マタイによる福音書14章1-21節 「五千人の給食」

 ユダヤ人は長い間、神様が約束されたメシアが来るのを待ち望んでいました。福音書の著者マタイは、イエス・キリストがその「旧約聖書で約束されたメシア」であり、また「ダビデの王座につく王」として来られたことをユダヤ人に向けて伝えようとしています。系図を示し、旧約聖書の預言の言葉を多く引用し、ユダヤ人が納得できるように出来事をまとめています。しかし、同時に、イエス・キリストがメシアとして来られたのに、ユダヤ人は彼を受け入れなかった事、そしてそのためにメシア王国の約束は延期され、福音が全世界の異邦人に向けられるようになった事をマタイは示そうとしています。
 メシア王国の延期が決定的となった出来事が三つあげられます。
@12章;ユダヤ人指導者たちが「ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言って聖霊を冒涜する罪を犯した。それは赦されない罪だとイエス様は言われました。
A13:54〜;イエス様の家族、郷里ナザレの人々もイエス様を受け入れなかった。
B14章;バプテスマのヨハネが処刑された。

1.バプテスマのヨハネの死

@経緯 1−13節
14:1 そのころ、国主ヘロデは、イエスのうわさを聞いて、
14:2 侍従たちに言った。「あれはバプテスマのヨハネだ。ヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が彼のうちに働いているのだ。」
14:3 実は、このヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕らえて縛り、牢に入れたのであった。
14:4 それは、ヨハネが彼に、「あなたが彼女をめとるのは不法です」と言い張ったからである。
14:5 ヘロデはヨハネを殺したかったが、群衆を恐れた。というのは、彼らはヨハネを預言者と認めていたからである。
14:6 たまたまヘロデの誕生祝いがあって、ヘロデヤの娘がみなの前で踊りを踊ってヘロデを喜ばせた。
14:7 それで、彼は、その娘に、願う物は何でも必ず上げると、誓って堅い約束をした。
14:8 ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」
14:9 王は心を痛めたが、自分の誓いもあり、また列席の人々の手前もあって、与えるように命令した。
14:10 彼は人をやって、牢の中でヨハネの首をはねさせた。
14:11 そして、その首は盆に載せて運ばれ、少女に与えられたので、少女はそれを母親のところに持って行った。
14:12 それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。

 バプテスマのヨハネは国主ヘロデ・アンティパスによって処刑されました。アンティパスはヘロデ大王の息子であり、父が亡くなった後、兄のアケラオ、ピリポと共に後を継ぎ、ローマ帝国のもとでパレスチナを支配しました。アンティパスの割り当て地はガリラヤとペレヤでした。事の発端は、アンティパスが兄ピリポの妻であったヘロデヤを気に入ってしまったことです。アンティパスには妻がいましたが、その妻を追い出し、ヘロデヤを自分の妻として迎えました。このことをバプテスマのヨハネから「姦淫の罪をあなたは犯している」と非難されたため、彼を牢獄につないでおいたのです。しかし、アンティパスはヨハネを聖人と見ていたので殺す事はしませんでした。それどころかヨハネの話を聞くことを喜んでもいました。(マルコ6:20参照)しかし、妻となったヘロデヤはヨハネを殺そうと企み、自分の娘サロメを利用してヨハネの首をはねさせたのです。

 ヨハネが殺されたことを聞いたイエス様の落胆をマタイは記しています。
14:13 イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
 どんな非難や迫害に対してもひるまないイエス様ですが、この時だけは落胆し、悲しみ、一人で祈ろうとするイエス様の姿があります。それはバプテスマのヨハネの死には大きな意味があったからです。

Aヨハネの死が意味するもの
 バプテスマのヨハネの死が意味するものは、王国の約束が延期されたという事です。なぜなら、聖書はメシアが来る前にエリヤが来て道を備えると預言していたからです。エリヤが来て、次にメシアが来て王国が始まる・・これが神様のご計画です。ヨハネはその預言されたエリヤとなるはずでした。
マラキ4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
 それはユダヤ人も理解していたことです。
マタイ 17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
 ヨハネについてイエス様は次のように言われました。
マタイ 11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。
 残念ながらヨハネは迫害され、処刑されてしまったのでエリヤとなれませんでした。しかし聖書の預言は無くなったり取り消されたりはしません。必ず成就するため、エリヤの預言、栄光の王の来臨の預言、王国の預言は延期となったのです。ヨハネ殺害は国主ヘロデ・アンティパスのしたことですが、彼の罪はイスラエル全体の罪とみなされています。その結果、イスラエルに対する王国の約束は教会時代の後に延期され、異邦人に福音が宣べ伝えられるようになったのです。イエス様の憂いと悲しみは、愛するイスラエルの民にくだる神のさばきが確実になったからです。

 この時からイエス様の働きは弟子訓練に傾注されます。ご自分の死を悟り、後に来る教会時代のために弟子たちを訓練されていかれます。その最初の弟子訓練が天の御国のたとえ(学び)であり、五千人の給食(訓練)でした。

注;@ヨハネの死を悼む祈りとゲッセマネの祈りは、主イエスの生涯の中で特に深く重い祈りの時でした。
Aマルコ6:45 五千人の給食の後、「ベツサイダへ」と書いてあるが、他の福音書では「ゲネサレ」であり、理解が難しい(後表参照)
Bマタイでは「自分だけでさびしいところへ」と記されているが、この時にはまだ弟子たちと共に居たのかもしれない。夕方になり、一人となられた。23節(後表参照)
Cヨハネ処刑の報告の後に、五千人の給食のしるしを行われた理由の一つは、エリヤが行なったしるしと似たしるしを行うことにより、ヨハネの霊と志を引き継ぐというイエス様の意思表明と言えるでしょう。人間的な言い方をするなら、ヨハネを弔うため、または、エリヤとしてきたはずのヨハネの無念を晴らすためです。
参照;T列王 17:16 エリヤを通して言われた【主】のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。
D五千人の給食は過越の祭りが近くなったときであり、イエス様の公生涯の最後の一年となる時でした。(ヨハネ6:4参照)


2.五千人の給食

14:14 イエスは舟から上がると、多くの群衆を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。
14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
14:21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
 ヨハネの死を悼むために静かなベツサイダへ舟で行かれたのに、その場所にも多くの群衆が病人を連れてやってきました。その数は一般男性だけで五千人。女性子供を含めると少なくとも約1万人でしょう。イエス様は悲しみの中にあっても彼らをあわれんで、病気の人々を癒されました。

@イエス様の無茶な要求
15節 夕方になったというのはおそらく午後三時ごろでしょう。弟子たちは陽が暮れるのを心配して、「解散させてください」とイエス様に願います。主イエスの答えは
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
 考えてみてください。1万人の食事をすぐに提供するのは誰が考えても不可能です。
●お金の問題・・購入するお金がない。
●場所の問題・・人里から遠いため、一万人分の食事を調達することは不可能。
●時間の問題・・・すぐに買ってこなければならない。
●奉仕者の問題・・そんなに大変な仕事を誰ができるのか。
 どれをとっても不可能です。イエス様は分かっていて「あなたがたで何とかしなさい」と言われています。何のためにそんな無茶を言われたのでしょうか?弟子たちの提案通り、群衆を解散させることもできたはずです。・・イエス様の目的は、弟子たちをテストし、訓練するためです。何の訓練でしょうか?・・・彼らの信仰の訓練です。

 17節の言葉はアンデレの言葉でしょう。しかし、16節と17節の間にはしばらく時間が経過しています。弟子たちは集まって相談したはずです。「イエス様は何を考えているのか?無理なことははじめからわかっているじゃないか?」と腹を立てた弟子もいたかもしれません。「いや、イエス様には何か考えがあるはずだ」という弟子もいたでしょう。「絶対に無理だ!」とさじを投げた弟子もいたでしょう。弟子たちは一万人の群衆を前にどうしたらいいのかと懸命に考えたに違いありません。そういう中でイエス様が「パンはどれくらいありますか?行ってみてきなさい」と言われ、探すと、一人の少年がパンを五つと魚を二匹持っていて提供してくれました。しかし弟子たちは「たったこれだけしかない!」と言う気持ちだったでしょう。アンデレはそれを正直にイエス様に伝えます。イエス様は、「それをここに持ってきなさい」と言い、パンと魚を取り、父なる神に感謝をささげて、それを弟子たちに与えました。どこでどう増えたのか分かりませんが、パンも魚もその量がどんどん増えていき、最終的に1万人が満腹するほど食べても余りが出るほどでした。これが有名な五千人の給食と言われるしるしです。
 このしるしには弟子たちだけでなく、そこにいた群衆も驚き、感激しました。人々はメシアとして来られたイエス様の衝撃的な奇跡の目撃者となりました。四つの福音書すべてこのしるしを記しています。それほど衝撃的でしたし、このしるしには数知れない霊的なメッセージが含まれています。特に12弟子たちにとって、教会時代において宣教するための霊的な信仰の訓練となったに違いありません。

A霊的なメッセージ
・イエス・キリストは全能であり、神が遣わされた救い主であることの証明です。
・人には無理であっても神に出来ないことはない!一万人を前にして弟子たちはぼう然としましたが、自分たちの隣にいるお方は神の御子でした。彼らはイエス様を信じてお願いするだけでよかったのです。
・祈りによって祝福があることを教えます。イエス様は目を天に向け、父なる神に祈り、祝福を祈り求めました。
・私たちが持っているものはわずかでも、それをささげるとき、主が用いられ、大いなる御業が行なわれるのです。
・イエス様が与えるパンはすべての人に十分であることを教えます。余りが出るほどです。私たちもイエス様が与えられるパンで豊かに養われます。「足りません。満足できません」と言う必要がありません。主の恵みはあなたにいつも十分だからです。
・裂かれたパンはイエス様のからだをあらわし、その恵みによって人は救われる事を教えます。イエス様は私たち一人一人にご自分のからだを犠牲として与えられたのです。ヨハネ福音書では五千人の給食の後に「いのちのパン」の説教をされています。そして聖餐式の教えにまで及んでいます。
ヨハネ 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
・弟子たちはイエス様が与えるパンを人々に届けるだけでよかったのです。
 弟子たちがしるしを行ったのではありません。彼らは主イエスの手にあるパンを人々に配っただけです。それは福音宣教の働きでも同じです。イエス・キリストの福音を人々に伝えることが私たちにできる働きです。福音の言葉を人々に分け与えることが私たちの使命です。

参考;マタイ14章の並行記事

マタイ

マルコ

ルカ

ヨハネ

12弟子の宣教 67-13 12弟子の宣教 91-6
ヨハネ処刑 ヨハネ処刑 614-29 ヨハネ処刑 97-9
自分だけで舟で寂しいところへ 弟子たちだけで舟で寂しいところへ631-32 (イエスも同船?) イエスは弟子たちを連れてベツサイダの町へ 910 ガリラヤ湖の向こう岸へ61-2
山に登り、
五千人の給食 五千人の給食 五千人の給食 五千人の給食
弟子たちは船でゲネサレへ。ご自身は山へ 弟子たちは船でベツサイダへ。ご自身は山へ 645-46 弟子たちは船でカペナウムの方へ.ご自身は山へ615-16
海上歩行 海上歩行 海上歩行
ゲネサレへ着いた ゲネサレへ着いた
着物の房の癒し 着物の房の癒し