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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書15章21-28節 「あなたの信仰はりっぱです」

 前回の聖書箇所でイエス様は、ユダヤ人が守ってきた言い伝え(ミシュナ)は神の言葉ではないことを教えられ、エルサレムからの視察団を怒らせて帰らせました。イエス様の宣教目的は、次第に十字架と後の異邦人の時代に向けられ、弟子訓練に重点が置かれるようになりました。

1.カナン人の女


写真:シドン(サイダー)旧市街 Wikipediaより


15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

 ツロとシドンは、フェニキア地方(現在のレバノン地方)にあり、イスラエルからすると異邦人の土地でした。イエス様が弟子たちを連れて異邦人の地へ行かれた理由には次の事が考えられます。
@エルサレムからの視察団を怒らせて帰らせたため、宗教指導者たちとの無益な衝突、迫害を避けるために一時的に避難された。
Aイエス様ご自身と弟子たちにとっての休息期間として
 ガリラヤでは常に人々が押し寄せてきていたため休む間もなかったはずです。
B異邦人の地における弟子たちの伝道実地訓練のため
C後の異邦人伝道の予表、ひな型として
 異邦人伝道は教会時代に入ってから開始されますが、その先駆けとしてイエス様自身も異邦人伝道を行なわれた。
Dユダヤ人の言い伝え(ミシュナ)は間違いであることを証明するため
 「異邦人は人間ではなく獣であり、ユダヤ人より劣る」という教えは、ここに登場するカナン人女性の信仰によってくつがえされることになります。

15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
 カナン人とは、パレスチナの土地の先住民でした。そこでは様々な偶像礼拝が行なわれ、不道徳な生活習慣を持っていたため、聖書では忌み嫌うべき人々、縁を断つべき人とされています。

レビ18:3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。

エズラ 9:1-2 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」


 このカナン人の女には悪霊に憑かれた娘がいました。どのような症状であったかわかりませんが、母親が悪霊付きだと認めるほど症状が明らかで、治療不可能な状態でした。メシアだと噂されていたイエス様が来られたと聞くと、藁をもすがる思いで彼の元へ行き、ひれ伏して願いました。当時、カナン人とユダヤ人は断絶状態でしたから、カナン人がユダヤ人にお願いする事などありえないことでした。

 マルコ福音書では、彼女はスロ・フェニキヤ生まれのギリシヤ人だと紹介しています。当時の民族性を考慮すると、彼女の家庭はカナン人の中にあって文化的であり、裕福であったでしょう。そんな女性が大声で叫び続け、ひれ伏してお願いする姿は、長い間、相当の苦しみを負っていたことが理解できます。

2.冷たい態度の主イエス

15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。
 執拗に叫びながらイエス様一行の後をついてくる女に対して、イエス様は見向きもされません。しびれを切らした弟子たちが「あの女を帰してやってください。」と願うほどでした。ガリラヤでは人々の病気をすぐに癒やされたのに、なぜ主イエスは無視を続けられたのでしょうか?→旧約聖書の規定に従われたと考えられますが、次のイエス様の言葉にはさらに重要な理由が示されています。

15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。
「わたしはイスラエル人のために来たのであって、異邦人のために来たのではない」という意味です。それは聖書の預言を成就するメシア、ダビデの永遠の王座を確立するためにイスラエルの王として来られたことを宣言されています。

 また、次の旧約聖書の預言の成就でもあります。
イザヤ2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。

ミカ4:2 多くの異邦の民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。

 イエス・キリストの宣教はエルサレムを首都とするイスラエルから開始されました。そして教会時代が始まったとき、福音宣教は文字通りエルサレムから始まりました。つまり、主イエスの宣教地は父なる神の御心に従ってイスラエルだったのです。

※教会時代に生きる私たちにとって、主イエスのカナン人女性に対する差別的な言葉を理解するには、聖書の時代的区分(ディスペンセーション)の理解が必要です。教会時代は奥義であり、特別な時代です。神様の契約は常にイスラエルと結ばれていて、その契約に基づいて主イエスはメシア、王として来られました。しかしイスラエルがキリストを受け入れなかったため、異邦人の時代(教会時代)が続いているのです。

15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。
 冷たい言葉を浴びせられても母親は引き下がりません。

15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」と言われた。

 「小犬」はペットとして飼われる小犬を指す言葉です。それでもユダヤ人を「子ども」と呼び、異邦人を「小犬」と呼ぶのは、差別していることに変わりありません。この考え方はミシュナ(口伝律法)的です。イエス様はミシュナは間違っていることを教えられたばかりなのに、どうしてこのような言葉を彼女にかけられたのでしょう?・・イエス様の本心ではないはずです。イエス様の意図は、その時代にカナン人として生きてきた彼女に、厳しい現実を突き付けることにより、彼女の信仰を引き上げようとされているのだと思います。



15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

 イエス様の差別的な言葉を聞いても、腹を立てるどころか差別を受け入れて願い続けています。愛する娘のため、必死に願い続ける母親の姿を見ます。

15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
 「りっぱ」と訳されている言葉はギリシャ語で「メガレー」と言う言葉です。メガと言う言葉は現在私たちも使っています。本来の意味は「大きい」です。そこから「偉大、すごい、立派」と言う意味になります。カナン人の女性に対して「あなたの信仰は大きい」と言われたことになります。

 イエス様はおぼれかけたペテロに対して14:31で、「信仰の薄い人だな」と言われました。それは「小さい信仰の者」という言葉でした。(参照;マタイ14:28-31)また弟子たち全員にも同じ言葉を二度言われています。
マタイ 8:26 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。

マタイ16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。

 ペテロや弟子たちは「小信者」と言われ、異邦人女性に対して「大信者」と言われたことに弟子たちも気付いた事でしょう。イエス様を信じて何もかも捨ててついてきた彼らにとっては、ショックな言葉だったでしょう。

3.立派な女の信仰

 信仰の創始者であるイエス様が「大きな信仰の人」と母親に言われたのですから、私たちも彼女から学ばなければなりません。彼女の信仰の何が素晴らしいのでしょうか?



@愛する娘のため懸命
 彼女は「私を助けてください。」と願っています。「娘を助けて」と言うのが普通でしょう。彼女にとっては娘は掛け替えのない子どもであり、心から愛していることが分かります。彼女の必死の行動と願いは愛から出てきたものでした。我々も愛する人の救いのため彼女のように懸命になりましょう。

Aしつこく願う
 彼女はイエス様の無視と、二度の冷たい言葉にもくじけませんでした。「それでも救い主か!」と捨てセリフを吐いて帰ってもよい場面です。「信じた私が馬鹿だった!」と言って、怒ってもおかしくありません。しかし彼女はどんなに冷たくされても願い続けました。私たちは彼女から「真実な祈り」を学びます。それは感情や状況によって変わらない祈りです。決してあきらめない祈りです。

Bへりくだり
「小犬にはパンをあげない」と言われても、彼女は反発するどころか、その言葉をそのまま受け入れています。カナン人であることは彼女の責任ではありません。カナン人が忌み嫌われるのは、先祖の犯した罪のためでした。しかし、彼女はそれを受け入れています。そして自分自身も神様の前では罪人であることを受け入れているのです。

※私たち夫婦が開拓伝道をしていたとき、集会に集っていた一人の姉妹のことを思うたびに、心が感謝の気持ちでいっぱいになります。私の親ほどの年齢の姉妹ですが、私が牧師であるということで立ててくださり、陰日向になって牧会を支えてくださいました。奏楽者がおられなかったので奏楽をお願いしたときも、「下手なのですが、私でよろしいですか?」と言って引き受けてくださいました。次週礼拝の賛美曲番のメモを受け取り、家で毎日、時間をかけて練習して礼拝で奏楽の奉仕をしてくださいました。若輩者の私に包み隠すことなく、なんでも相談してくださり、たどたどしい牧会でも喜んで感謝してくださいました。本当は私が彼女から信仰とは何かを教えてもらっていました。イザヤ57:15に「私は高く聖なる所に住み、心砕かれてへりくだった人とともに住む」とあります。主がこの姉妹とともにおられるといつも感じました。へりくだった心を持つ人を主は必ず祝福してくださいます。

C聖書理解
 彼女はイエス・キリストのことを「主よ、ダビデの子よ」と呼んでいます。また、イエス様の差別的な言葉を聞いても、「その通りです」と答えました。それは彼女が正しい聖書の知識と理解を持っていたからです。

D大きな信仰
 彼女は神様の偉大さを知っていました。「主人の食卓から落ちるパンくず」で十分、それで娘は助かると告白しています。彼女は、主の恵み、主の祝福がどれほど多大なものであるかを知っていたのです。それで彼女は「イエス様は娘を必ず癒すことができる」と、信じて疑いませんでした。彼女の言葉と行動には、不信仰のかけらも見ることが出来ません。

15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。
 たちどころに娘から悪霊は去りました。イエス様の偉大なしるしです。彼女の信仰の勝利です。
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 短い聖書箇所ですが、「信仰」について多くを学ぶことが出来ます。それは弟子たちにとっても同じだったでしょう。ユダヤ人がさげすんでいたカナン人であっても、素晴らしい信仰者がいることを知り、彼らも驚いたはずです。私たちはこの女性が信じたイエス・キリストを信じています。私たちクリスチャンは将来、必ずイエス様にお会いします。そのときに、「あなたの信仰はりっぱです」と言われたら、どんなにうれしいことでしょう。イエス様とお会いするとき、賞賛の言葉をいただくことを願いながら歩んでいきましょう。