マタイによる福音書15章1-20節 「先祖たちの言い伝え」 並行箇所・・マルコ7:1-23

一、エルサレムからの視察団

15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。
 エルサレムからパリサイ人たちと律法学者たちがやってきました。それまでにもエルサレムから来たパリサイ人や律法学者がいたようですが(マルコ3:22、ルカ5:17)、この時には彼らはエルサレムの中央議会サンヘドリンの指令を正式に受けてやって来たと考えられます。「イエスと言うガリラヤ人教師が安息日に人を癒し、律法を破っている上、メシアと噂されている」ということが議題に取り上げられ、事実関係を明らかにするための視察だったのでしょう。

@彼らの質問
15:2 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
 手を洗って食べていない!という衛生面の事が問題ではなく、言い伝えを守っていないことが問題とされています。

A言い伝え
 言い伝えとは・・聖書の律法ではありません。ユダヤ教の伝承によれば、神様はモーセに対して、トーラーと呼ばれるモーセ五書と、口で語り継ぐべき律法を与えたとされています。この語り継がれてきた律法がミシュナ(口伝律法)と呼ばれます。
 ミシュナが語り継がれてきた時代背景として考えられるのは、バビロン捕囚へ引かれていったユダヤ人たちは律法の書を持たず、記憶に頼るしかありませんでした。またバビロンの偶像習慣に染まらないためにも彼らの宗教生活の規則を作り、守っていく必要がありました。バビロン捕囚帰還後のイスラエルにおいては、語り継がれてきた律法を教える人たちが現れました。彼らをラビと呼びます。ラビは人々に聖書とミシュナを教え、権威を持つ者とされました。有能なラビは人々から尊敬され、弟子を持ちました。イエス様の時代にはガマリエルという有名なラビがいました。パウロはガマリエルに弟子入りして聖書とミシュナを学んでいます。ラビごとに口伝律法は違うものがありましたし、その規定はラビの数だけ増え続けていきました。2世紀末ごろ、ラビたちが集まり、ミシュナの教えを書物としてまとめていく作業を始めていきました。(本来は口で伝えられるべきものを文章化していったのですから、それだけでも大きな問題点ですが。)ミシュナの規定にゲマラと呼ばれる解説を加えていくようになり、6世紀にほぼ完成しています。それがタルムード(研究、学習の意)と呼ばれます。従ってイエス様の時代にはまだタルムードとしてまとめられてはいませんでした。タルムードは、6部構成、63編から成る文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっています。このタルムードには信じられないほど無茶苦茶な独善的選民思想が含まれた問題箇所があります。
 ・世界はイスラエル人の為に創造された。
 ・ユダヤ人は人類であるが、他の国民は人類ではなく獣類である。
 ・異邦人(ゴイム=家畜=豚)がユダヤ人を殺した場合は犯罪だが、ユダヤ人が異邦人を殺しても犯罪ではない。
 ・神はユダヤ人に命じる。詐欺、暴力、高利貸、窃盗によってキリスト教徒の財産を奪うこと。
 ・タルムードはモーセの律法書より優れている。
 ・タルムードを学ぶ異邦人、またそれを助けるユダヤ人は生かしておいてはならない。

 このような言い伝えを信じてきたため、ユダヤ人は異邦人をさげすみました。異邦人と結婚をしたサマリヤ人を忌み嫌うのは当然です。彼らにとって外国人は家畜と同等なのです。世界の歴史の中でユダヤ人が迫害され排斥されてきた理由には、このようなユダヤ人の間違った選民思想が少なからずあったからです。

 イエス様の時代のユダヤ人も言い伝えを重要視していたことが分かります。もし守らない人がいるなら、パリサイ人や律法学者によって罪人と宣言され、刑罰を与えられました。彼らは法律家であり、政治家であり、そして警察の役目もしていました。律法を守らない人たちにいつも目を光らせていたのです。イエス様が来られた時代のイスラエルはこのような状況でした。したがって、イエス様の戦いは当時のユダヤ教との戦いとも言えます。聖書の正しい教えに立ち返ることをユダヤ人に教えられました。彼らは先祖のゆえに今でも神様が愛されている民族だからです。

Bイエス様の答え
15:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
15:4 神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
15:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
15:6 その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。
 イエス様はパリサイ人たちの質問に対して、いつものごとく質問で答えておられます。ここでの要点は、「あなたがたは言い伝えを守るために神様の律法を犯しているではないか」という事です。「あなたの父と母を敬え」は大切な神の教えです。しかし、歳を取った親を援助したくない人たちはミシュナの教えを利用しました。「神様にささげます」と言えば、それは人のために用いてはいけないというミシュナの教えがありました。彼らは自分の持ち物、お金を「神様にささげました」「コルバンになりました(マルコ福音書参照)」と宣言して、親を援助する義務から解放されたのです。そして自分のために使うことが出来ました。なぜなら、「自分は神様に仕えるしもべだから」という解釈です。

 イエス様は彼らを「偽善者たち」と呼び、イザヤの預言の通りだと言われます。
15:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
15:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
15:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」
 パリサイ人たちの怒り狂った顔が目に浮かびます。弟子たちは「大変な事になったぞ」と感じ、心配してイエス様に報告します。エルサレムからの視察団を怒らせて帰らせたからです。イエス様は「彼らのことは放っておきなさい」と言われます。迫害を恐れない主イエスの言葉です。彼の目には十字架が見えています。
15:12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」
 13節はパリサイ人たちのことを言っているか、あるいは言い伝えの教え自体を言っておられるのか、どちらかでしょう。

二、群衆への教え

15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
 主イエスが群衆を呼び寄せて話されるのは、めずらしいことです。普通は人々が集まってきました。しかし、ここではイエス様が集めています。大切な真理だと理解できます。
15:11 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
 弟子たちはたとえの意味が分からないので、ペテロが代表して質問しています。
15:15 そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」

@イエス様の答え;16-20節
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
15:17 口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」

A汚れについて
 ここで問題となっているのは汚れという事です。ユダヤ人の言い伝えでは、「手を洗わないで食べると汚れる」でした。衛生面ではなく宗教的な汚れが問題です。つまり、律法を犯した人間は汚れ、神様に受け入れられず裁かれる、と言う考え方です。そのためモーセの律法を誤って破ってしまい、汚れてはいけないという怖れから様々な細かい規定を付け加えていきました。安息日規定だけでも、彼らは39種類の労働を禁止し、細かく規定しました。(マタイ12章の説教参照) ここでは食事の規定です。聖書に書いてある食事の規定(レビ11章参照)以外に、ユダヤ人はさらに細かい規定を設けていきました。手を洗うこと、食材、調理器具に至るまで規定を付け加えました。清くなければ神様の裁きにあうと教えられ、神を恐れたのです。つまり、彼らの宗教の基礎は神を恐れ、神に裁かれないための宗教です。それはこの世の宗教で、人が勝手に考え出した宗教です。
 ※ユダヤ教は私たちが読んでいるのとおなじ旧約聖書を信じているから、クリスチャンの信仰と似ていると考えがちですが、彼らが信じているのは実はタルムードであり、聖書はそのサブテキストです。ですから全く違う教えになっています。モルモン教もエホバの証人もそうです。モルモン教はモルモン経が中心で聖書はサブテキストです。エホバの証人はアメリカのニューヨーク市ブルックリンにある本部が出す教えが彼らの指導書になっています。その教えに合わせて聖書の聖句が用いられており、聖書はサブテキスト扱いです。本部の教えに反することを教えるなら排斥されます。真光教や幸福の科学も聖書をサブテキストにしています。

B口に入るものは人を汚しません。
 主イエスは「食べ物によって人は汚れを受けて神様からさばかれることはない」と教えられました。旧約聖書、レビ記11章には食べてはならない物の規定があり、それを食べると「汚れる」と記されています。そこには、衛生面の配慮が含まれています。食べ物によっては毒があったり、細菌があるので、食べることを禁止するために「汚れる」と聖書は書いたのです。また霊的な教えが含まれています。
・豚は反芻しないので食べてはいけないと言う規定・・みことばを丸呑みするのではなく、よく理解すること。
・サバやウナギなどうろこがないものは食べてはならないと言う規定・・自分を世から守るものを持つべきである。
・蛇のように地を這う生き物は食べてはいけないと言う規定・・この世にべったり張り付いて生きてはならない。
※聖書中にははっきりとした示唆がありませんが、これらの霊的な教えが考えられます。
 しかし、それらを食べたからと言って神様のさばきを受けるのではありません。私たちを守るための神様の規定だからです。

 レビ記には他にも「汚れる」という規定があります。レビ記11-15章参照
・死体に触れることも「汚れる」のですが、それは伝染病の可能性があるからです。
・女性の月経期間と出産後も「汚れる」と規定されています。またその布団も「汚れる」と規定されています。それは女性の身体を守るために男性との性交を禁止するためでしょう。男性が汚れることを恐れて女性の寝床に近寄らないため、あるいは妊娠の可能性がない期間における性交を避けるため、と考えられます。
・皮膚病、漏出(性病?)の人が「汚れている」とされるのは、病気をうつさないためです。
 旧約聖書は彼らを「汚れる」と規定しましたが、神様がその人を嫌われてさばかれるのではありません。その規定は人々(本人と周りの人)を守るための規定であり、汚れの期間が過ぎたときにはその人も交わりに回復されたのです。神様がその人を裁いて見捨てられたのではないことは明らかです。

C口から出るもの、これが人を汚します。
 口から出る物は心から出てきます。良い言葉ばかりならいいのですが、人は悪い言葉を出してしまいます。それは心が汚れているからです。心が汚れているから、悪い考え、殺人、姦淫、不品行などを犯してしまうのです。食べ物が問題なのではなく、心の汚れが問題です。心が清くなければ神を見ることはできません(マタイ5:8)。神様の祝福にあずかれません。律法や言い伝えを守ることで救われるのではありません。

三、汚れをきよめる方法

 では、どうすれば汚れた心をきよくすることが出来るでしょうか? (この箇所ではイエス様は教えておられませんが、この解決が必要です) 自分の努力や修行で心をきよくすることは誰もできません。しかしへブル書にはその方法が記されています。
ヘブル 9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 罪が赦されてきよめられるためには、血が流されなければならない…これが大切な真理です。旧約聖書ではそのために動物がほふられ、いけにえとされて血が流されました。それはイエス・キリストが十字架にかかり、身代わりとなって血を流し死なれることを啓示していました。
 律法が「汚れる」と宣言したのは、私たち誰もが罪人であることを知るためです。「死体に触れる者は汚れる」と律法は宣言しました。でも私たちは誰もが最後は自分が死体となります。汚れた者となるのです。誰もが罪人だからです。でも動物の犠牲の血を流すことによって、「きよい」と宣言されました。それはイエス・キリストの十字架の血によって汚れが清められ、永遠のいのちを持つという事を現わしているのです。神様の救いの方法がここにあることを旧約聖書も教えていたのです。

 また、イエス・キリストの十字架は私たちの立場を「きよい」と宣言するだけでなく、心自体を変える力があります。かつては努力しても修行をしても自分の心をきよめることはできませんでした。しかし、イエス様が私の身代わりとなって十字架にかかられ流された血潮は、私たちの心を死んだ行いから立ち返らせ、新しい生き方に導くことが出来ます。
ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
 イエス・キリストを信じる人は十字架の血によって清められています。神様に受け入れられています。もう神様を怖がらなくていいのです。神様があなたを御手を持って守ってくださるのです。だから安心して、真心から神様に近づきましょう。「天のおとうさま・・」と呼んで、こころから祈りましょう。