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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書16章13-20節 「岩の上に教会を建てる」



 異邦人伝道の後、イエス様と弟子たちは、再びベツサイダから北上し、異邦人の町ピリポ・カイザリヤを通り、そして高い山(ヘルモン山と一般的に考えられています)へ向かわれました。今回の旅行の目的は異邦人伝道ではありません。福音書著者たちは主イエスと弟子たちとの会話だけを記録しており、弟子たちの訓練が目的であったと考えられます。

一、ピリポ・カイザリヤ



 ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖の北、約40キロにある異邦人が住む町で(現在はイスラエルの領地)、ヘルモン山の南に位置する高台の町です。
 ヘルモン山から流れてくる水により泉が湧き、きれいな川が流れてガリラヤ湖に注ぎ、ヨルダン川の源流の一つとなっています。ペテロという名前は「石」を意味しますが、ピリポ・カイザリヤを流れる川はまさに大小の石があふれている場所です。ここには現在、バニヤスという遺跡があり、観光地となっています。ギリシャ神話に登場する「牧羊神・パン」が祭られていたことが分かっています。それは巨大な偶像の神殿でした。イエス様の旅行目的には、イスラエルを離れてその偶像神殿を弟子たちに見せることもあったのではないでしょうか。

二、ペテロの信仰告白

 この場所で、イエス様は弟子たちに質問されました。
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」

 この町にもイエス・キリストのうわさが伝わっていたのか分かりません。弟子たちの念頭にはガリラヤの人たちの評判があったのでしょう。いずれにせよ人々はイエス・キリストのことを「偉大な預言者の生まれ変わり、あるいは新しい預言者」だと考えている、と弟子たちは率直に答えました。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 ペテロが常に代表して答えていますが、彼の答えは様々な点で素晴らしいものでした。
@「
生ける神」の御子であると答えました。彼らはピリポ・カイザリヤで多くの偶像を見たとき、それらは「死んだ神々」だと感じたでしょう。弟子たちが信じる神は生きて働かれる神であると確信したはずです。

A「
神の御子」というのも正しい答えでした。神に愛され、神と同等の権威を持つお方と言う意味です。「神の御子」という理解は三位一体の考え方に通じます。ちなみに「ダビデの子」と呼ぶ時には「ダビデの王権を継承して王座に就かれる方」という意味です。

B「
キリスト」つまり救世主だと告白したのは正しい答えでした。それは聖書預言の理解と信仰がなければ出来ない告白です。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
 イエス様は「バルヨナ・シモン」とペテロを正式名称で呼ばれました。バルヨナと言うのは「ヨナの子」という意味です。
人間ではなく」;ギリシャ語では「血肉ではなく」
わたしの父です」;信仰を持つということは、自分の知識や努力によって勝ち得たのではなく、神様からの恵みです。従って私たちは自分の信仰を誰も誇ることが出来ません。
 あなたはイエス・キリストを正しく告白しているでしょうか?――生きて働かれる神の御子と信じているでしょうか?――そうであるなら、あなたは幸いです。神様の祝福が与えられています。

三、岩の上に教会を建てる



16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 この主イエス様の言葉は、世界の歴史の中で大きな混乱をもたらしました。ローマ・カトリックはペテロの首位権を主張し、16世紀に宗教改革が起こるまで教会の歴史はカトリック教会の歴史となりました。「キリストはペテロを選ばれ、ペテロの上に教会を建て、ペテロに特別な権威と祝福を与えられた」と解釈し、教皇制度を続けています。しかし、聖書を正しく解釈しようとする人々はこれに反論しています。

反論@
 ペテロはギリシャ語で「ペトゥロス」であり、男性名詞で、岩山から取り出された石を指す言葉です。しかし、「岩」は「ペトゥラ」、女性名詞で、岩山、岩盤を指す言葉です。この二つが同じ語でないことは明らかです。

反論A
 その後の教会形勢を見ていくとき、異邦人伝道は使徒パウロの働きによったので、異邦人教会においてペテロは指導者の立場ではありませんでした。また、パウロはその書簡の中で「ペテロに与えられた権威」について一度も教えていません。それどころか使徒パウロはペテロの行動をあからさまに非難したことがありました。
ガラテヤ 2:11 ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
 もしもペテロが特別な神権を頂いていたのなら、非難したパウロはさばかれるべきです。しかし、パウロのペテロ非難の言葉は神のことば、聖書として認められたのです。

反論B
 百歩譲って「ペテロの首位権」を認めても、その権威が引き継がれていくという聖書的根拠はどこにもありません。12使徒についてはユダが欠けたときに、マッテヤが加えられました。その選考条件は、
使徒1:22 「すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
と言うものでした。つまり、現在では使徒としての条件を満たす人は誰もいないことになります。ペテロに首位権が与えられたとしても、それが継承されていく聖書的根拠は一つもありません。

反論C
 19節の鍵は、ペテロだけに与えられたものではなく、使徒たち全員に与えられています。従ってペテロだけに特別な権威が与えられたのではありません。ただ、彼がその代表者であったということは出来ます。
マタイ 18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
ヨハネ20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」
Uコリント 2:10 もし
あなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。

 では、「この岩」の正しい解釈は何でしょうか?次の三つが考えられます。

@ペテロが語った信仰告白
 ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白しました。イエス様はこの信仰告白を教会の基礎とされたと解釈します。

Aイエス様はご自身を指して、「この岩」と言われた
 ヨハネ福音書2章で、イエス様は「
この神殿を壊してみなさい」と言われたとき、人々はエルサレム神殿のことだと受け取りましたが、イエス様は「ご自身の体」を指しておられました。教会の基礎岩としてふさわしいのは、イエス様以外にありません。
※参照聖書箇所
エペソ2: 20 
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
Tペテ2:4-6 
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

Bペテロを含めた12使徒と預言者たち
 エペソ2:20から、使徒たちと預言者たちすべてを土台と考えることも出来ます。
エペソ2: 20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
 12使徒と預言者たちは、ちょうどピリポ・カイザリヤの川の大小の石に似ています。その石を集めて基礎として固め、その上に教会を建てると主は言われたと解釈出来ます。その礎石は勿論、主イエス・キリストです。

「天の御国の鍵」の解釈

 ユダヤの考え方では「鍵をつなぐことは、禁止すること。鍵を解くことは、許可すること」です。この意味において12使徒たちは教会の規則として禁止したり、許可したりする権威を持つことが出来ました。それは使徒の働きの中で記されています。
使徒6章 執事の選任
使徒11章 宣教派遣
使徒15章 異邦人への規定等



 また、天の御国の鍵は、人々に天の御国への扉を開いていくことでもありました。使徒の働きの中で、段階的に扉が開かれていっています。それは教会時代の特徴である聖霊の働きに深く関わっています。イエス様がまず12弟子たちに聖霊を約束したことから始まり、聖霊のバプテスマによって教会に人々が加えられていきました。

@まずイエス様が12弟子たちに聖霊を受けなさい、と言って息を吹きかけられました。これは将来の約束でした。
ヨハネ 20:21-22 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

Aペンテコステの時に12使徒たちにまず聖霊が与えられました。神様は新しい時代の到来、聖霊降臨を明らかにするために、体に感じる振動、目で見える分かれた舌、耳で聞くことが出来る異言のしるしを現わされました。
使徒2:1-4  五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

Bペテロと他の11人の使徒たちは、天の御国の鍵を用い、扉をまずエルサレムでユダヤ人に開きました。
使徒2:5-6 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。

使徒2:14 そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。

使2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。
(彼らは聖霊を受けたはずです。
使徒2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

C次にペテロとヨハネが天の御国の鍵を用い、サマリヤ人に扉を開きました。
使徒8:14-17 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 ここで注目すべきは、彼らは既に主イエスの御名によって水のバプテスマをピリポから受けていた点です。(この様なケースは19:5-6にもあります)つまり、ペテロとヨハネが来るまでは教会の一員ではなかったという事です。(彼らは旧約の聖徒たちと同じように信仰者として義と認められていたでしょう。しかし、奥義としての教会に加えられてはいなかったのです。ペテロとヨハネが鍵を使い、サマリヤ人に扉を開いたことにより、聖霊のバプテスマが起こり、彼らは教会に加えられたのです。

D最後にペテロが天の御国の鍵を用いて異邦人に扉を開きました。コルネリオとその親族、友人に聖霊が与えられました。
使徒10:34-35 そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。

使徒10:44-47 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」

 この時まで異邦人には聖霊が与えらえていませんでした。ペテロでさえ異邦人には聖霊が与えられないと考えていました。しかし、神様の不思議な啓示を通し、ペテロはこのことを理解し、扉を異邦人に開いたのです。この時から異邦人にも聖霊が与えられるようになり、教会の一員となったのです。
 ※この順番はイエス様の宣教命令の通りです。
使 1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、
エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」

 この「天の御国の鍵」によって天の御国への扉が全世界の人々に対して開かれました。その後、扉は開かれたままになっています。従って12使徒が現在いなくても、人々は福音を聞き、信じて聖霊のバプテスマを受け、教会の一員となるのです。さらに付け加えるなら、水のバプテスマを受けることにより目に見える教会の一員として迎えられるのです。

 イエス様は「この岩の上にわたしの教会を建てます」と言われました。教会はイエス・キリストのものです。十字架の血潮によって買い取られたのです。「
わたしの教会」と言われる時、イエス様が呼び集められた人々の集まりです。私たちが教会に集う時に、主イエス様がその中心にいてくださり、私たちを祝福してくださいます。

 「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」と主は言われました。ハデスとは死者がさばきのために置かれる苦しみの場所です。教会に加えられた人はハデスの門から入ることはありません。なぜならイエス・キリストを信じた人は、「死んでも生きる」という約束があるからです。肉体の死はさばきではなく、祝福に満ちた天の御国に入る通過点となりました。ですから私たちは迫害や困難、そして死ぬことさえ恐れる必要がありません。

 今も天の御国の扉は開かれたままです。主イエス様が再び天から帰ってこられるとき、その扉は閉じられます。教会の宣教はその時まで続きます。一人でも多くの人々がキリストの福音を信じ、天の御国の門から入れるように祈り続けましょう。
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補足
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
 この場所はピリポ・カイザリアであり、異邦人へはまだ扉が開かれていないので、伝道を禁止されたと理解できます。神様のご計画の通りに私たちの住む世界は進んでいるのです。