マタイによる福音書18章15-35節 「一万タラントの借金」 並行箇所ルカ17:3-4

 「天の御国では誰が一番偉いのですか?」という質問に始まったカペナウムでの主イエスの説教は、「子どもたちのようにならないかぎり、決して天の御国には入れません。」と語られ、そして、「小さい者たちにつまずきを与える者はわざわいだ」と教えられました。「決してつまずかせるな!」と言われると、私たちは人と関わることを避けようとします。兄弟が罪を犯しても知らないふりをします。教会内の問題から目をそむけます。罪を明らかにし、責めると兄弟姉妹がつまずくと思うからです。しかし、それは神の御心ではありません。今日の箇所は「罪を犯した兄弟を責めなさい!」と教えます。厳しいと思われるかもしれません。しかし、見て見ぬふりをすることは神が嫌われる事であり、罪を犯した人を正しい道に立ち返らせることは神様の御心です。つまずいた羊を助けることと同じように、罪を犯した羊を立ち直らせる働きは尊い働きです。

一、兄弟が罪を犯した時

18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
※責めなさい;別訳では「忠告しなさい」「さとしなさい」
 @まず二人だけのところで
 兄弟が罪を犯したことを知った時や、兄弟があなたに対して罪を犯した時に、兄弟の罪を公表することは極力避けるべきです。それは陰口となり、よくないことです。牧師のところへすぐ相談に行き、「あの兄弟はこんなことをしているのですよ」と告げ口する人がありますが、それは正しい事ではありません。もし、兄弟のことを思い、立ち直ってほしいと願うなら、まず、直接その兄弟のところへ行って忠告すべきです。忠告して、聞き入れたら、「あなたはその兄弟を得たのです」と教えられています。主にある兄弟としてさらに深い絆で結ばれるという事です。忠告するにしても、兄弟に文句を言うだけなら、あなたが罪を犯すことになります。兄弟を立ち返らせたいという願いがないなら、兄弟を責める権利はあなたにありません。愛に基づく行動だけが承認されるのです。

 Aほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
 もし、兄弟が聞き入れないなら次の段階です。他に一人か二人を連れて行くのは、証人として事実が明らかにされるためです。これはモーセの律法に次のように書いてあることが根拠となっています。
申命記19:15 どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。
 寄ってたかって兄弟の罪を責めるためではありません。当事者同士では感情的になりやすく、言い争いになってしまうことが多いでしょう。それを避けるために、証人を伴って事実をはっきりさせるためです。

 B教会に告げなさい
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
 それでも聞き入れないなら、最後の段階です。教会の前でその罪を明らかにし、兄弟が悔い改めるように責めます。教会の言うことさえ聞かない場合は、異邦人か取税人のように扱えと教えられています。交わりを持つことを止めるのです。それが実際に地方教会で行われる場合は、除名処分となります。それは罪を犯した兄弟を切り捨てるためではなく、彼が教会に集えなくなったことによって悲しみ、自分が犯した罪を悔い改めるためです。兄弟が悔い改めて、再び教会の門をたたくなら、教会はいつでも彼を喜んで受け入れる用意をしているべきです。除名された兄弟のために祈り続けることが必要です。
※除名された人が、すぐにほかの教会へ集うようになることがありますが、正しい事ではありません。教会は他の教会で除名された人を受け入れてはいけません。真実に彼が悔い改めたのであれば、母教会に戻るべきだからです。(教理的な意見の違いによって除名された場合は別です)

 ※「教会」エクレシア;四福音書中、マタイ18:17と16:18のみ用いられています。語源はギリシャにおいて、呼び集められた市民の集まりを指す言葉でした。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳で、イスラエルの会衆を指す言葉としてエクレシアが用いられました。「教会」と言う日本語は意味としては正確ではなく、「会衆」「集会」「召会」などの方がふさわしいですが、教会という言葉は日本語で定着していますので、そういう事も含めて教会が教えていけばよいと言えるでしょう。ただし、「洗礼」という言葉は礼典に関わることで、教理的な間違いを含んでいますから、新改訳聖書等では「バプテスマ」あるいは「浸礼」という言葉を用いています。
 この18章の説教で主イエスは「イスラエルの会衆」ではなく、教会時代における「教会」のことを念頭に置いて語られていると思われます。なぜなら、教会時代が目前に迫っていたからです。

18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
 イエス様は教会についてさらに教えられます。これはペテロに語られた言葉と同じです。イエス様はペテロに使徒としての権威を与えられましたが、ここでは他の使徒たち、及び教会の権威にも言及されていると考えられます。つまり、地方教会にもつなぐ権威、解く権威を与えられていると解釈できます。それは禁止すること、許可することです。教会は主イエスから与えられたこの権威によって兄弟姉妹を除名したり受け入れたりすることが出来るのです。教会にこの権威が与えられていないなら、「兄弟姉妹を切り捨てるひどい教会だ」と非難されるでしょう。

C主が共にいてくださる
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

 この聖句だけが取り出されて語られる場合が多いですが、主が語られた本来の意味は、「罪を犯した兄弟を悔い改めに導き、立ち直らせるために、二人、三人で集まり、心を一つにして祈り、忠告することは、神様の御心です。その時に神の義が示され、主の臨在の中で兄弟を立ち返らせることができるのです。」と言う意味です。問題を解決することを願って集まり、祈ることが求められています。その時、神様の特別な祝福があります。

二、何度まで赦すべきか?

18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。

@当時のラビたちが教えていたことは、「兄弟があなたに対して犯した罪は、三度まで赦しなさい」でした。ペテロは寛容を示し、「七度まででしょうか?」と質問します。主イエスの答えは、ペテロの予想をはるかに上まわった答えでした。兄弟が悔い改めるなら、私たちは何度でも赦すべきです。

A主イエスは、兄弟を赦さない人の愚かさを再び分かりやすいたとえで教えられます。
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
18:35 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」

 一万タラントは莫大な金額です。現在の日本円で言うなら約6000億円です。(1タラント=6,000デナリ)。その負債を免除されたのに、100デナリ(100万円)の貸した金を免除しない。何と無慈悲な男だと誰もが思われるでしょう。一万タラントという莫大な金額は、私たちの神に対する罪の借金です。その負債を支払うことは不可能です。永遠の滅びという刑罰を受けて当然です。しかし、イエス・キリストによってすべての負債は支払われました。取り立ての債務証書は十字架に釘付けにされました。それなのに、自分に対して罪を犯した兄弟のわずかな罪を赦すことができないことが何と多い事でしょう。このたとえの男が愚かだと思うなら、私たちは兄弟の罪を赦すべきです。

 この説教はカペナウムにて語られました。この場所で主イエスはペテロたちを召命し、多くのしるしを行われ、病人を癒し、御言葉を語られました。この場所から、最後のエルサレムへの旅が始まります。それは十字架を目指して歩まれる道です。イエス様が十字架へ向かわれる目的はただ一つです。罪を赦す為です。私たちが犯したいっさいの罪を赦すために、十字架に架かり、死の苦しみを受けるためでした。そして復活により福音が完成し、教会時代が始まりました。
 教会時代の最大の恵みは罪が赦されることです。どんな罪人も極悪人も、神に対して悔い改め福音を信じるとき、すべての罪を赦していただける!私たちはこの約束を救い主イエス・キリストからいただいているのです。何と感謝な事でしょう。

 しかし、恵みの時代の中にあって、教会の最大の問題は、罪を犯した兄弟を赦さないという事です。気に障る一言を言われただけで、交わりをしなくなる。違う意見を言われただけで心を閉ざす。だまされたら生涯うらみ続ける。・・・信仰はどこへ行ったのでしょうか?私たちは世の光、地の塩でしょう。自分に悪いことを言う人を赦せないで、どうしてイエス様の赦しを喜ぶことが出来るでしょう?「主イエスの十字架はあなたのすべての罪を赦して下さいます」と伝道しながら、どうして兄弟の罪を赦さないのでしょう?つまずいた兄弟を赦さないことは、さらに大きなつまずきとなります。7節の言葉は重い言葉です。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。
 私たちがイエス・キリストの十字架の救いを喜び、兄弟姉妹を愛し、互いに罪を赦し合うなら、神の国は私たちの中に実現されているのです。そこはサタンが近づくことのできない要塞です。ぜひ主イエス様が18章で教えられたことを心にしっかり受けとめてください。
・兄弟につまずきを与えないように。
・つまずいた兄弟を助けるように。
・罪を犯した兄弟を愛をもって責めるように。
・兄弟が悔い改めたなら赦すように。