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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書17章22-27節 「主の湖には備えがある」



1.受難とよみがえりの予告


17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。
17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。
 ガリラヤへ戻られると、イエス様は受難とよみがえりについて再び弟子たちに予告されました。これからエルサレムへの旅が始まるという意思表明です。ガリラヤをイエス様はスタート地点に選ばれました。ご自身が育ち、伝道を続けられた場所です。神の御子として来られたキリストは、贖いの死を遂げるためにエルサレムへの道を歩み始められます。弟子たちは主の言葉を聞いて悲しみました。彼らには理解できなかったからです。彼らは恐れ、そのようなことがないようにと願ったことでしょう。(最後の過越まで、あと半年くらいの時と思われます。五千人の給食が一年前の過越の直前でした。ヨハネ6:4)

2.宮の納入金



17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人たちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
 マタイだけが宮の納入金の記事を記しています。マタイ自身が元、取税人だったので、彼にとって関心のある出来事だったからでしょう。場所はガリラヤのカペナウムです。カペナウムにはペテロの家がありました。(8:14)おそらくイエス様たちはペテロの家に滞在されたのでしょう。取税人がやってきてペテロに質問しました。

※宮の納入金とは、エルサレム神殿の維持管理のために20歳以上のイスラエルの男子が年に一度、納めることになっていました。出エジプト記で、自分の贖い金として半シェケル(ユダヤ通貨の二ドラクマと同じ価値)を奉納することが定められています。(出エジプト30章11-16参照)ヘロデ大王によってエルサレム神殿が大改築(BC20年)されてからは、宮の納入金として厳守されたようです。


 新改訳聖書では「宮の納入金」と訳されていますが、ギリシャ語では「二ドラクマ」という金額で書かれています。ドラクマはギリシャの通貨です。当時の人には二ドラクマと言えば、宮の納入金として周知されていたのでしょう。1ドラクマは1デナリ(ローマ通貨)と同じ価値で、一日の労働者の賃金ほどですから、1万円位とすると、宮の納入金は約2万円です。過越の祭の前が納入時期でしたが、すでにその時期は過ぎていたため、取税人がやってきたようです。
 「あなたがたの先生は、宮の納入金を納めないのですか。」
 ペテロの納入金については触れず、あなたがたの先生は?と質問しています。ペテロはイエスの弟子と知られていましたから、「あなたがたの先生は納入金を納めないように教えているのか?」という事です。つまり、「モーセの律法を守らないのか?」と言う質問です。ペテロの答えはギリシャ語で「ナイ」と言う返事でした。その意味は英語の「Yes」で、「はい、納めます」と答えたのです。ペテロはイエス様の意見も聞かずに勝手に答えています。もし「納めない」とイエス様が言われたら、面倒なことになると察したのでしょう。

3.イエス様の答え

 イエス様はご自分から話を切り出されました。勝手に返答をしたペテロを咎めることもされず、真理を教えられました。
17:25 彼は「納めます」と言って、家に入ると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからですか。」
17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。
17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」



 イエス様がペテロに教えようとされているのは次の二つの事です。
@イエスは神の御子である
 王様は自分の子たちから税金を集めない---そうなら父なる神様も子であるイエス様から神殿の税金を集められない。エルサレム神殿はイエス様の父の家なのです。

 イエス様が12歳の時、次のような出来事がありました。
ルカ2:41 さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
2:42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、
2:43 祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
2:46 そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真ん中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず
自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
 エルサレム神殿は自分の父の家だと言われています。神の御子であるなら神殿の税金を納める必要はないと教えられました。

Aつまずきを与えないことを優先
 しかし、イエス様は「つまずきを与えないために納入金を納めなさい」と言われました。本来は納める必要のないお金だと教えながら、人々をつまずかせないことの方を選ばれたのです。18章に入っても、つまずきを与える人はわざわいだと教えられています。このことは新約聖書の中で一貫した教えです。

※パウロは神様が与えられた食物は何でも食べてよいと確信していました。偶像にささげられた肉でも、偶像の神などいないのだから食べても大丈夫だと。しかし、それを見てつまずく人がいるなら、偶像にささげられた肉は食べてはいけないと教えました。
Tコリント10:27 もし、あなたがたが信仰のない者に招待されて、行きたいと思うときは、良心の問題として調べ上げることはしないで、自分の前に置かれる物はどれでも食べなさい。
10:28 しかし、もしだれかが、「これは偶像にささげた肉です」とあなたがたに言うなら、そう知らせた人のために、また良心のために、食べてはいけません。
10:29 私が良心と言うのは、あなたの良心ではなく、ほかの人の良心です。私の自由が、他の人の良心によってさばかれるわけがあるでしょうか。
10:30 もし、私が神に感謝をささげて食べるなら、私が感謝する物のために、そしられるわけがあるでしょうか。

※クリスチャンにとって割礼は無意味だとパウロは信じていました。しかし、テモテを連れて旅をするために彼に割礼を受けさせました。
使徒 16:3 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。

 一人の中学生の男の子がイエス様を信じました。しばらくして「バプテスマを受けたい」と牧師に願いました。牧師は「ご両親に証しのためにバプテスマを受けたいと話しなさい」と指導しました。中学生の男の子は言われたとおり、家に帰って両親にクリスチャンになった事とバプテスマを受けさせてほしいとお願いしました。すると、その子の両親は大反対して、バプテスマどころか、教会へも行くなと怒りました。男の子は泣きながら牧師に相談しました。「僕はどうしたらいいでしょう?」 牧師は悩んだすえ、「ご両親がいいと言うときまで、教会に来てはいけません」と告げました。「神様がご両親の心を変えてくださるように祈りなさい。」とも言いました。

 このような判断はとても難しいことです。バプテスマを受けることも礼拝出席も明らかな神様の御心です。しかし、両親の反対を押し切って行なう事はつまずきを与えることなります。教会は子供たちに、「親の言う事を聞くな」と教えていると言われるでしょう。もし、偶像を拝めと言われるなら従う必要はありません。イエスを信じるなと言われるなら、従う事は出来ません。しかし、バプテスマは将来受けることが出来ます。礼拝出席も、親元を離れるときにはできるようになります。私たちが忍耐することによって、つまずきを与えないで済むことなら忍耐することを選ぶのです。しかし、父なる神様に祈ることは誰にも止めることはできません。私たちに与えられている救いを誰も奪い去ることはできません。どんな被造物も主イエスの愛から私たちを引き離すことはできません。

4.魚からコイン

 イエス様はつまずきを与えないために、納入金を納められました。しかし、ユニークな方法を採られました。
「湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

 ガリラヤ湖で釣りをして、最初に釣れた魚の口に一枚のスタテル硬貨(ギリシャ通貨)が入っていると言われました。それは二人分の納入金の金額でした。どうして魚からコインなのでしょう? 財布から出してもよかったでしょう。ペテロに立て替えておいてくれと頼むこともできたでしょう。イエス様ならコインをすぐに出すこともおできになったでしょう。どうしてわざわざ魚釣りに出かけて魚の口からスタテル硬貨を出すというユニークな方法なのでしょう?

 ペテロも「どうして?」と思ったでしょう。それでも言われたとおり、彼は魚釣りへ行きました。元漁師ですからお手の物です。魚を釣り上げ、「魚の口にコインがあるはずがないじゃないか・・・」と言いながら、魚の口を見ると「本当だ!」と驚いたことでしょう。「魚からコイン」は、漁師であったペテロのためのしるしでした。このガリラヤ湖でペテロはまたも信仰の訓練を受けたのです。「主イエスが語られた言葉は必ず実現する」と。

 信仰の父アブラハムを通して言われたことは「主の山には備えがある」でした。そして、信仰の創始者であるイエス・キリストを通して教えられたことは「主の湖には備えがある」でした。

 ガリラヤ湖へ旅行に行く機会があるなら、ガリラヤ湖をながめながら、ぜひセント・ピーターズ・フィッシュ(聖ペテロの魚・ティラピア)を食べてください。そして、主イエスが行なわれたしるしの数々を思い起こしてください。