マタイによる福音書17章1-13節 「山上の変貌」 並行カ所マルコ9:2-13、ルカ9:28-36

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
 聖書は私たちに永遠のいのちがあると教えています。人間は死んで終わりではないと。天国と地獄と言えば簡単ですが、もう少し詳しく説明するなら、人間は死んだ後、その行ないに応じて裁きを受け、罪と定められた人は永遠に苦しみの場所で過ごします。罪赦されている人は永遠に祝福の中で神と共に住みます。
 聖書の言葉を信じない人は、「そんなことは死んでみないと分からない」と言うでしょう。確かに人間には自分の悟りによって死後のことを理解することは不可能です。しかし、聖書はこの世界が神によって創造されたと教えます。人間を造られ、愛され、導かれる神がおられることを教えます。その神が歴史の中で常に人間に対してご自身を啓示されて来られたので、私たちは神の存在を知ることが出来ます。そして神の啓示があるから永遠について、死後の世界について知ることができるのです。
 しかし、人は神の言葉に背き、自分勝手に生きてきました。一部の人だけが神の言葉を信じ、語り継ぎ、書き記して来ました。神様の最後のメッセージはそのひとり子であるイエス・キリストを遣わし、キリストによってメッセージを伝えられました。キリストは「神の言葉」となったのです。そしてキリストは人間の罪の身代わりとなって十字架に架かり、裁きを受けて死なれ葬られました。しかし三日目に墓の中よりよみがえり、十字架による救いの確証を与えられました。ですから十字架は罪の赦しのシンボルとなりました。キリストのメッセージは「信じて永遠のいのちを持ちなさい」という事です。永遠のいのちを持たないなら、どんなにこの世で有名になっても全世界の富を得てもそれは一時的であり、何の得もないのです。

 この永遠のいのちを与えるためにイエス・キリストは天から来られました。しかし、彼の生涯は暗く悲しいものでした。貧しい家庭で生まれ、人々から迫害され、弟子たちから裏切られ、みじめに十字架に架けられ死なれました。「神の子なのにどうして?」と思われるでしょう。当時のイスラエルの人たち、弟子たちでさえ、そのことに戸惑ったのです。彼らが信じていたメシアは、人々を苦しみから解放し、永遠の王として正義をもって支配するメシアでした。聖書に繰り返し預言されている「力と栄光に満ちたメシア」です。しかし、聖書は同時に人々の病と苦しみを背負い、罪の身代わりとなって苦しまれるメシアの姿も預言しています。旧約聖書には二つのメシア像が預言されていたのです。今、私たちはそれを理解することが出来ます。イエス・キリストはこの世界に二回来られるという事です。最初の来臨は人々の罪の身代わりとなって死なれるメシアとして。二回目は栄光の王として再臨されるのです。今朝の聖書箇所はメシアとして来られたイエス様の真実の姿を見ることが出来ます。山上の変貌と呼ばれる個所です。

@場所
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

 ピリポ・カイザリヤを離れ、イエス様と弟子たちは高い山へ登ります。目的は祈るためです。(ルカ9:28) この山は伝説ではガリラヤにあるタボル山(標高560m)と言われてきましたが、現在ではヘルモン山であると考えられています。ヘルモン山は標高は2,814m。ガリラヤ湖から北に約60キロ行った所にあります。イスラエル12部族に割り当てられた地の最北端に当たります。主イエスと弟子たちはこの山から南へ行き、ガリラヤ→サマリヤ→ペレヤ→エルサレムを目指すことになります。この場所でイエス様はご自身の本来の姿を現されます。その姿はまぶしくて直視できないほどの輝きでした。
(タボル山を支持するのは、ルカ9:37で「次の日」に彼らは山を降り、弟子たちと群衆と律法学者たちがいる町へ着きます。その場所は明記されていませんが、律法学者たちが異邦人の町まで追って来たとは考えられませんので、ガリラヤ近辺だと考えます。ヘルモン山からガリラヤ湖近辺まで翌日到着することは難しいですから、ガリラヤのタボル山ではないかと考えるのです。)

Aペテロとヤコブとヨハネ
 イエス様は12弟子の中でも特にこの三人の弟子たちを御そばに置かれました。ヤイロの娘をよみがえらせた時、ゲッセマネの園での祈りの時にもこの三人だけは近くまで連れて行かれています。
マルコ5:37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
マタイ26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

 彼ら三人が選ばれたのは後の教会時代において指導的役割を持つからでしょう。(福音書を書かせる目的であるならマタイも選ばれたはずです。また、使徒ヨハネは山上の変貌について彼が書いた福音書の中で触れていません)
参照;ガラテヤ2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。※この節で語られているヤコブはイエスの兄弟のヤコブだと思われます。使徒ヤコブは早くに殉教(使徒12章)するからです。パウロとバルナバに交わりのしるしとして右手が差し伸べられたのが、使徒11:30のパウロとバルナバがエルサレムへ献金を携えて上った時と考えるなら、使徒ヤコブはまだ生きていますので、彼だと言えます。しかし、パウロとバルナバが異邦人宣教に遣わされるのは使徒13章に入ってからです。またエルサレム教会の指導的立場は早くから主の兄弟ヤコブにもあったようです。(使徒12:17、15:13参照) そう考えるなら、使徒ヤコブをイエス様が山に連れて行ってご自身の栄光の姿を見せられたのは、彼が12使徒の中で最初に殉教する弟子であるがゆえの主のあわれみだと思います。

Bイエスとモーセとエリヤ
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
 モーセとエリヤは旧約聖書を代表する二人です。モーセはエジプトで苦しむイスラエル人を解放して導き、シナイ山にて神様から十戒の板を預かりました。エリヤは預言者で天から火を下すしるしを行った大預言者です。

C会話の内容
 モーセとエリヤが現れ、イエス様と何について話していたのでしょうか?・・ルカ福音書9:31で記されています。
ルカ 9:31 栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
 彼らはイエス様がこれからエルサレムへ上り、父の御心にしたがって十字架に架かり、死なれ、三日後によみがえる、そのことについて話し合っていたのです。「ご最期」と訳されている語は、ギリシャ語で「エクソドス」で、元の意味は、「出ていくこと、〜から出発すること」を意味します。転じて最期という意味になりました。旧約聖書の出エジプトの書簡名がこの言葉です。(※ヘブル語聖書の書簡名は違います) イスラエルをエジプトから脱出させたモーセが目の前にいて、イエス様のエクソドスについて話していたのです。考えてみるとイエス様とモーセには多くの共通点があります。
・モーセは父なる神と顔と顔を合わせて話をしました。イエス様は神のひとり子として父なる神の顔を見ていました。
・モーセは神の栄光によってしばらくの間、顔から光を放ちました。それは神の栄光の反射でした。イエス様の顔は太陽のように輝きました。それはご自身の内から出る光です。
・モーセはイスラエル人をエジプトの支配から解放しました。イエス・キリストは人々を罪の支配から、サタンの支配から解放するのです。
・申命記の中で父なる神様が、モーセの様なもう一人の預言者を起こされることが約束されていました。それはイエス・キリストのことでした。
申18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
申 34:10 モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を【主】は、顔と顔とを合わせて選び出された。

 預言者エリヤについて言うなら、彼はイエス・キリストが来られる前に現れることがマラキ書の中に預言されていました。
マラキ3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の【主】は仰せられる。
マラキ4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。


 「最期」と言うことばに注目するなら、モーセもエリヤも特別な最期を経験した人たちです。そしてこの後イエス様も特別な最期を迎えられます。その三人が集まり、イエス様の最期について話し合っていたのです。
預言者エリヤ→申34:6 主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。
モーセ→U列王2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。

Dペテロの思いつき
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
 ペテロたちはあまりにも神々しい光景のため、恐れました。気が動転していました。ペテロは何を言っていいのか分からず、とっさに「幕屋を造りましょう」と提案しました。それは彼らと共にもっと長く居たいという願いと、何かしてあげたい、もてなしたいという思いからだったでしょう。また、モーセを前にして幕屋礼拝が思い出され、彼らを礼拝したいという気持ちから幕屋を作ると言い出したのかもしれません。しかし、彼らが居た場所は町から遠く離れた高い山の上でした。三つの単純な天幕を作るにしてもどれだけの日数がかかるでしょう。まして神の栄光によって輝く彼ら三人を天幕に留めておくことなどできるはずもありません。

E天からの御声
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。

 ペテロがおせっかいな申し出を語り終える前に(お構いなしに)、光り輝く雲がイエス様たちを包み、見えなくなりました。「雲」は旧約聖書時代、神の臨在がこの地上に示される時に現われるものです。
出40:34-35 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
 そして、父なる神様からの声がありました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」 イエス様が水のバプテスマを受けられた時にかけられた言葉と同じですが、ここでは「彼の言う事を聞きなさい」が付け加えられています。それは弟子たちに向けて語られた父なる神様の言葉です。父なる神からの直接の命令です。これは私たちにも語られている言葉として受けとめましょう。イエス・キリストの言うことを聞いて従う・・・それがクリスチャンに与えられた責任です。

17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。
 もし、ペテロたち三人がこの光景を吹聴するなら、群衆はイエス様を王にしようと再び担ぎ上げたことでしょう。しかし、それは父なる神様の御心ではありません。キリストを十字架抜きで支配者にしようとすることはサタンの思惑です。ですから、この時点では彼らが話すことを禁じられたのです。
 
 イエス様はこの場所から南へ進んで行かれ、エルサレムへの道を歩まれます。そこで十字架に架かり、死んで葬られ、三日目によみがえられます。ペテロたちは復活したキリストを自分の目で見て、証人として働きます。ペテロは後に、キリストの山上の変貌について次のように証ししています。
Uペテロ1:16 私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。
1:17 キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」
1:18 私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

 私たちも将来、彼らが見た光景を見ることが出来ます。その時まで、神様の命令は「彼の言う事を聞きなさい」です。イエス・キリストの言葉を聞いて、従いましょう。

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F弟子たちの疑問
 弟子たちはイエス様が死からよみがえるという事はどういう事かを論じ合いました。世の終わりのことを言っておられるとしか理解できなかったのでしょう。しかし、その前にエリヤが来ると言われているのはどうなるのか?と疑問に思いました。(マルコ9:10) 今、彼らが見たエリヤのことだったのか?とも考えたでしょう。
17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

 イエス様はバプテスマのヨハネがエリヤとして来たことを明らかにされました。しかし、イスラエルの王ヘロデがバプテスマのヨハネを処刑したため「エリヤが来てすべての事を立て直す」という預言は成就しなかったことになります。そのためメシアとして来られたイエス様も殺されるのだというのです。しかし、聖書の預言は必ず成就するのです。「エリヤが来てすべてを立て直す」という預言は必ず成就しなければなりません。それでエリヤが再び来ることを新約聖書は黙示録の中で預言しています。(黙示録11:3に登場する二人の証人の内、一人は働きやしるしから見てエリヤである可能性が高いでしょう)その時にエリヤがすべてを立て直します。その意味は、イスラエルに霊的リバイバルをもたらすという事です。そして彼の後に再びイエス・キリストが来られます。その時にはイスラエルの王として、全世界の支配者としてキリストが君臨され、すべての王国預言は成就することになります。