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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書16章1-12節 「パン種に気をつけなさい」



 四千人の給食のしるしを最後に、イエス様は異邦人伝道に区切りをつけ、一旦ガリラヤへ戻られます。(マタイはマガダン地方と書いていますが、マルコではダルマヌタ地方となっており、詳細は分かりませんが、ガリラヤ湖の西岸のガリラヤ地域と考えられます。)

 すると、すぐにイエス様のことを異端視するパリサイ人やサドカイ人たちがやってきました。サドカイ人はサドカイ派とも呼ばれ、マタイ福音書では初めて登場します。サドカイ派は永遠のいのちや、死者の復活、天使の存在を否定しました。目に見える物しか信じないという意味では唯物論者に近いのですが、モーセ五書だけは神の言葉と信じて、命じられた神殿でのささげものや祭りを厳守しました。パリサイ派とは勢力を二分していたようです。
(サドカイ派はAD70年のエルサレム崩壊と共に消滅しています。その後はパリサイ派が正統派として残りました)

1.天からのしるし

16:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。

 彼らは「天からのしるし」を見せてくれと頼みました。病人の癒しや悪霊追い出しではしるしとして不十分だというのです。なぜなら彼らのイエス様に対する判断は「悪霊のかしら、ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ」と言うものでした。「天からのしるし」とは、モーセ五書の中でモーセが行なった川の水を真っ赤な血に変えたり、カエルやぶよ、アブ、イナゴで全地を満たしたり、雹を降らせたり、三日間全地を暗闇にしたりするような超自然のしるしです。

 彼らの言葉は、悪魔が荒野でイエス様を誘惑したときと似ています。「出来るものならやってみろ!」と悪意に満ちています。主イエスは心の中で深いため息をつかれました。(マルコ8:12参照)そして次のように答えられました。
16:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、
16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。




2.時のしるし


 最近は天気予報の精度が上がっているので、空模様を見分けるのではなく、携帯で天気予報を見る人が多くなりました。かつては、次のようなことが日本でも言われました。
◎夕焼けの次の日は晴れ。朝焼けあとは雨。
◎朝に虹がでると雨。
◎煙突の煙がまっすぐに上がると晴れ。
◎ツバメが低く飛ぶと雨。ツバメが高く飛ぶと晴れ。
◎蛙が鳴くと雨。
◎猫が顔を洗うと雨。

 これらは湿度の関係や生き物の特性などで裏付けのある空模様の見分け方でした。イエス様は「
なぜ時のしるしを見分けることが出来ないのか?」と言われました。つまり、彼らの目の前に時のしるしがすでに現われているという事です。では、何をもって「時のしるし」と言われたのでしょうか?・・・それはバプテスマのヨハネとイエス・キリストが来られたことを指していると思われます。
 マラキが預言したエリヤとしてヨハネが道を備えました。そしてイザヤ書をはじめ多くの預言者が預言したキリストが来られ、盲人の目を開け、足の不自由な者を歩かせ、福音を宣べ伝えています。それらは神様が啓示された「時のしるし」でした。それを見ていながらどうして理解しないのか?とイエス様は嘆いておられるのです。

※イエス様の来臨と公生涯は、イスラエルに対する時のしるしでした。異邦人への伝道も、新しい時代の到来を示す時のしるしでした。イエス様の公生涯が残り一年となり、エルサレムへ向けての旅が始まる時として、ここでイエス様が「時のしるし」について話されたことに大きな意義があります。

16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
 ※12章40節と同じ言葉ですので、参照してください。「悪い姦淫の時代」

 パリサイ人等は時のしるしを見ても受け入れず、超自然のしるしを求めました。イエス様は「悪い姦淫の時代」と言うことにより彼らを責められています。
(ここでの姦淫とは男女関係の事ではなく、神様の愛から離れ、背を向けて歩むイスラエル民族の態度を指しています) 
 彼らに与えられるしるしはヨナのしるしだけ――それは復活のしるしを意味し、イエス・キリストが墓からよみがえられることを暗示しています。

 「
彼らを残して去って行かれた」とは、見限られたという印象です。前回の聖書箇所では、集まってきた異邦人群衆に対し、「彼らを空腹のままで帰らせたくありません。」と言われたのと大きな違いです。パリサイ人等は知識が無くて信じなかったのではありません。聖書の言葉を聞いていながら、救い主を見ていながら、聖霊によって行われるしるしを目の当たりにしながら、拒んだのです。彼らの犯した罪は聖霊に対する冒涜でした。彼らを救う福音は他にありません。彼らにくだる神のさばきは確実です。それゆえイエス様は「彼らを残して去って行かれた」のです。



3.パン種に注意しなさい


 この出来事の後、すぐにイエス様は場所を移されました。再びガリラヤを離れ、ベツサイダへ行かれました。それはピリポ・カイザリヤを通ってヘルモン山へ向かうためでした。(そこでイエス様は弟子たちにご自身の本来の栄光の姿を現されました。)ベツサイダに着くと弟子たちとのやり取りがあります。

16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
16:7 すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、議論を始めた。


A.小信者の弟子達
 弟子たちはイエス様がガリラヤで伝道を再開されると期待していたのでしょう。そのためかパンを持って行くのを忘れて舟に乗ってしまいました。「
パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と言われたとき、パンを忘れたことを責められていると思ったのです。「議論を始めた」とあり、弟子たち同士で「どうしてパンを忘れたのか?」「お前が気付くべきだ!」などと責任のなすり合いだったかも知れません。

16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
16:9 まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

 「信仰の薄い者たち」と言う言葉は、ペテロが湖を歩いておぼれそうになった時に言われた言葉と同じで、「信仰が小さい人」という意味です。漢字で表すなら「小信者」です。彼らは五千人の給食と四千人の給食のしるしの時、そこにいて自分たちもその食事を食べて満腹したのです。それなのにパンがないと言って文句を言いあっている・・情けないの一言です。イエス様はパリサイ人やサドカイ人の不信仰を嘆いたばかりなのに、12弟子たちまでもが不信仰で「パンがない!」と騒いでいるのです。

 マルコ福音書はイエス様の言葉をさらに詳しく記しています。
マルコ8:17「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

マタイ福音書では、
「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。」・・・心底、あきれた顔で嘆きながらイエス様は弟子たちをきびしく叱っておられます。それでやっと弟子達は目が覚め、パン種の意味を悟りました。
16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 私たちは12弟子を見ていると、「イエス様といつも一緒だったのに情けない」と思います。しかし、私たちの信仰生活はこの弟子たちの行動や言葉と少しも変わらないとも感じます。福音を信じてクリスチャンとなり、毎日、神様の恵みの中に生活しているのに、すぐに不信仰に陥ってしまうからです。
 事故に遭うと「どうしてこんなことが起こるのか?」
 病気になると「どうしてすぐに神様は癒して下さらないのか?」
 家庭がうまくいかないと「神様を信じたのにどうして不幸なのか?」
 教会で問題が起こると「どうして神様を愛しているのに争いが起こるのか?」
と不平を言い、躓きます。理由は簡単です――「信仰が小さい」からです。神様を信頼せず、問題をゆだねることが出来ないからです。

 信仰を大きく持ちましょう。弟子たちは「パンを忘れたけど、イエス様が共におられるから大丈夫!」と考えたらよかったのです。私たちもそうしましょう。
主が共にいてくださるから大丈夫!

B.三つのパン種
 では、イエス様が「注意しなさい」と言われたパン種について考えましょう。
「ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

 マルコ福音書では「サドカイ人」ではなく「ヘロデ」となっています。
マルコ 8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」



 イエス様はここで三つのパン種に言及され、警告されています。
@パリサイ人のパン種は「偽善」だと教えられています。(ルカ 12:1)
Aサドカイ人のパン種とは「間違った教理」です。サドカイ人は復活を信じない人たちとして聖書で取り上げられています。
Bヘロデのパン種とは、「世俗主義」と言われます。彼らはこの世の権威におもねり、享楽を追い求めたからです。

 信仰者が陥りやすいのがこの三つのパン種です。

@「偽善」
 信仰者とは神様を信じる人です。信仰は自分で得るものでなく神様からの賜物です。ですから自分の信仰を誇ることは愚かなことです。しかし人間は人を誉め称えたいし、誉め称えられたいのです。それで信仰者である自分を立派に見せたいという欲求が出てくるのです。そこに偽善が生まれます。パウロはそれらを、ちりあくた(原語の意味は排泄物)だと言っています。

ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

A「間違った教理」
 神様の言葉をそのまま信じる事をせず、自分の考えに合う解釈を選んでしまう事です。霊的解釈、自由解釈という罠に陥らないでください。それらの解釈は言い換えるなら「自分に都合のよい解釈」だからです。
 一例として、永遠の地獄はないと教える人がいます。その解釈は人間的な考えから始まった教えです。「愛である神様が永遠の地獄を用意しているとは考えられない。罪の恐ろしさを示すためだけで、神様が愛される人間を永遠の地獄へ落とすなんてあり得ない。」と教えます。彼らは、聖書には神様の裁きや永遠の苦しみの場所(ゲヘナ)が教えられているのに受け入れないのです。聖書解釈の基本は「文字通りに解釈する」事です。

B「世俗主義」
 キリストの救いと赦しを与えられたのに、世の楽しみから離れることが出来ず、躓いてしまう人がいます。快適な生活、愛する家族、健康、趣味嗜好…等は、私たちの生活に必要なことです。しかし、それらを求め過ぎたり、度を超えてしまうと自分を滅ぼしてしまうことになります。

 旅行やスポーツ、映画、ゲーム等を楽しむことは全く問題ではありません。むしろ与えられた人生を楽しむという点では必要な事と言えます。クリスチャンだからと言って、いつも机にかじりついて聖書を勉強し、祈りに何時間も費やし、教会の奉仕ばかり。旅行もせず、家族の時間も取らず、スポーツもしないなら、わびしい不健康なクリスチャンになってしまうでしょう。ですから常にバランスの取れた信仰生活を送ることが大切です。



 お酒も少量なら健康のために良いのですが、飲みすぎて人は失敗します。「酒に酔ってはいけません」と言う聖書の言葉は正しい教えです。私自身はお酒を飲み始めたら抑えることが出来ないので、禁酒を続けています。教会の方々にもアルコールは飲まないほうが良いと勧めています。煙草に至っては何の益もありませんので、禁煙を勧めています。私たちの身体は神の聖霊の宮ですから、アルコール漬けにしたり、ニコチンで真っ黒にするなら聖霊が悲しまれます。

エペソ 5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 世の楽しみに気を取られて神様から離れないようにしてください。いつも神様を第一としてください。もしあなたの心の中で神様以上の誘惑があるなら、捨て去る決心が必要です。