マタイによる福音書16章1-12節 「パン種に気をつけなさい」 並行カ所マルコ8:13-26、ルカ12:1

 四千人の給食のしるしを最後に、イエス様は異邦人伝道に区切りをつけ、一旦ガリラヤへ戻られます。(マタイはマガダン地方と書いていますが、マルコではダルマヌタ地方となっており、詳細は分かりませんが、ガリラヤ湖の西岸のガリラヤ地域と考えられています。)
 すぐにパリサイ人やサドカイ人たちがやってきます。サドカイ人はサドカイ派とも呼ばれ、マタイ福音書では初めて登場します。サドカイ派は永遠のいのちや、死者の復活、天使の存在を否定しました。目に見える物しか信じないという意味では唯物論者に近いのですが、モーセ五書だけは神の言葉と信じて、命じられた神殿でのささげものや祭りを厳守しました。パリサイ派とは勢力を二分していたようです。(サドカイ派はAD70年のエルサレム崩壊と共に消滅しています。その後はパリサイ派が正統派として残りました)

1.天からのしるし

16:1 パリサイ人やサドカイ人たちがみそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ。
 彼らは「天からのしるし」を見せてくれと頼みます。病人の癒しや悪霊追い出しでは不十分だというのです。なぜなら彼らの判断は「悪霊のかしら、ベルゼブルによって追い出しているのだ」と言うものでした。「天からのしるし」とは、「もっと超自然的なしるし」を言っているのでしょう。モーセが行なったように、川の水を真っ赤な血に変えたり、カエルやぶよ、アブ、イナゴで全地を満たしたり、雹を降らせたり、三日間全地を暗闇にしたりするしるしです。また、エリヤが行なった天から火を降らせるしるしなどでしょう。
 彼らの言い方は、悪魔がイエス様を荒野で誘惑してきたときと同じような言葉です。彼らの動機は悪魔的です。救い主と期待してではなく、「できるものならやってみろ」と言うように悪意に満ちています。主イエスは心の中で深いため息をつかれます。(マルコ8:12参照)そして次のように言われます。
16:2 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、
16:3 朝には、『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。


2.時のしるし

 「空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることが出来ないのですか?」・・最近は天気予報の精度が上がっていますので、空模様を見分けるのではなく、携帯で天気予報を見る人が多くなりました。かつては、次のようなことが日本でも言われました。
◎夕焼けの次の日は晴れ。朝焼けあとは雨。
◎朝に虹がでると雨。
◎煙突の煙がまっすぐに上がると晴れ。
◎ツバメが低く飛ぶと雨。ツバメが高く飛ぶと晴れ。
◎蛙が鳴くと雨。
◎猫が顔を洗うと雨。
 これらは湿度の関係や生き物の特性などで裏付けのある空模様の見分け方でした。イエス様は「なぜ時のしるしを見分けることが出来ないのか?」と言われました。つまり、彼らの目の前に時のしるしがすでに現わされているという事です。何をもって「時のしるし」と言われたのでしょうか?・・・それはバプテスマのヨハネとイエス・キリストが来たことを指して語られていると思われます。マラキが預言したエリヤとしてヨハネが道を備え、イザヤ書をはじめとして多くの預言者が預言したキリストが来られ、盲人の目を開け、足の不自由な者を歩かせ、福音を宣べ伝えています。それらは神様が御言葉によって示された「時のしるし」でした。それを見ていながらどうして理解しないのか?とイエス様は嘆いているのです。

※イエス様の来臨と公生涯は、イスラエルに対する時のしるしでした。異邦人への伝道も、新しい時代の到来を示す時のしるしでした。イエス様の公生涯が残り一年となり、エルサレムへ向けての旅が始まる時として、ここでイエス様が「時のしるし」について話されたことに大きな意義があります。

16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。
 12:40節と同じ言葉です。パリサイ人等は時のしるしを見ても、神の言葉を聞いても信じようとしない人々です。悪い姦淫の人たちです。(姦淫とは男女関係の事ではなく、ここでは、神様に愛されているのにその言葉を無視し、背を向けて歩むイスラエル民族の態度を指しています) 彼らに与えられるしるしはヨナのしるしだけ・・・それは復活のしるしを意味し、イエス・キリストのよみがえりのしるしがあることを暗示しています。
 「彼らを残して去って行かれた」とあるのは、見限ったという印象です。先週の箇所では、集まってきた異邦人に対し、「彼らを空腹のままで帰らせたくありません。」と言われたときとの違いに気付くでしょうか。パリサイ人等は知識が無くて信じなかったのではありません。聖書の言葉を聞いていながら、救い主を見ていながら、聖霊によって行われるしるしを見ていながら、拒んだのです。彼らの犯した罪は聖霊に対する冒涜でした。彼らを救う福音は他にありません。彼らにくだる神のさばきは確実です。それゆえイエス様は「彼らを残して去って行かれた」のです。

3.パン種に注意しなさい

 この出来事の後すぐに場所を移されます。再びガリラヤを離れ、ベツサイダへ行かれます。それはピリポ・カイザリヤを通ってヘルモン山へ向かうためのようです。(そこでイエス様は弟子たちにご自身の本来の栄光の姿を現されることになります。)ベツサイダに着くと弟子たちとのやり取りがあります。
16:5 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れた。
16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
16:7 すると、彼らは、「これは私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、議論を始めた。


A.小信者の弟子達
 弟子たちはイエス様がガリラヤで伝道を再開されると期待していたのでしょう。そのためかパンを持ってくるのを忘れて舟に乗ってしまいました。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」と言われたときに、パンを忘れてきたことを思い出したのです。議論を始めたと書いてありますが、弟子たち同士で「どうしてパンを持ってこなかったのか?」「お前が忘れるからいけないのだ」「俺だけの責任じゃないだろ」などと責任のなすり合いだったかも知れません。
16:8 イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
16:9 まだわからないのですか、覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:10 また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
16:11 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

 「信仰の薄い者たち」と言う言葉は、ペテロが湖を歩いておぼれそうになった時に言われた言葉と同じ「信仰が小さい」という意味の一語です。漢字で表すなら「小信者」です。イエス様は弟子たちの信仰が小さいことを嘆いておられます。なぜなら彼らは五千人の給食と四千人の給食のしるしを目の当たりにし、自分たちもその食事をいただいて満腹したのです。それなのに、再びパンがないと言って文句を言いあっている・・情けないの一言です。パリサイ人やサドカイ人の不信仰を嘆いたばかりなのに、12弟子たちまでもが不信仰で「パンがない、パンがない!」と騒いでいるのです。マルコ福音書はイエス様の言葉を詳しく記しています。
マルコ8:17「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。
8:18 目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。

マタイ福音書では「わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。」・・・心底、あきれた顔で嘆きながらイエス様は弟子たちをきびしく叱っておられます。ようやく弟子達は悟ります。目が覚めたのです。
16:12 彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った。

 私たちは12弟子を見ていると、「イエス様といつも一緒だったのに情けないな〜」と思うのではないでしょうか。しかし、私たちの信仰生活はこの弟子たちの行動や言葉と少しも変わらないのではないでしょうか?・・・福音を聞いて信じクリスチャンとなり、毎日、神様の恵みの中に生活し、毎週礼拝に集い、主にある交わりを楽しんでいるのに、すぐに不信仰に陥ってしまいます。事故に遭うと「どうしてこんなことが起こるの?」 病気になると「どうしてすぐに神様は癒して下さらないのか」 家庭がうまくいかないと「神様を信じたのにどうして不幸なの」と言います。教会で問題が起こると「どうして神様を愛しているのに争いが起こるの?」と躓きます。すべての問題の責任を神様に向けてしまうのです。理由は簡単です。「信仰が小さい」のです。神様を疑い、神様を信頼せず、問題をゆだねることが出来ないのです。神様があなたに必要なものを与えられると信じることが出来ないからです。・・・信仰を大きく持ちましょう。弟子たちはパンを忘れたことについてどう考えたらよかったのでしょうか?・・「パンを忘れたことは申し訳ない。でもイエス様が共におられるから大丈夫!」と考えたらよかったのです。私たちもそう考えましょう。「主がともに居てくださるから大丈夫!」だと。

B.三つのパン種
 では、イエス様が「注意しなさい」と言われた事について考えましょう。
「ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」

 マルコ福音書では「サドカイ人」ではなく「ヘロデ」となっています。
マルコ 8:15 そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」

◎イエス様は三つのパン種に言及され、警告されています。
@パリサイ人のパン種 Aサドカイ人のパン種 Bヘロデのパン種
・パリサイ人のパン種は偽善だと教えられています。(ルカ 12:1)
・サドカイ人のパン種とは間違った教理でしょう。サドカイ人は復活を信じない人たちとして聖書で取り上げられています。
・ヘロデのパン種とは、世俗主義と言われます。彼らはこの世の権威におもねり、享楽を追い求めたからです。
信仰者が陥りやすい危険がこの三つの事だと教えられます。
@「偽善」
 信仰者とは神様を信じる人です。信仰は自分で得るものでなく神様からの賜物です。ですから自分の信仰を誇ることは愚かなことです。しかし人間は人を誉め称えたい、誉め称えられたい。自分を立派に見せたい。・・そこに偽善が出てきます。自分の知識をひけらかし、自分の業績を発表することが好きです。パウロはそれらを、ちりあくた、排泄物だと言っています。
ピリピ3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
A「偽りの教理」
 神様の言葉をそのまま信じる事をせず、自分の考えに合う教理を選んでしまう事です。霊的解釈、自由解釈と言う罠に陥らないでください。それらの解釈は言い換えるなら「自分に都合のいい解釈」になるからです。永遠の地獄はないと教える人がいます。その理由は人間的な考えからです。「愛である神様が永遠の地獄を用意しているとは考えられない。罪の恐ろしさを示すために教えられているだけであって、愛に満ちている神様が永遠の地獄を用意されているはずがない。」と教えます。聖書の中に神様の裁きが教えられているのに、理解しないのです。聖書解釈の基本は「文字通りに解釈する」事です。
B「世の楽しみ」
 キリストの恵み、罪の赦しをいただいたのに、世の楽しみから離れることが出来なくて、つまづいてしまう人がいます。快適な生活を求める、何不自由のない環境を求める、異性を求める・・・などは、正しく求めるなら、問題ありません。でも求め過ぎたり、度を超えてしまうと自分を滅ぼしてしまいます。旅行へ行ったり、スポーツを楽しんだり、映画を見たり、ゲームを楽しむことは全く問題ではありません。むしろ与えられた人生を楽しむという点では必要な事と言えます。クリスチャンだからと言って、いつも机にかじりついて聖書を勉強し、祈りに時間を費やし、教会の奉仕ばかり。旅行もせず、家族の時間も取らず、スポーツもしないなら、わびしい不健康なクリスチャンになってしまうのではないでしょうか。ですから常にバランスが必要です。お酒も少量なら健康のためにいいのですが、飲みすぎて人は失敗します。「酒に酔ってはいけません」と言う聖書の言葉は正しい教えです。私は弱い人間ですから、一旦飲み始めたら抑えることが出来ませんので、ずっと禁酒を続けています。教会の方々にもアルコールを止めた方が良いと勧めています。煙草に至っては何の益もありませんので、禁煙を勧めています。私たちの身体は神の聖霊の宮ですから、アルコール漬けにしたり、ニコチンで真っ黒にするなら聖霊が悲しまれます。
エペソ 5:18 また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
 世の楽しみに気を取られて神様から離れないようにしてください。いつも心の中で神様を第一としてください。もしあなたの心の中で神様以上の誘惑があるなら、捨て去る決心が必要です。聖書的シンプルライフの基本は、要らないもの、必要でないものは捨てることです。取っておいても役に立ちません。かえって身動きが取れなくなってしまいます。キリストにある信仰生活はシンプルです。ごみを持ってくると複雑になります。イエス様が教えられたように、私たちは難しい信仰にならないように気を付けなければいけません。