マタイによる福音書16章21-28節 「全世界より大切ないのち」 並行カ所マルコ8:31-9:1、ルカ9:22-27

 イエス様が語られた言葉、その働き、一つ一つを深く学ぶときに、十字架の救いの偉大さ、そのご計画の深さに驚かされます。キリストを知り、キリストを愛し、キリストの御足の足跡に従うのが私達クリスチャンです。
前回まで;エルサレム指導者たちが救い主として来られたイエス様を受け入れないことがはっきりしました。それ以降、主イエスは弟子たちの訓練を始められ、教会時代の到来についてたとえ話で語られました。また、教会時代の先駆けとして異邦人伝道を行いました。その結果、ペテロをはじめとして弟子たちは「あなたは生ける神の御子、キリストです」と、正しい信仰告白をしました。

1.十字架、死、復活の予告

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
 ペテロの信仰告白を受け、イエス・キリストは弟子たちにご自身の受難と死、そして復活を予告されます。弟子たちの信仰成長に応じて真理を示していかれたのです。(受難の予告 9:15, 17:9,12, 17:22-23, 20:18)
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
 
ペテロはイエス様を慕うあまり、受難を受け入れることが出来ませんでした。 ペテロの言葉は「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言う意味の言葉です。ペテロたちは「あなたは生ける神の子、キリストです」と正しい信仰告白をしましたが、まだ不十分でした。なぜなら彼らは十字架と復活については全く理解していませんでした。神の子として来られ、ユダヤ人の王として来られたキリストを信じましたが、「悲しみのメシア」として死なれるキリストについての理解がありませんでした。
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 イエス様の厳しい叱責です。ペテロを悪魔呼ばわりです。ペテロの中にサタンが入り込んだと解釈されますが、サタンがペテロに働きかけて悪を行わせようとしていると解釈することもできるでしょう。イエス様の叱責はペテロの言葉に隠されている悪魔の働きを知られ、サタンを叱責されています。(だからと言ってペテロに非がないということではありません。サタンはペテロの不信仰、高慢という罪深さ、理解しようとしない愚かさに付け込んだからです。ゆえに叱責の後半はペテロに向けて語られています。)
※教会時代のクリスチャンには聖霊が内住しています。したがってサタンは信者の内に入ることは出来ません。聖霊とサタンが同時に内住することはありえないからです。参照;Tコリント 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。Uコリント6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

2.サタンの働き


 ペテロの言葉に隠されているのは悪魔的な誘惑です。それは、キリストを十字架に架けずに王とならせようとする悪魔のたくらみです。福音書においてサタンが登場した場面は三回ありましたが、サタンの目的は一貫しています。
 @荒野での誘惑・・十字架にかかることなしにキリストを世の支配者、王にしようとした。
 Aペテロに対するこの箇所・・十字架に向かわせないようにした
 Bユダの裏切り・・サタンはユダに入り、キリストを売り、ゲッセマネの園の暴動によって十字架前にキリストを殺そうとした。(しかし、イエス様は暴動を止められました。)
 つまり、サタンが最も避けたいのは、キリストが十字架に架かることです。キリストが十字架に架かるなら、罪の赦しがもたらされ、サタンが築き上げてきた暗闇の帝国が崩壊することをサタンは知っているからです。サタンは人々を罪の支配の中にがんじがらめにし、自分と同じ地獄の滅びへ道連れにしたい。何としてもサタンはキリストの十字架を止めさせたいのです。もし、キリストが十字架で死ななければ、罪の贖いはありません。信仰による救いはありません。それは私達クリスチャンだけでなく、旧約の聖徒たちにとっても同じことです。彼らは動物の血を流すことによって罪の赦しをいただいたのですが、それは後に来られるキリストが十字架に架かってこそ有効となるからです。動物の血は本来、人の犯した罪を贖うことが出来ないのですが、キリストの十字架の血が流されることを前提に、「罪が赦される」と父なる神が約束されたのです。

 ペテロの思いは純粋だったでしょう。イエス様を思う気持ちにあふれていたでしょう。しかし、神様の御心でないなら、それは的外れであり、罪なのです。神の御計画を妨害するサタンのたくらみとなってしまいます。私たちはこのことに気をつけなければなりません。サタンは私たちに対して巧みに働いて、キリスト者としての証しを台無しにしようとします。悪魔は羊の皮をかぶってやってきます。優しい顔、柔和な態度、謙遜な言葉で私たちに近寄ってきます。間違った教えを広めます。エホバの証人は憎たらしいほど丁寧な態度で偽りの教えを広めます。モルモン教徒は環境にやさしい自転車に乗ってやってきて、神様の新しい啓示があると言って伝道します。彼らの背後にあるのはサタンの働きです。未信者の口に働いて、「教会に熱心になりすぎると、家族がかわいそうですよ」とあなたを心配しているように提言します。しかし、そこには「神の国とその義を二番目にしなさい」と言うサタンのたくらみがあります。ですから私たちは御言葉によって武装しなければなりません。神様の御心は何であるかを知っていなければなりません。そのために聖書をよく学ぶべきです。祈りだけでは不十分です。伝道だけでは不十分です。賛美だけでは不十分です。御言葉を学んでいなければ、御心に反した祈りとなってしまいます。人々を滅びの道へ導いてしまいます。むなしい歌詞で賛美することになります。誰も異なった香をささげてはいけません。(出30:9) 御言葉をしっかり学ぶときに、主の御心に適う祈りが出来ます。その祈りは必ず聞かれます。真理を知るなら、正しい救いの道へ人々を導くことが出来ます。主が喜ばれる賛美をささげることが出来ます。

 2009年3月にワシントン州でこういう事件がありました。教会から650万円が盗まれ、その犯人が見つかりました。62歳の教会員の女性でした。裁判において審問されると、「この窃盗事件はサタンが働いたのです」と彼女は言いました。彼女の弁解は間違ってはいません。確かにサタンが働いたでしょう。でも、聖書はヤコブの手紙の中で次のように書いてあります。
ヤコブ1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
 自分の罪をサタンのせいにしたり、神様のせいにしたりするのは間違いです。サタンは確かに私たちを誘惑しますが、罪を犯すのは間違いなく私たち自身なのです。

三、弟子の働き

 イエス様は、私たちを信仰から離れさせ熱心を奪い取ろうと誘惑するサタンの働きを知っておられるので、弟子たちに(マルコ、ルカ福音書では群衆にも語られている)次のように語られました。
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。
 10章38-39節の言葉とほぼ同じ内容です。二度、同じことを語っておられるのは、重要な内容であるからです。
「自分の十字架を負う」とは、「自分の問題や責任を抱えて」ではなく、キリストと同じように「人々の救いのために自分のいのちを捨てる覚悟をもって」という事です。それは、キリストのためにいのちを捨てることです。(ルカ9:24) その時に、キリストにあるいのちを見つけることが出来ます。キリストの弟子となるには、その決心が必要です。神にも富にも仕えることはできません。二心があっては、神様の栄光をあらわすことが出来ません。(ここでの論点はキリストの弟子として歩むかどうかという事であり、救われるか滅びるかという事ではありません)

 創世記の中でサラと同じ時代を生きた女性の中に、ロトの妻がいました。アブラハムの甥がロトで、彼の奥さんです。この夫婦は不道徳の町ソドムに住んでいました。神様はソドムの町を滅ぼすことを決められた時に、御使いを遣わし、彼らをソドムの町から救い出そうとされました。
創世記19:15-17 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。──【主】の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」
 しかし、逃げている途中でロトの妻は御使いの言葉に従わず、後ろを振り返ったので、塩の柱となってしまいました。彼女は神様の救いの言葉を軽く考え、自分が残してきたものを惜しんだからです。キリストの弟子は、ロトの妻のように御言葉に心を留めず、後ろを振り返るようであってはなりません。

マタイ16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
16:27 人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
 ここでの主イエスの言葉は、単にいのちの尊さを教えているのではありません。教会時代の始まりは迫害の連続でした。その中で信仰を持つことは本当に命がけでした。迫害の嵐の中で、イエス様のこの言葉は弟子たちにとって重い言葉でした。迫害を恐れて自分のいのちを救うために主イエスを否むなら、イエス様もあなたを否まれます。しかし、自分のいのちを捨てるなら、本当のいのちの恵みを得るのです。その人は報いに漏れることはありません。主の再臨の時に、必ず大いなる報いが与えられます。キリストにあってあなたが耐え忍んだこと、労したことは決して無駄ではありません。私たちが喜び踊るほどの報酬を神様は報いてくださいます。

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16:28 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
 この節の解釈は分かれています。
 @単純な解釈は、続く山上の変貌で三人の弟子たちがキリストの威光を見ることを預言した言葉だという解釈です。ペテロは手紙の中で次のように書いています。
Uペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

ただ、あまりにもすぐに起こる出来事のために、疑問が残ります。また、前節では再臨時の報いについて語られているので、関連がないようにも感じます。
 A次の解釈は、聖霊降臨による神の国(教会)のはじまりの時を指しているというものです。しかし、「人の子が…見るまで」と言われているので、この解釈も疑問が残ります。
 Bもう一つの解釈は、キリストを信じる者にとって死は無意味であるということを言っているとしますが、イエス様の言葉は「人の子が御国とともに来るのを見た後に死を味わう」のですから、この解釈は正しくないでしょう。
 従って@の解釈が最も適切な解釈と思われます。信仰者は死んだ後に神の国の栄光を見るのですが、死を味わう前に神の国の栄光を見る弟子たちがいる事を教えられたのです。それが山上の変貌です。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人はこの光景を見るのですが、イエス様は他の弟子たちと群衆には隠されました。(17:9)そのためにイエス様はあえて分かりにくい言葉で山上の変貌を予告されたと考えられます。後に、三人の弟子たちだけは、16:28の言葉は自分たちの事だと理解したはずです。