちの中には、偽物のクリスチャンがいます。イエス・キリストは彼らを仕分けます。悪い者たちに対するさばきは永遠に火の燃える場所です。永遠の地獄があることを聖書は間違いなく教えています。

5.天の御国の学者となる

13:51 あなたがたは、これらのことがみなわかりましたか。」彼らは「はい」とイエスに言った。
13:52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す一家の主人のようなものです。」
13:53 これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。
 皆さんは七つの天の御国のたとえが理解できたでしょうか?弟子たちは「はい」と答えました。しかし、彼らのその後の言動を見ると、十分な理解ではなかったと感じます。このたとえ話をあなたがよく理解するなら、天の御国の学者となるとイエス様は教えています。しかし、ここでもたとえが用いられています。
自分の倉から新しい物でも古い物でも取り出す…簡単に言うなら、新しい契約と古い契約といえるでしょう。「律法と恵み」、「イスラエルと教会」、「地上でのメシア王国と霊的王国」「新しいぶどう酒と古いぶどう酒」(9:17参照) それらの区別をして神様の御心とご計画を理解しなければなりません。二つを混ぜてしまうなら、天の御国の奥義は決して理解できません。
Tコリント4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
 この聖句から、時代を分けて考える聖書解釈、ディスペンセーションという神学が生まれました。今の教会時代は本当に恵みの時代です。特別な時代です。もうすぐその時代の終わりが来ようとしています。その日はノアの日の様だと主イエスは言われました。
マタイ24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 当時の人たちは、ノアの家族以外は誰もノアが語る福音の言葉に耳を傾けませんでした。「洪水がもうすぐ来るから、救われるために箱船に入りなさい」・・これが彼らの時代の福音でした。しかし彼らは信じず、箱船に入ることを断りました。その結果、彼らは洪水で滅びました。箱船だけが救われる方法だったからです。今の時代も同じように福音が語られています。イエス・キリストの福音です。私たちが救われる方法はこの福音以外にありません。信じない者は滅びると警告されています。どうか福音の言葉を信じてください。イエス・キリストを信じて、滅びから救われてください。

6.ナザレへの最後の訪問

13:54 それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。
13:55 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
13:56 妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」
13:57 こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
13:58 そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。
 天の御国のたとえの後に、イエス様が郷里ナザレに戻られる記事が続いています。帰郷の理由は、
・心配している家族のため。12:46参照
・受難へ向けて、家族と郷里の人々への最後の訪問のため
と考えられます。
 訪問の結果、ナザレの人たちはイエス・キリストにつまずきました。その時、イエス様は次のように言われました。
「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」
 これは現代でも生きている言葉です。ナザレの人たちは、「イエスのことはよく知っている、イエスの家族も知っている、どうしてこの人が救い主であろうか?」と疑問を持ちました。「自分はよく知っている」という高ぶりから真理を受け入れることが出来ませんでした。彼らは、「聖書をよく知っている」と自負していたイスラエルの指導者たちと同じでした。へりくだらなければ霊的な目が開かれません。ナザレの人たちは盲目のイスラエルの象徴なのだと思います。