マタイによる福音書16章13-20節 「岩の上に教会を建てる」 並行カ所マルコ8:27-30、ルカ9:18-21

 イエス様の福音伝道は、本来ユダヤ人が対象でした。彼らに約束されたメシアとして、ユダヤ人の王としてキリストは来られました。しかし、そのユダヤ人指導者たちはキリストを受け入れず、しるしを見てもそれを悪霊の働きだと暴言を吐き、聖霊に逆らう罪を犯しました。そのため、キリストは「時のしるしを見分けられ」、新しい時代、教会時代の到来のために準備をされていかれます。弟子たちの信仰を訓練され、そして異邦人伝道を先駆けとして行われました。(15章)

 16章では一旦ガリラヤへ戻られますが、再びベツサイダから北上し、異邦人の町ピリポ・カイザリヤへ行き、そして高い山(ヘルモン山と一般的に考えられています)へ向かわれます。この旅行の目的は異邦人伝道ではありません。各福音書は一言も福音伝道を伝えず、主イエスと弟子たちとの会話だけを記していますので、弟子たちを訓練するためであったと言えるでしょう。

一、ピリポ・カイザリヤ

 この場所でペテロの信仰告白があり、彼に天の御国の鍵を与えられるという会話があります。深い理解のために、ピリポ・カイザリヤと言う場所について知っておくことが必要です。
 ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖の北、約40キロにある異邦人が住む町でした。(現在はイスラエルの領地)ヘルモン山の南に位置する高台の町です。ヘルモン山から流れてくる水と泉がわく場所で、きれいな川が流れ、ガリラヤ湖に注いでおり、ヨルダン川の源流の一つとなっています。ペテロと言う名前は「石」を意味しますが、ピリポ・カイザリヤを流れる川にはまさに大小の石があふれている場所です。ここには現在、バニヤスという遺跡があり、観光地となっています。ギリシャ神話に登場する「牧羊神・パン」が祭られていたことが分かっています。巨大な偶像の神殿でした。イエス様の旅行の目的の一つには、イスラエルを離れてそのような偶像神殿を弟子たちに見せることもあったのではないでしょうか。

二、ペテロの信仰告白

 この場所で、イエス様は弟子たちに質問されます。
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

 この町にもイエス・キリストのうわさが伝わっていたのか分かりません。弟子たちの念頭にはガリラヤの人たちの評判があったのかもしれません。いずれにせよ人々はイエス・キリストのことを偉大な預言者の生まれ変わり、あるいは新しい預言者だと考えている、と弟子たちは率直に答えました。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 ペテロが常に代表して答えます。彼の答えは素晴らしい答えでした。
・「生ける」神の御子であると答えました。彼らはピリポ・カイザリヤにあるたくさんの偶像を見たとき、それらは「死んだ神々」であると考えたのでしょう。本当の神は生きて働かれる神であると確信したはずです。
・「神の御子」というのも正しい理解でした。神と同じ権威を持つお方と言う意味です。唯一神を信じるユダヤ人にとって、「神の御子」と言う理解は三位一体の考え方に通じます。ちなみに「ダビデの子」と呼ぶ時には「ダビデの王権を継承して王座に就かれる方」と言う意味です。
・「キリスト」つまり救世主だと告白したのは正しい理解でした。
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
 イエス様は「バルヨナ・シモン」とペテロを正式名称で呼ばれます。バルヨナと言うのは「ヨナの子」と言う意味です。聖書中にはバルナバ「慰めの子」、バルトロマイ「トロマイの息子」などが登場します。「神の子」と正しく告白したペテロに「ヨナの子、シモン」と言う正しい呼び方をされました。
・「人間ではなく」;ギリシャ語では「肉と血ではなく、血肉ではなく」
・「わたしの父です」;信仰を持つことは自分の知識や努力によって勝ち得たのではなく、神様からの恵みです。従って私たちは自分の信仰を誰も誇ることが出来ません。
 あなたはイエス・キリストを正しく告白しているでしょうか?生きて働かれる神の御子と信じているでしょうか?そうであるなら、あなたは幸いです。恵まれています。祝福されています。

三、岩の上に教会を建てる

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 この言葉は、世界の歴史の中で大きな混乱をもたらしました。ローマ・カトリックはペテロの首位権を主張し、16世紀の宗教改革が起こるまでは教会の歴史はカトリック教会の歴史となりました。「キリストはペテロを選び、ペテロの上に教会を建て、ペテロに特別な権威と祝福を与えられた」と解釈し、法王制度を続けています。しかし、プロテスタント教会、バプテスト教会、聖書を正しく学んでいる教会は、これに反論しています。
 反論@ ペテロはギリシャ語で「ペトゥロス」であり、男性名詞で、岩山から取り出された石を指す言葉です。しかし、「岩」は「ペトゥラ」、女性名詞で、岩山、岩盤を指す言葉です。同じ言葉でないことは明らかです。ですから、カトリック以外の教会では、次のように主の言葉を解釈します。
a.ペテロが語った信仰告白に基づいて教会を建てられることを宣言された
b.イエス様はご自身を指して、「この岩」と語られている。
c.ペテロを含めた12使徒と預言者たちを含めた大きな岩盤の上に教会を立てる。
 参照聖句;エペソ2: 20あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
 Tペテ2:4-6 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

 ピリポ・カイザリヤの川の大小の石は流れ下る石です。それはペテロ、また他の弟子たちです。その石を集めて基礎として固め、その上に教会を建てると主は言われているのだと思います。
反論A その後の教会形勢を見ていくときに、異邦人伝道は使徒パウロの働きによったので、異邦人教会においてペテロは決して指導者としての立場をとりませんでした。また、パウロの書簡の中に「ペテロに与えられた権威」について一度も教えてはいません。反対に、使徒パウロはペテロの行動をあからさまに非難したことがありました。
ガラテヤ 2:11 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
もし、ペテロが特別な神権をいただいたのなら、非難したパウロはさばかれているはずでしょう。しかし、その非難の言葉は神のことば、聖書として認められたのです。
反論B かりに「ペテロの首位権」を認めても、その権威が引き継がれていくという聖書的根拠はどこにもありません。12使徒についてはユダが欠けたときに、マッテヤが加えられました。その選考条件は、
使徒1:22 「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
と言うものでした。つまり、現在では使徒としての条件を満たす人は誰もいないことになります。ペテロに首位権が与えられたとしても、それが継承されていく根拠はありません。
反論C 19節の鍵は、ペテロだけに与えられたものではなく、使徒たち全員にも同じことが語られています。従ってペテロだけに特別な権威が与えられたのではありません。ただ、彼がその代表者であったということが出来ます。
マタイ 18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
参照聖句;ヨハ20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
Uコリ 2:10 もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。


「天の御国の鍵」の解釈
 ユダヤの考え方では「鍵をつなぐことは、禁止すること。鍵を解くことは、許可すること」です。・・この意味において12使徒たちは教会の規則として禁止したり、許可したりする権威を持つことが出来ました。それは使徒の働きの中で記されています。使徒6章;執事の選任、11:22宣教派遣 15:22〜異邦人への規定 等

 またそれは、教会が設立されるに当たり、人々に天の御国への扉(奥義としての教会)を開いていくことでもありました。使徒の働きの中で、段階的に扉が開かれていっています。それは教会時代の特徴である聖霊の内住という働きに深く関わっています。イエス様がまず12弟子たちに聖霊を約束したことから始まり、聖霊のバプテスマによって教会に人々が加えられていったのです。
@まずイエス様が12弟子たちに聖霊を受けなさい、と言って息を吹きかけられました。これは将来の約束でした。
ヨハネ 20:21-22 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
Aペンテコステの時に12使徒たちにまず聖霊が与えられました。神様は新しい時代の到来、聖霊降臨を明らかにするために、体に感じる振動、目で見える分かれた舌、耳で聞くことが出来る異言のしるしを現わされました。
使徒2:1-4  五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
Bペテロと他の11人の使徒たちは、天の御国の鍵を用い、ドアをまずユダヤ人に開きました。
使徒2:5-6 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。
使徒2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。
使2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
(はっきりと記されていませんが聖霊が与えらたはずです。2:38参照)
C次にペテロとヨハネが天の御国の鍵を用い、サマリヤ人にドアを開きました。(サマリヤ人はユダヤ人と異邦人の結婚から誕生した民族)
使徒8:14-17 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
 ここで注目すべきは、彼らは既に主イエスの御名によって水のバプテスマをピリポから受けていた点です。(この様なケースは19:5-6にもあります)つまり、ペテロとヨハネが来るまでは教会の一員ではなかったという事です。(彼らは旧約の聖徒たちと同じように信仰者として義と認められていたでしょう。しかし、奥義としての教会に加えられてはいなかったのです。ペテロとヨハネが鍵を使い、ドアを開けたことにより、聖霊のバプテスマが起こり、彼らは教会に加えられたのです。
D最後にペテロが天の御国の鍵を用いて異邦人にドアを開きました。コルネリオとその親族、友人に聖霊が与えられました。
使徒10:34-35 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
使徒10:44-47 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」

 この時まで異邦人は誰にも聖霊が与えらえていませんでした。ペテロでさえ異邦人には聖霊が与えられないと理解していました。しかし、神様の不思議な啓示を通し、ペテロはこのことを理解し、ドアを異邦人に開いたのです。この時から異邦人にも聖霊が与えられるようになり、教会の一員となったのです。
 これによって天の御国の扉が全世界のすべての人々に対して開かれました。その後、扉は開かれたままになっています。従って12使徒が現在いなくても、人々は福音を聞き、信じて聖霊のバプテスマを受け、教会の一員となるのです。さらに付け加えるなら、水のバプテスマを受けることにより目に見える地方教会の一員として迎えられるのです。

 イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。教会はイエス・キリストのものです。十字架の血潮によって買い取られたのです。「わたしの教会」と言われる時、イエス様が呼び集められた人々の集まりです。私たちが教会に集う時に、主イエス様がその中心にいてくださり、私たちを祝福してくださいます。
 「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」 と主は言われました。ハデスとは死者がさばきのために置かれる場所です。教会に加えられた人はハデスの門から入ることがありません。なぜならイエス・キリストを信じた人は、「死んでも生きる」という約束があるからです。死はさばきではなく、祝福に満ちた天の御国に入る通過点となりました。ですから私たちは迫害や困難、そして死ぬことさえ恐れる必要がありません。

 今も天の御国の扉は開かれたままです。主イエスが再び天から帰ってこられるときにその扉は閉ざされます。教会の宣教はその時まで続きます。一人でも多くの人がキリストの福音を信じることが出来るように祈り続けましょう。
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16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
理由として考えられることは、
@受難へ向かうその「時」がまだ来ていないから。
A弟子たちの理解は、「王として治められるキリスト」であり、人々の罪を背負って死なれる「悲しみのメシア」としての理解はありませんでした。従って、間違ったキリスト理解によって弟子たちが宣べ伝えることを止められたのでしょう。もし、弟子たちがその様に伝え回るなら、群衆はイエスを王として担ぎ上げようとすることは明らかでした。