マタイによる福音書17章14-23節 「山を動かす信仰」 並行箇所マルコ9:14-32、ルカ9:37-45

1.残された弟子達

 イエス・キリストとペテロ、ヤコブ、ヨハネは高い山へ登っていました。他の9人の弟子たちは山の麓で待っていました。(場所についてはピリポ・カイザリヤや、ベツサイダが考えられますが、確定できません。イエス様たちは次の日に降りてきているので【ルカ参照】ヘルモン山からガリラヤまで戻って来たとは考えにくい。ピリポ・カイザリヤと考えるなら、律法学者たちがそこまでやってきたかが疑問です。イエス様たちが登られた山がヘンモン山であったと特定されてはいないため、これ以上の議論は難しい。)
 9人の弟子たちは、ただ座って待っていたのではなく、おそらく彼らの元に群衆が集まり、病人たちを連れてきたのでしょう。しかし、一人の病人だけはどうしても直せませんでした。また、マルコ福音書によると、律法学者たちもやって来て、彼らと色々論じ合っていました。(マルコ9:14) 山の麓に残った弟子たちにも信仰の訓練が与えられていました。

@弟子たちの落胆と疑問
17:14 彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。
17:15 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。
17:16 そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」
 9人の弟子たちのもとに連れて来られた息子は、悪霊に取りつかれ、てんかんの症状があらわれていました。他の福音書を参照すると、さらに詳しいことが分かります。
・この息子は一人息子であり、悪霊により聾唖者となっていた。・彼の症状は、叫び、火や水の中に入って転げ回り、引き付けを起こし、泡を吹き、体をこわばらせた。・幼い時から長い年月が経っていた。そのような息子を持った父親の悲しみと苦労、そして父親の必死の願いが伝わってきます。
 弟子たちには主イエスによって悪霊を追い出す権威が与えられていましたが(マタイ10:1)、この悪霊を追い出すことが出来ませんでした。その所へイエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネを伴って山から降りてきました。

 イエス・キリストが山から降りてきたときに見た光景は、モーセがシナイ山に登って十戒の板をいただき、山を降りてきたときの光景と重なっているのではないかと思います。モーセが山に登っている間、イスラエルの民は不安になり、金の子牛を造り、偶像礼拝を始め、堕落しました。神の人モーセがいないとすぐに不信仰に陥ったのです。おそらくイエス様と三人の弟子達が山へ行っている間、残された9人の弟子たちに同じことが起こったのだと思われます。自分たちは一緒に連れて行ってもらえなかったことに不平不満を言い出したでしょう。そんな心の状態ですから、病気の人が連れて来られても悪霊を追い出せない。彼らは落胆し、イライラが募り、不信仰に陥ります。その時に追い打ちをかけるように律法学者たちが来て彼らを非難し、イエス・キリストの悪口を言い、「安息日を守らず、取税人や遊女と一緒に食事をするような人がメシアであるはずがない」「あなたがたが本当のメシアの弟子なら、なぜ悪霊を追い出せないのか?」と迫り、弟子たちに疑いを持たせたことでしょう。弟子たちは彼らの質問に答えることが出来ず、増々不信仰に傾いて行った・・そんな光景が浮かんできます。イエス様から離れた弟子たちはみじめでした。
 イエス様を離れては、私たちの信仰はみじめです。崩れてしまいます。平安が無くなってしまいます。疑うようになります。そして堕落します。暗闇の生活に戻ってしまいます。

A悪霊の働き
 この聖書箇所に登場する息子の病気は悪霊の働きであるとされています。この時代、悪霊は人の中に入り、その人を病気や障害者にしました。現代においては医学の進歩と共に、悪霊の働きは変わってきたと思われます。人に取りつくより、人の考えの中に働いているように感じます。悪霊は人が神を信じないように働きます。聖書は神様が造られた素晴らしい人間、地球や宇宙など、被造物を通して神の存在を知ることが出来ると教えていますが、悪霊は、天地万物は神の存在を否定していると教えようと働いています。その一例が進化論です。人間は神が造られたのではなく、微生物からの進化だと教え、あたかもそれが証明された真理であるかのように教えています。進化論は、偶然にいのちが誕生し、偶然が重なって進化し、突然変異で人間が生まれたとするのです。
 パスツールというフランスの生化学者、細菌学者の実験は、すべて殺菌したところには、微生物は繁殖しないという事を証明しました。それは生命は生命からしか発生しないことの証明です。
※彼が考案した、塵が入らないように工夫した「白鳥の首フラスコ」(いわゆるパスツール瓶)を使うと、煮沸して放置した肉汁は腐敗しないことを示しました。このことから、腐敗した肉汁の微生物はすべて外界からの混入によるものであり、“生命は生命からのみ生まれる”という説を証明しました。
 しかし、無神論を信じる生物学者らは、パスツールの実験は地球の古い環境を再現したものではなく、時間軸を加味していないので、正確な証明にならないと言います。しかし、どんな環境であっても、どんなに時間をかけても生まれないものは生まれません。生物学では無生物質から有機物質が生成され、複雑な化合を重ねて生命が誕生したと仮定しています。しかし生命が発生する過程は、自然、実験の両方で、観察、再現されていません。また理論的にも、決定的な解答はありません。
 無神論の生物学者が言っていることは、ネジや歯車、ばね、ガラスなどを箱に入れ、それを振り回していたら、時計がいつか出来上がる、という事と同じです。確率の問題として考え、何十億年という長い時間を設定し、時間だけで足りないので、宇宙全体を含めて範囲を広げて可能性を高め、いのちは自然に誕生する可能性がある、と言っているのです。神の存在を信じたくない人は、そのような無茶苦茶な理論を掲げて、進化論が正しいと説明します。彼らは賢いのですが、「私の父はエイリアン(異星人)であり、私の母はミュータント(変異体)です」と言っているのです。私はそんな空想科学を信じるより、「神様が人間を形造られた」という聖書の言葉を信じます。神様が組み立てられたプログラムは、男と女が結婚をして一つとなるというものです。人間の卵子と精子が合わさって一人の人間が生れてくるというプログラムです。その最初の人間を神様が創造されました。人間のDNAにはこの基本プログラムが組み込まれていて、それは何十億年経っても変化することも進化することもありません。種を超える変化は起こらないとされる現在では、進化論こそ非科学的なのです。
 また進化論は、「人間は偶然に生まれた。神などいない。」と宣言する事によって、人間から命の尊厳と生きる目的を奪い取っています。偶然に生まれたなら、生きる目的はありません。人間の価値は蟻一匹の価値と変わらないものになってしまいます。その結果、自分には生きる目的はないと考え、自暴自棄に陥り、自分を死に追いやってしまいます。悪霊はそうして人を滅びへと導いているのです。どうか悪霊の働きに惑わされないようにしてください。

二、イエス様の叱責

17:17 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」
17:18 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。
 イエス様のイライラした姿を初めて見るような場面です。ここもイエス・キリストとモーセの姿が重なっています。モーセは十戒を受け取り、シナイ山を降りてきた時、堕落したイスラエルの民を見ました。モーセは怒り、大切な神の指で切り取られた十戒の板を投げ捨て、打ち砕きました。その場面と似ています。イエス・キリストは、弟子たちの不信仰、父親の不信仰(マルコ9:23)、律法学者たちの不信仰を嘆き、そして悪霊の働きに怒っておられるのです。「いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」・・主イエスの怒りの言葉です。そしてたちどころに息子から悪霊を追い出し、癒されます。弟子たちはイエス様の怒った姿にうろたえていたのでしょう。「そっと」イエス様の元に来て質問します。
17:19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

 主イエスの答えは「あなたがたの信仰が薄いからです。」と一刀両断です。「信仰が薄い」はオリゴピステというギリシャ語がここでも用いられています。「小さい信仰」のゆえだと言われました。「まことに」は「アメーン」と言うギリシャ語です。

三、山を動かす信仰

「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」
 はじめてこの言葉を聞く人は、誰もが「キリストは変なことを教えているな〜、そんなことが出来るはずがない」と思われるでしょう。新聖書注解では、この節の解釈として次のように書いています。
 「山を移す」とはユダヤ人の慣用句で「困難な問題を解決する」の意。ユダヤ人は聖書の難しい個所を解明することのできるラビを「山を移す人」と呼んだ。(新聖書注解)
 そう考えるなら、理解しやすいでしょう。信仰があれば、どんなに大きな問題であっても解決することが出来ることをイエス様は教えられています。アーメンです。それも、からし種ほどの小さな信仰で十分だと教えられました。したがって、9人の弟子たちの信仰はからし種ほどの信仰にも満たなかったことになります。自分たちだけ山の麓の残されたことを不満に思い、疑い始めていたからでしょう。21章21-22節でも同じような言葉を主イエスは語られています。
マタイ21:21-22 イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
 ここでは「疑うことがなければ」が加えられています。かつてペテロが湖の上を歩いておぼれそうになった時に
マタイ 14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
と言われたように、疑いが信仰をダメにしてしまうことをすでに学びました。

 ただ、「疑うこと」は悪であるかと言えば、そうではありません。疑う事をせずに盲目的にキリストを信じなさいと言うのではありません。私たちは真理を知るまでは、疑問を持ち、それが本当がどうかよく調べなければなりません。聖書のことばを信じていいのか?キリストは本当によみがえったのか?疑問を持ち、調べなければなりません。そして「聖書には間違いがない。イエス・キリストは本当によみがえられて救い主として来られた方だ」と理解し、信じたなら、それからは疑うな!という事です。「信じたなら、疑うな!」なのです。
ヘブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 イエス様は弟子たちに「信仰があれば、どんなことでもあなたがたに出来ないことはありません」と言われ、弟子たちを励まされます。それは神の御心に適う祈りは必ず聞かれるという信仰です。信仰は勝利と言われる理由です。
ヤコブ5:17-18 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
 イエス様が語られた「山」とは、実際の山を指しておられるかもしれません。私たちが自分勝手な解釈で、イエス様の言葉の価値を引き下げてはいけないでしょう。しかし、私たちの前に立ちはだかる大きな問題は、本当に山のように思えます。この山を動かす信仰を持ちたいと思います。「山を動かす信仰を与えてください」と祈りましょう。疑わないで信じ続ける者となりましょう。
参照聖句;Tコリント13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
------------------------------------------------------------
17:21 〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」
 この節は写本の問題があります。マルコによる福音書に記されているものを後代の人が付け加えたと考えられています。
17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

 弟子たちに対して二度目の十字架とよみがえりの予告になります。これからエルサレムへ向けて進んでいかれるイエス・キリストの決意の表明です。弟子たちはこの時点で、よみがえりについては無理解だという事が分かります。