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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書18章1-14節 「つまずきを与える人」



1.誰が一番偉いか?


18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 イエス様と弟子たちの一行が、カペナウムへ向かう途中(マルコ9:33)、弟子たちの間に「誰が一番偉いだろうか」という議論がわき起こりました。そのきっかけは、

@前章でイエス様が三人の弟子だけを連れて高い山に登られ、栄光の姿を現されました。三人の弟子たちは山上で見た光景をしゃべることを禁じられたので、他の弟子たちから聞かれても何も答えなかったでしょう。当然、他の弟子たちは変に勘ぐったことでしょう。

A宮の納入金の件では、ご自分とペテロの分だけをイエス様は支払われました。これも他の弟子たちにとっては不満の種となったことでしょう。

Bイエス様が十字架と復活を予告されたときに限って、弟子たちの間で「誰が一番か」という議論が持ち上がりました。(マタイ20:17〜、ルカ22:24〜最後の晩餐の席で) 弟子たちは、イエス様がもうすぐユダヤ王国を再建して王となられると信じていたからです。そして、すべてを捨ててイエス様に従ってきた自分たちも共に高い地位に着けるはずだと考えていました。

 弟子たちの質問は「イエス様が支配される王国では、私たちの中で誰が一番になりますか?」という事です。彼らの関心は、王国で誰が右大臣左大臣になれるかであり、興味津々でした。

18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
18:5 また、だれでも、このような子どものひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

18:10 あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。




@天の御国に入れない
 主イエスは、「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には入れません」と弟子たちに釘を刺されました。誰が一番どころではなく、悔い改めなければ天の御国に入ることすらできない、と厳しく教えられました。事実、弟子のひとり、イスカリオテ・ユダは脱落してしまいました。

A自分を低くする者
 「誰が一番偉いのか?」という問いに対して答えられました。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
 小さい子供は、自分が一番偉い人間だなどと思わないでしょう。幼いうちは地位とか名誉に関心もありません。イエス様はそういう心の人が天の御国では一番偉い人だと教えられました。

 ルカによる福音書では次のように書いてあります。
ルカ9:48 「あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」
 社会の中でも本当に尊敬される立派な経営者と言う人は、率先して仕事に取り組み、社員が仕事をしやすいように職場を整備し、必要なものを提供し、社員とその家族の生活まで心配してくれる人でしょう。肩書に溺れた高圧的な経営者は、嫌われることはあっても尊敬されることはありません。キリストの教えは教会の中だけでなく社会の中でも大切な教訓です。そして強い人、力ある人は、小さい人、弱い人を受け入れなさいとも命じられています。

※「天の御国」という言葉には、「神が御支配される場所」という基本概念があります。そのため「天の御国」が意味するものは「メシア王国」だけでなく、「天国」、「教会」、及び「聖霊が宿る信仰者の内側」などを指す場合があります。イエス様はそれらを使い分けられたり、「神が御支配される場所」という基本概念で話されたりしています。

2.つまずきをもたらす者はわざわいだ

18:6 しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 つまずきを与える人を厳しく責めているのは、人の永遠のいのちに関わることだからです。つまずかせることは人を地獄へ陥れることと同じです。だから私たちは、イエス様の元へ連れて来られる子どもたちを妨げてはいけません。信仰の弱い人をさばいて、つまずかせてはいけません。
 教会に身なりの良い人と浮浪者が一緒に入ってきたときに、身なりの良い人にだけ話しかけて、浮浪者の人には話しかけないとしたら、つまずきを与えているのです。

 主イエス様のメッセージの中心は「つまずきをもたらす者はわざわいだ。」です。幼い子供たちや、体の弱い人、立場の弱い人、信仰の弱い人を見下し、つまずかせるような人はわざわいです。「誰が一番だ」などと言う人は、わざわいです。

18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 この教えは、自分自身に目を向けなさいという事です。もしあなたをつまずかせる悪い習慣や、誘惑となるものがあるのなら、すぐに捨てなさいと命じられています。手足がつまずきの原因だと分かっているなら、切って捨てなさい。目がつまずきの原因なら、えぐり出して捨てなさい――極端な教えですが、永遠の地獄へ行く事に比べるなら、取るに足らないことです。あなたをつまずかせ、地獄へ追いやるものが分かっているなら、激しい痛みを伴ったとしてもすぐに捨てるべきです。

3.迷い出た羊を救う




 主イエスは続けて、つまずいた人を救い出す働きについて話されています。
18:12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
18:14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 イエス様はユダヤ人にとってなじみの深い羊飼いのたとえで話されました。羊が迷ってしまったとき、羊飼いは必ず探しに出かけます。「たった一匹くらいどうでもいいや!」と言って、放っておくことはしません。探し歩いて見つけたときは大喜びです。同じように小さい者が迷い、つまずいて滅びることは神様の御心ではありません。つまずいている人を立ち直らせることは神様の御心です。それは一人の魂を滅びからいのちに導く尊い働きです。

 
「もし、地球上で罪人があなた一人だけだったとしても、イエス・キリストは天の栄光を捨てて降りて来てくださり、あなたの罪の身代わりとなって十字架に架かり、死んでくださったでしょう。そして世界中で救われていないのがあなただけであっても、父なる神様は救いの確証のためにイエス・キリストを墓の中からよみがえらせてくださったでしょう。」

 あなたは神様にとってかけがえのない存在です。そしてあなたが尊い大切な人であるのと同じように、あなたの隣に座っている人も神様が愛されている大切な人です。幼い子供たちもそうです。

 「誰が一番偉いのか?」などと言って競い合うことを止めましょう。それはむなしいことです。つまずきを与えないでください。どうしても競いたいなら、どれだけ皆の人々に仕えれるかを競いましょう。生涯、仕え続けた人には朽ちない冠が用意されています。(1コリント9:25)
 今日、主イエス・キリストの御言葉を受け取り、へり下って仕える者となりましょう。

18:11 〔人の子は、失われている者を救うために来たのです。〕 
※この聖句は後代の人によって付け加えられた可能性が高いのですが、この聖書箇所にふさわしい言葉になっています。