マタイによる福音書15章29-39節 「四千人の給食」 並行カ所マルコ7:31-8:10

 前回はイエス様が異邦人の地ツロへ出て行かれ、カナン人女性の娘を癒された箇所でした。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われながらも、カナン人女性の信仰を誉め、その願いを主は聞かれ、いやされました。
 今朝の聖書箇所には二つの出来事があります。
@多くの病人の癒し
A四千人の給食
 同じしるしの繰り返しだと思われるでしょう。しかし、大きな違いがあります。マルコ7章ではこの出来事が起こった場所はデカポリス地方だったと記してあります。そこは異邦人が住む場所でした。地図で確認してください。つまり、今朝の聖書箇所は異邦人に対するしるしだと考えられます。ツロからシドンをまわられ、そしてデカポリスへと、イエス様の異邦人伝道が続けられました。
※マタイ福音書はこのしるしが行なわれた場所をガリラヤ湖近くとしか記していません。あえて伏せているかのようです。おそらく、彼はユダヤ人を読者としているため、異邦人に対するしるしの記事は、カナン人の娘の癒しの記事で十分だと考えたのでしょう。

1.多くの病人の癒し 29-31節

15:29 それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこにすわっておられた。
15:30 すると大ぜいの人の群れが、足のなえた者、手足の不自由な者、盲人、口のきけない者、そのほか多くの人をみもとに連れて来た。そして彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをいやされた。
15:31 それで群衆は、口のきけない者がものを言い、手足の不自由な者が直り、足のなえた者が歩き、盲人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そして彼らはイスラエルの神をあがめた。

 「イエス様は山に登って、すわっておられた。」と書いてあります。イエス様が山へ登られる目的は祈るためか教えるためです。ここでは人々がやってくるのを待っておられたかのようです。「大勢の人の群れが」やってきました。多くの病人を連れてです。「足のなえた者、手足の不自由な者、盲人」などは自分一人では山に登れない人たちでした。そういう病人たちを山の上に連れて行くのは大変なことです。「イエスというおかたが本当にしるしを行うのか見に行ってみよう」ということなら、苦労して病人を山の上に連れて行くことはしないでしょう。つまり、この異邦人たちは「イエスのところに病人を連れて行けば必ず癒される」と信じて、病人を連れてきたことになります。ここにも異邦人の信仰を見ることが出来ます。

 彼らがその様な信仰を持つに至ったのには理由がありました。デカポリスというと、イエス様はすでに一度、そこを訪れておられました。マタイ8章において、イエス様と弟子たちが舟に乗っていた時、大暴風が起こり、舟は流されてゲラサ人の地に着きました。そこはデカポリスの場所でした。そこに悪霊に憑かれた男がいて、イエス様は彼から悪霊を追い出されました。悪霊は豚の群れに入って崖から落ちていきました。人々は恐れてイエス様に「出て行ってくれ」とお願いしました。しかし、マルコ福音書はその癒された男の後の事について記しています。
マルコ 5:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
5:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
5:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

 彼の証しによって既にイエス・キリストのうわさはデカポリス地方でも広まっていたと考えられます。それで、多くの群衆が集まってきたのです。
※デカポリス地方でイエス様が受け入れられていった背景には、その他の要因もあったと思いますが、悪霊を追い出していただいた男の証言が最も大きな影響だったと思われます。マタイ4:23-25は既にデカポリスでイエス様に従う人がいたと書いてありますが、後のイエス様の伝道の結果を含めて書いていると思われます。参照;マタイ4:25 こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。
※異邦人を読者としているルカ福音書が、ゲラサ人の地での悪霊追い出し以外は異邦人伝道の記事を記していないのは不思議です。考えられる理由は、ルカ福音書ではユダヤ人、異邦人という区別を意識していないため、似ている出来事を省いたのかもしれません。ヨハネ福音書に至っては、異邦人伝道は全く記されていません。

 イエス様は、カナン人女性の素晴らしい信仰を誉められ、また、多くの病んでいる異邦人を癒されました。異邦人にも神様の恵みが与えられる・・その先駆けとなりました。彼らは「イスラエルの神をあがめた」のです。この表現にも、彼らが異邦人であったことが暗示されています。

※余談ですが、私は説教を準備する時に必ず他の三つの福音書も見比べるようにしています。今日の聖書箇所からも分かるように、他の福音書を見ないと、イエス様の言葉と行いの真実を知ることが出来ないことが多いからです。それが四つの福音書がある理由だと思います。四人の著者により、イエス様をいろいろな角度から見ることが出来ます。
・マタイはイエス様を正面から見ています。メシアとして、ユダヤ人の王として来られたイエス様を明確に示そうとしています。そのため旧約の言葉を多用して「聖書の預言が成就した」と証明しています。
・マルコはイエス様を横から見ています。イエス様の隣で働いていた弟子達、主にペテロの証言をもとに記し、イエス様の言動を簡潔に記しています。
・ルカは、イエス様を後ろから見ているようです。彼はイエス様の歩まれた足跡をたどっています。弟子たちや女性たち、癒された人たちの証言を集め、出来事を忠実に順序正しく記そうとしています。
・ヨハネはイエス様を上から見ているようです。上から目線でなく、天からの目線です。神の御心に忠実に歩まれるひとり子を示し、同時にキリストの神性をあらわすことに重点が置かれています。
これら四つの福音書を通して私たちは言わば立体的にイエス様の姿を見ることが出来るのです。


2.四千人の給食 32−39節

15:32 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中で動けなくなるといけないから。」
15:33 そこで弟子たちは言った。「このへんぴな所で、こんなに大ぜいの人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手に入るでしょう。」
15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「どれぐらいパンがありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
15:35 すると、イエスは群衆に、地面にすわるように命じられた。
15:36 それから、七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えられた。そして、弟子たちは群衆に配った。
15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、七つのかごにいっぱいあった。
15:38 食べた者は、女と子どもを除いて、男四千人であった。
15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。

@群衆
 群衆は三日間もイエス様と共に居ました。「病人を癒していただいて良かった、良かった。さあ、帰ろう」ではありませんでした。彼らは空腹も気にせず、熱心にイエス様の教えに耳を傾けたのだと思われます。彼らは少しでも長くイエス様のそばにいたいと願ったのです。ここにも異邦人の信仰を見ることが出来ます。その数は成人男性だけで四千人ですから、女性、子供も含めるならもっと多い人数です。

A12弟子
 イエス様は弟子たちを呼び集めて「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。」と語られ、弟子たちを試しておられます。弟子たちはおそらくイエス様の言葉の矛盾に気が付いたと思います。「わたしはイスラエルの滅びた羊以外には遣わされていません」と言われたのに、ガリラヤを離れ、異邦人伝道を続けられているイエス様に不信感を抱いたに違いありません。五千人の給食を経験したのに、同じ状況でイエス様を信頼しませんでした。集まっている人たちが異邦人だったからです。弟子たちは「こんなへんぴなところでは、たくさんのパンは手に入りません」と文句口調だったのかもしれません。
 イエス様は弟子たちの態度や信仰については何一つ触れず、「パンがどれくらいありますか」と聞かれます。7つのパンがありました。そして五千人の給食時と同様、感謝をささげてパンを裂き、群衆に与えられました。残りを集めると7かごありました。(この籠は、五千人の時に残った12籠と違う原語が用いられています。この籠の方が柔らかくて大きな籠です。)

 このような食事は弟子たちにとってはおそらく初めての経験だったはずです。パンが増えたことではありません。異邦人と一緒に食事をすることです。ユダヤ人の言い伝え(ミシュナ)では、異邦人と食事をすることを禁じています。異邦人は汚れた民と教えるミシュナでは、食事はもちろん、交流も禁止されていました。(モーセの律法では、ユダヤ人が異邦人と一緒に食事することを明確に禁じてはいません。)その様な慣習の中で育ってきた弟子たちでしたから、異邦人に囲まれて共に食事をすることは、彼らにとっていたたまれない状況だったと思います。取税人に招かれ、取税人と罪人と呼ばれていた娼婦たちと食事をした時もいたたまれなかったでしょうが、この時はなおさらでした。ユダヤ教に熱心だったシモンなどは、「俺は一緒には食事しないぞ」と食事を取らなかったかもしれません。ペテロは後に福音を伝えていた時に、割礼派の人々を恐れて異邦人と一緒に食事をすることを止めてしまったために、パウロに厳しく文句を言われています。それほどユダヤ人が異邦人と食事を共にすることは、考えられないことだったようです。
参照;ガラテヤ2:11-12 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

Bイエス様
 イエス様の目的は、弟子訓練もあったでしょう。しかしそれ以上に異邦人であっても救いを求めてくる人々には神の恵みがあることを示すためだと思います。「かわいそうに」「空腹のまま帰らせたくありません」・・主イエス様の優しさを感じます。助け合いながら山の上に登ってきて、三日間もイエス様と共に居り、熱心に救いを求め、みことばを慕い求める人々に神様は報いてくださるお方だと教えられます。
 イエス様の異邦人伝道は、このパンのしるしで終わっています。異邦人へも神様の祝福が与えられる象徴的な出来事です。救い主を慕い求める異邦人たちを「空腹のまま帰らせたくありません」・・主イエス様の願いであり、父なる神様の御心です。それは教会時代において実現されていくのです。

C私達
 私たちもイエス・キリストの救いと恵みを求め続けましょう。私たちが払う犠牲や施しに必ず主は報いてくださるお方です。
 私は毎週の礼拝説教の準備をしながら願う事は、礼拝に来てくださる方々を「空腹のまま帰らせたくない」と思います。昼食を準備しましょうという事ではありません。私にできることは御言葉の取り次ぎ、霊のパンを準備することですから、祈りつつ説教の準備をし、聖書を解き明かし、真理を明らかにすることです。「聖書は素晴らしい!」「イエス様を信じてよかった!」「救われていることを感謝します!」と喜びながら帰られることを願います。礼拝に集われる一人一人に、天のお父様が豊かな報いを備えてくださると信じます。神様があなたに備えてくださる祝福は、あなたのお腹(心)を満たし、有り余るほどの恵みです。この世が決して与えることが出来ないものを神様は与えてくださいます。