マタイによる福音書14章22-36節 「水の上を歩いて来なさい」

1.一人祈られるイエス 22-23節

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
 バプテスマのヨハネが処刑されたという報告を聞き、イエス・キリストは父なる神に祈るために、静かな場所へ弟子たちと舟で向かいました(ベツサイダへ)。しかしその場所にも群衆が集まってきたため、イエス様は祈りの時を後にして病人を癒し、集まった群衆すべてに食事を提供されました。群衆は偉大なしるしに興奮し、イエス様を王として担ぎ上げ、連れて行こうとしました。(ヨハネ6:15) しかし、主イエスはその群衆をなだめ、弟子たちを舟に乗り込ませて、群衆に解散を命じられました。そして一人山に登り、祈られました。イエス様にはどうしても一人静かになって祈りたい理由がありました。
@偉大な預言者ヨハネの死を悼み悲しむため。
Aエリヤとしてきたヨハネが迫害され処刑されたことは、メシアとして来られたご自身もイスラエル選民に迫害され殺されることを暗示していました。ゲッセマネの祈りと同じように、深く重い祈りであったでしょう。
Bイスラエルが神様の祝福から退けられ、さばかれることが確実となったことへの悲しみ
Cこれから何を成すべきか、その導きを求めるため。
D慰めと励ましを受けるため。
参照;ヘブル2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

 私たちも祈る時が必要です。静かな場所でひとりで祈る時が必要です。家族や愛する人が亡くなった時、自分のいのちの危険がある時、自分ではどうすることもできない問題が起きたとき、ひとりになって祈る時が必要です。山を動かすほどの信仰を持っておられるイエス様でさえ祈る必要がありました。私たちはなおさら祈る必要があります。

2.海上歩行 24-27節

14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
@弟子たちの恐れと不安
 風が吹き荒れる真っ暗なガリラヤ湖で、弟子たちは苦しんでいました。ベツサイダを出たときは夕方六時ごろだったでしょうから、夜中の三時ごろと言うと、すでに9時間も経っているのに、岸にたどり着くどころか強い向風にあおられ、ガリラヤ湖の真ん中で苦しんでいました。(ベツサイダからゲネサレまでは直線距離で約15キロ)漁師たちがいたのに対処できませんでした。街明かりなど無い時代ですから、湖の上は真っ暗で、月の光だけが頼りだったでしょう。その時、イエス様が水の上を歩いておられました。(マルコ6:48では「通り過ぎようとされた」。ヨハネによる福音書では第五番目のしるしとなっています。)暗闇の中、かすかに見える姿は誰もが幽霊と思ったでしょう。弟子たちは疲れと不安の中での出来事でしたから、心臓が飛び出すような恐怖であったことでしょう。大の大人たちが悲鳴を上げて恐れたのです。
Aイエス様の命令
 その時、イエス様は弟子たちに声をかけられます。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
 原語を調べてみると深い意味が汲み取れます。
しっかりしなさい; 勇気を持て。元気を出せ。ギリシャ語;サルソ(勇気) 勇気を持ち続けよ!という命令形です。
わたしだ;ギリシャ語;エゴーエイミ・・・旧約聖書で語られた「主の御名」です。
(マタイではこの箇所のみ。28:20では「あなたがたと」が間に入っている)
恐れることはない;恐れるな!恐れることを今すぐ止めなさい。禁止命令。
 山で一人祈られたイエス様は、父なる神様との交わりにより新たな力を与えられ、弟子たちを励ましていると感じます。イエス様のこの言葉には、鬼気迫る思いと決断の意志が込められています。それは、後の教会時代において弟子たちに宣教の働きをゆだねようとされる主イエスの力強い励ましの言葉です。まさに「がんばれ!」です。
B弟子たちの訓練
 この出来事は弟子たちにとって大切な訓練となりました。なぜなら、この一年後にイエス様は十字架に架けられるからです。イエス様は十字架上で息を引き取られ、墓に葬られました。そして三日後によみがえられ、40日間人々に現れた後、天に帰られます。そして聖霊が弟子たちに降り、教会時代が始まります。地上に主イエスはおられず、弟子たちだけの宣教が開始されました。その初代教会時代は激しい迫害が続きました。ローマ帝国による迫害に加え、ユダヤ人からの迫害がありました。それはこの時、弟子たちだけで舟に乗っている状況に似ていました。強い向かい風に苦しめられ、少しも進まない舟。不安といらだち、恐れと戸惑い。彼らの福音宣教も同じで、何度も彼らは恐れて勇気を失いそうになったのではないでしょうか。弟子たちに待ち受けている試練をイエス様は知っておられました。ですからこの訓練が彼らに必要でした。弟子たちにとってこの経験は心の奥に深く刻まれたはずです。「勇気を出そう!恐れてはいけない。全能の神、救い主であるイエス様が助けてくださる。」そう信じて彼らは宣教したはずです。

 また、この出来事を別の角度から見るなら、弟子たちの恐れは勘違いからでもありました。イエス様を幽霊と間違いました。物事の本当の姿を見なければならないことを教えられます。私たちは迫害や困難が起こると、「神様はどうして私にこんな苦しみを与えられるのですか?どうして祝福してくださらないのですか?」と考えてしまいます。そして「神様はわたしを祝福してくださらない。私は駄目なクリスチャンだ」と思う。しかし間違った判断をしてはいけません。困難や試練はあなたが自分の力に頼らず、唯一の神様に信頼し、願い求めるためです。この世の頼りにならない物に希望を置かず、すべてを支配されるお方に希望を置くためです。
 福音宣教をする人は必ず迫害を受けます。それは真理のための戦いです。人々を悪魔の手から解き放つ戦いです。ですから恐れず勇気をもって戦うべきです。悪魔の罠に引っかかってはいけません。聖霊による霊的な知恵に満たされて物事を見、判断していかなければなりません。

3.ペテロの失敗 28-31節 (マタイのみ記載)

14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
 ペテロらしい行動です。彼は衝動的な行動や発言が多い弟子でした。水の上を歩いている方がイエス様だとわかると、「わたしも水の上を歩いてイエス様のところへ行きたい」と思いました。「来なさい」と言われると、「やったー」と勇んで舟をまたぎ、水の上に足を伸ばして歩き始めました。喜びあふれ、我を忘れる状態だったでしょう。何歩歩いたか記されていません。途中で風のうなり声が聞こえ、荒波が見えた途端、理性が働き出し、怖くなってしまいました。その途端、ぶくぶくと沈み始めました。「主よ、助けて」と叫びます。イエス様はすぐに手を伸ばしてペテロをつかんで言われました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」 この言葉にも注目しましょう。
信仰の薄い人だな;ギリシャ語では一語です。「オリゴピステ」 オリゴとピストスという言葉の合成語。オリゴは、「オリゴ糖」として知られています。「小さい。少ない。」と言う意味。「ピストス」は信仰です。つまり「小さい信仰」と言う意味です。日本語でも似ている言葉があります。気の小さい、臆病な人のことを「小心者」と言います。イエス様が言われたのは「小信者」・・小さく信じる人、と言う言葉です。「小信者、なぜ疑うのか?」
 ペテロの失敗は「衝動的な行動」にあるのではありません。彼が疑いを持ち、イエス様の言葉を少ししか信じなかったことです。

 ペテロのこの記事を読むときに、ペテロの行動は極端だと思うのですが、信仰の醍醐味を覚えるのではないでしょうか。もし、彼がイエス様に願わなければ彼は水の上を歩くことはなかったでしょう。疑い恐れて失敗するのですが、それは彼にとって貴重な経験となったはずです。失敗しなければ学べないこともあるからです。他の11人の弟子たちは安全な舟の上にいました。彼らは安全でしたがペテロの姿を見ても踏み出さず、イエス様の特別なしるしを経験することが出来ませんでした。信仰の恵みを味わいたいと願うなら、主の言葉を信じて一歩踏み出すことが必要だと教えられます。踏み出さなければ見ることが出来ない主の御わざがあります。
※この出来事以降、マタイによる福音書においては、ペテロが常に弟子たちの代表としてイエス様に話しかけています。また、イエス様も彼を指導的立場として扱われています。(マタイ15:15、16:18、17:24、26:40参照) ペテロだけが一歩踏み出して歩み始めたことがその理由と言えるでしょう。
※勘違いしないでいただきたいことは、現在でも同じような体験が出来るというのではありません。「疑わずに信じるなら、私も必ず海の上を歩ける!」と信じて湖に飛び込んでみてください。必ず沈みます。それは「ビルの屋上から飛び降りても天使が守ってくれる」と信じる事と同じです。そういう信仰は悪魔の罠であり、本当は不信仰なのです。そのような聖書の読み方をして、オカルト的な信仰になってしまう人たちがいます。聖書の読み方を間違えています。聖書が教える時代の区別やしるしの目的を理解することが大切です。

4.訓練の結果 32-33節

14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。

 この経験によって弟子たちの信仰告白が深まっています。彼らの信仰が成長しています。この出来事は彼らにとってまさに信仰の訓練となりました。試練を通して神様は多くのことを教えてくださいます。失敗を通して私たちはイエス様をさらに深く知り、恵みを与えられます。イエス・キリストを知ることが出来たのは何と素晴らしいことでしょう。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われたイエス様の言葉を忘れないようにしましょう。
Uコリント4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

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5.着物のふさでのいやし 34-36節

14:34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。
14:35 すると、その地の人々は、イエスと気がついて、付近の地域にくまなく知らせ、病人という病人をみな、みもとに連れて来た。
14:36 そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。

 ゲネサレの地は、ガリラヤ湖北西岸に広がる肥沃な平原でした。そこでイエス様と弟子たちを迎えたのは、多くの群衆でした。その中には五千人の給食を食べた人たちもいたようで、再びパンを求めて集まって来たようです。ゲネサレの地の人たちも主イエスの姿を見るや否や、多くの病人を連れてきました。病人らは「イエス様の着物のふさに触っていやされた」というのがこの出来事の特徴になっています。なぜ着物のふさなのでしょうか?・・旧約聖書の中で次のように教えられています。
民数記 15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。
15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、・・・
申命記 22:12 身にまとう着物の四隅に、ふさを作らなければならない。

 旧約聖書が示す着物のふさの意味は、
@主のすべての命令を思い起こすため  A主のすべての命令を行うため  B過去に行ってきたみだらな行為を犯さないため
これらの目的のために着物のふさを付けたのです。昔のイスラエルの男性は、飾りふさが四隅についた長四角い上着(ヘブル語でタリート)を日常着ていました。「ふさ」はヘブル語ではツィツィヨット(単数形はツィツィート)と呼ばれています。青いひもを付けるようにと命じられていますが、古代は青い染料は高価でしたので、権力者・富裕層に限られていたようです。
 現在のイスラエルでは、ユダヤ教の人々はシャツの下に房を付けた布を着用しています。その房だけをズボンの腰のところから出してふら下げています。この下着をツィツィートと呼んでいます。迫害された時代において、ユダヤ人であることを隠すために下着として着用するようになったといういきさつがあります。
 「ふさ」は律法のすべてをあらわすと考えられています。ヘブル語でツィツィートの綴りが数字では600を表現します。房は4本のひもを通して8本にしたものです。各房に結び目を五つ作ります。8+5=13。合計613とします。それは律法全体の規定の数です。ツィツィートを着用することは律法を守る神の選民であることを主張したようです。イエス様はパリサイ人や律法学者たちの偽善と高慢を非難して次のように言われました。
マタイ23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
 ふさ自体は神の言葉と神の権威、そして聖さを表していたと考えられます。イエス様の着物のふさに触ることは、神の言葉とイエスと言うお方の権威に信頼することを示す行動でした。その人たちがいやされたという事実は、イエスこそ神によって立てられた権威であり、神の言葉そのものであることを証明しています。弟子たちが「あなたは神の子です」と告白したことを証明するしるしとなりました。