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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書15章1-20節 「先祖たちの言い伝え」



 日本には多くの祭りがありますが、多くは昔からの言い伝えによって行われてきました。イスラエルにおいても同様に多くの言い伝えによる祭りやしきたりがあり、聖書の教えを理解するためにはそれらの言い伝えを知っておく必要があります。

一、エルサレムからの視察団

15:1 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。

 イエス・キリストのもとには常に多くの人々が集まってきました。その中にはエルサレムから来たパリサイ人や律法学者もいましたが(マルコ3:22、ルカ5:17)、この時には彼らはエルサレムの中央議会サンヘドリンの指令を正式に受けてやって来たと考えられます。
「イエスと言うガリラヤ出身の教師が安息日に人を癒し、律法を破っている上、メシアだと噂されている」ということが議題に取り上げられ、事実関係を明らかにするための視察だったのでしょう。

@彼らの質問
15:2 「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」


 「手を洗って食事をしないと汚いではないか!」という衛生面の事が問題ではなく、言い伝えを守っていないことが問題視されています。

A言い伝え
 その言い伝えとは・・聖書の律法ではありません。ユダヤ教の伝承によれば、神様はモーセに対してモーセ五書(トーラーと呼ばれます)と、口で語り継ぐべき律法を与えたとされています。この語り継がれてきた律法がミシュナ(口伝律法)と呼ばれます。
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 ※ミシュナ(口伝律法)とは?――バビロン捕囚へ引かれていったユダヤ人たちは律法の書を持たず、記憶に頼るしかありませんでした。またバビロンの偶像習慣に染まらないためにも彼らの宗教生活の規則を作り、守っていく必要がありました。

 その後、バビロン捕囚帰還後のイスラエルにおいて、語り継がれてきた律法を教える人たちが現れました。彼らは
ラビと呼ばれ、人々に聖書とミシュナを教えて権威を持つ者とされました。有能なラビは人々から尊敬され、多くの弟子を持ちました。

 イエス様の時代にはガマリエルという有名なラビがいました。パウロはガマリエルに弟子入りして聖書とミシュナを学んでいます。

 ラビごとに口伝律法は違うものがありましたし、その規定はラビの数だけ増え続けていきました。2世紀末ごろ、ラビたちが集まり、ミシュナの教えを書物としてまとめていく作業を始めました。(本来は口で伝えられるべきものを文章化していったのですから、大きな矛盾ですが)
ミシュナの規定にゲマラと呼ばれる解説を加えていくようになり、6世紀にほぼ完成しています。それがタルムード(研究、学習の意)と呼ばれます。


 従ってイエス様の時代にはまだタルムードはありませんでした。タルムードは、6部構成、63編から成る文書群で、現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活、信仰の基となっています。このタルムードには信じられないほどの独善的選民思想が含まれた問題箇所があるため、他国人から非難される種となっています。抜粋すると、
 ・世界はイスラエル人の為に創造された。
 ・ユダヤ人は人類であるが、他の国民は人類ではなく獣類である。
 ・異邦人(ゴイム=家畜=豚)がユダヤ人を殺した場合は犯罪だが、ユダヤ人が異邦人を殺しても犯罪ではない。
 ・神はユダヤ人に命じている――詐欺、暴力、高利貸、窃盗によってキリスト教徒の財産を奪うこと。
 ・タルムードはモーセの律法書より優れている。
 ・タルムードを学ぶ異邦人、またそれを助けるユダヤ人は生かしておいてはならない。



 これらの言い伝えを信じてきたため、ユダヤ人は異邦人をさげすみました。彼らにとって外国人は家畜と同等として教えられてきたのです。世界の歴史の中でユダヤ人が迫害され排斥されてきた理由には、このようなユダヤ人の間違った選民思想が少なからずあったからです。
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 イエス様の時代のユダヤ人もミシュナ(口伝律法・言い伝え)を重要視していたことが分かります。もしミシュナを守らない人がいたなら、犯罪人とされ刑罰を与えられました。したがってイエス様の戦いは当時のユダヤ教との戦いとも言えます。聖書の正しい教えに立ち返ることをユダヤ人に教えられました。彼らは先祖のゆえに今でも神様が愛されている民族だからです。

Bイエス様の答え
15:3 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。
15:4 神は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
15:5 それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、
15:6 その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

 イエス様はパリサイ人たちの質問に対して、いつものごとく質問で答えておられます。ここでの要点は、「あなたがたは言い伝えを守るために神様の律法を犯しているではないか」という事です。「あなたの父と母を敬え」は大切な神の教えです。しかし、歳を取った親を援助したくない人たちはミシュナの教えを利用しました。「これは神様にささげました」と言えば、それは人のために用いてはいけないというミシュナの教えがありました。彼らは自分の持ち物、お金を「神様にささげました」「コルバンになりました(マルコ福音書参照)」と宣言して、親を援助する義務から解放されたのです。そしてそれらを自分のために使うことが出来ました。なぜなら、「自分は神様に仕えるしもべだから」という解釈です。

 イエス様は彼らを「偽善者たち」と呼び、預言者イザヤの預言の通りだと言われました。
15:7 偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。
15:8 『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。
15:9 彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 パリサイ人たちの怒り狂った顔が目に浮かびます。弟子たちは「大変な事になったぞ」と感じ、心配してイエス様に報告します。エルサレムからの視察団を怒らせて帰らせたからです。イエス様は「彼らのことは放っておきなさい」と言われました。迫害を恐れない主イエスの態度が見て取れます。

15:12 そのとき、弟子たちが、近寄って来て、イエスに言った。「パリサイ人が、みことばを聞いて、腹を立てたのをご存じですか。」
15:13 しかし、イエスは答えて言われた。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

二、群衆への教え

15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
 主イエスが群衆を呼び寄せて話されるのは、めずらしいことです。通常は人々のほうから集まってきましたが、ここではイエス様が人々を集められています。大切な真理を教えようとされているのです。
15:11 口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
 弟子たちはたとえの意味が分からないので、ペテロが代表して質問しました。
15:15 そこで、ペテロは、イエスに答えて言った。「私たちに、そのたとえを説明してください。」

@イエス様の答え
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
15:17 口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
15:20 これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」


A汚れについて
 ここで問題となっているのは汚れという事です。ユダヤ人の言い伝えでは、「手を洗わないで食べると汚れる」でした。衛生面ではなく宗教的な汚れが問題でした。つまり、律法を犯した人間は汚れ、神様に受け入れられず裁かれる、と言う考え方です。そのためモーセの律法を誤って破ってしまい、汚れてはいけないという怖れから様々な細かい規定を付け加えていきました。安息日規定だけでも、彼らは39種類の労働を禁止し、細かく規定しました。(マタイ12章の説教参照)

 ここでは食事の規定です。聖書に書いてある食事の規定(レビ11章参照)以外に、ユダヤ人はさらに細かい規定を設けていきました。手を洗うこと、食材、調理器具に至るまで規定を付け加えました。清くなければ神様にさばかれると教えられ、神を恐れたのです。つまり、彼らの宗教の基礎は神を恐れ、神に裁かれないための宗教です。それはこの世の宗教であり、人間が勝手に考え出した教えなのです。

 ※ユダヤ教は私たちが読んでいるのとおなじ旧約聖書を信じているので、クリスチャンの信仰と似ていると考えられがちですが、彼らが信じているのは実はタルムードであり、聖書はそのサブテキストとなっています。ですからキリスト教会とは全く違う教えだと言えます。モルモン教もエホバの証人も同様です。モルモン教においてはモルモン経が中心で、聖書はサブテキストです。エホバの証人ではアメリカのニューヨーク市ブルックリンにある本部が出す教えが彼らの指導書になっています。その教えに合わせて聖書の聖句が用いられており、聖書はサブテキスト扱いです。本部の教えに反することを教えるなら排斥されます。真光教や幸福の科学も聖書をサブテキストにしています。

B口に入るものは人を汚しません。
 主イエスは「人は食べ物によって汚れを受けて神様からさばかれることはない」と教えられました。旧約聖書、レビ記11章には食べてはならない物の規定があり、それを食べると「汚れる」と記されています。そこには、衛生面の配慮が含まれています。食べ物によっては毒があったり、細菌があるので、食べることを禁止するために「汚れる」と聖書は書いたのです。またこれらの規定には次のような霊的な教えが含まれていると考えられます。

・豚は反芻しないので食べてはいけないと言う規定・・聖書の御言葉を丸呑みするのではなく、よく理解すること。
・サバやウナギなど、うろこがない魚類は食べてはならないと言う規定・・自分を世から守るものを持つべきである。
・蛇のように地を這う生き物は食べてはいけないと言う規定・・この世にべったり張り付いて生きてはならない。

※聖書中にははっきりとした示唆がありませんが、これらの霊的な教えが考えられます。

 しかし、それらを食べたからと言って神様のさばきを受けるのではありません。これらは私たちの健康を守るために与えられた神様の規定だからです。

 レビ記には他にも「汚れる」規定があります。(レビ記11-15章参照)
・死体に触れることも「汚れる」のですが、それは伝染病の可能性があるからです。
・女性の月経期間と出産後も「汚れる」と規定されています。またその布団も「汚れる」と規定されています。それは女性の身体を守るため、その期間中、男性との性交を禁止するためでしょう。男性が汚れることを恐れて女性の寝床に近寄らないため、あるいは妊娠の可能性がない期間における性交を避けるため、と考えられます。
・皮膚病、漏出(性病?)の人が「汚れている」とされるのは、病気をうつさないためです。

 旧約聖書は彼らを「汚れる」と規定しましたが、神様がその人を嫌われてさばかれるのではありません。その規定は人々(本人と周りの人)を守るための規定であり、汚れの期間が過ぎたときにはその人も交わりに回復されたのです。神様がその人を裁いて見捨てられたのではないことは明らかです。

C口から出るもの、これが人を汚します。
 口から出るもの(言葉)は心から出てきます。人は知らず知らずのうちに悪い言葉を発してしまいます。それは心が汚れているからです。心が汚れているから、悪い考え、殺人、姦淫、不品行などを犯してしまいます。食べ物が原因なのではなく、心の汚れが原因です。心が清くなければ神を見ることはできません(マタイ5:8)。神様の祝福にあずかれません。律法や言い伝えを守ることで心が清められるのではありません。

三、汚れをきよめる方法

 では、どうすれば汚れた心をきよくすることが出来るでしょうか? (今回の聖書箇所ではイエス様は教えておられませんが、この問題の解決が必要です) 自分の努力や修行で心をきよくすることは誰もできません。しかしへブル人への手紙にはその方法が記されています。

ヘブル 9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

ヘブル 10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

 罪を赦されて心がきよめられるためには、血が流されなければならない…これが大切な真理です。旧約聖書ではそのために動物がほふられ、いけにえとされて血が流されました。

 律法が「汚れる」と宣言したのは、私たち誰もが罪人であることを知るためです。「死体に触れる者は汚れる」と律法は宣言しました。でも私たちは誰もが最後は死んで、自分が死体となります。汚れた者となるのです。誰もが罪人だからです。でも旧約聖書では、動物の犠牲の血を流すことによって「きよい」と宣言されました。それは後に来られるイエス・キリストの十字架の血によって汚れが清められ、永遠の救いが与えられる事を前もって啓示していたのです。神様が人に与えられる救いの方法がここにあることを旧約聖書も教えていたのです。

 また、イエス・キリストの十字架には私たちの立場を「きよい」と宣言するだけでなく、心自体を変える力があります。かつては努力しても修行をしても自分の心をきよめることはできませんでした。しかし、イエス様が私の身代わりとなって十字架に架かられ流された血潮は、私たちの心を死んだ行いから立ち返らせ、新しい生き方に導くことが出来ます。

ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。



 イエス・キリストを信じる人は十字架の血によって清められています。神様に受け入れられています。もう自分が汚れていると嘆かなくてよく、もう神様を怖がらなくてよいのです。安心して神様に近づくことが出来ます。神様を「天のお父様・・」と呼んで心から祈ることが出来るのです。