マタイによる福音書19章27節〜20章16節 「天の御国での報酬」 並行箇所;マルコ10:28-31、ルカ18:28-30

1.十二使徒への報酬


 先回の説教では、お金持ちのりっぱな青年が登場しました。イエス様は彼の弱さを教えるため「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。」と命じられました。青年は悲しんで帰りました。主は「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。」と弟子たちに教えられました。この言葉を受け、27節のペテロの質問には、期待と不安が入り混じっています。
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」
 このペテロの質問に対し、イエス様は12使徒たちには特別な報いがあることを約束されました。
19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
 この預言は将来のことだと分かります。近い将来、主イエスが再臨して千年王国が始まります。その王国においてペテロたち12使徒にはイスラエルを支配する権威が与えられると約束されたのです。この約束は使徒たちにとって大きな慰めとなりました。というのは、この後、イエス様は使徒たちと共にヨルダン川を渡り、エルサレムへ上り、十字架の死と復活が目前に迫っていました。すぐに教会時代が始まり、使徒たちは迫害の中で宣教することを主イエスはご存知でした。ですから、この言葉は12使徒たちが希望を失わずに宣教していくために大きな支えとなったはずです。

2.家族、財産を捨てる人への報酬

 29節は、12使徒だけでなく、イエス・キリストのために大きな犠牲を払った人々には必ず報いが与えられると約束されます。
19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
 この一つの約束の言葉が、世界の歴史の中でどれほど多くのキリスト者を励まし、慰めてきたか分かりません。12使徒たちのようにキリストの御名のために献身し、生涯を神にささげ犠牲を払った人は、幾倍もの報酬と永遠のいのちを受けると約束されています。(マルコ福音書では「百倍の報い」となっています。)
 キリストを信じて献身し、遠い外国への宣教師となるなら、あなたは親の面倒を見ることが出来なくなるでしょう。親、親戚から「親不孝者」とののしられるでしょう。しかし、神様の御心だと信じ、神様の恵みが必ず両親にも与えられると信じるから、親、財産を捨てて宣教することが出来ます。

 また、迫害の中で家族や財産を失う人たちもいます。イスラム圏では、キリストを信じたために家族や町中の人から憎まれ、暴行を受けたり、町から追い出される人たちもいます。そういう人にとって唯一の支えは、このイエス様の約束です。この御言葉があるからこそ、迫害を耐えることが出来るのです。
 間違ってはいけないのは、イエス様の約束は「信仰のない家族を追い出せ」と命じているのではありません。もし、そんなことをしたら私たちが迫害者になってしまいます。キリストの御名のために家、財産を失い、家族を失う時、私たちは幸いなのです。御国においてその何倍もの祝福を受け継ぐからです。
※マルコ、ルカ福音書ではこの世で物質的祝福を約束しているように受け取れます。しかし、代表者である12使徒たちの生涯では物質的祝福がありませんでした。しかし、すべてを霊的祝福(心の平安、希望,など)と解釈するのも行き過ぎでしょう。従ってこの箇所の解釈は難しくなっています。参照;マルコ10:29-30 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。  ルカ18:29-30 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

3.ぶどう園のたとえ
 19章30節の言葉が20章の主題となっています。
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。
 分かりにくい教えです。どういう意味でしょうか?20:16にも同じ御言葉があり、その説明としてぶどう園のたとえを話されました。このたとえ話を注意深く見ていきましょう。
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 ぶどう園の収穫時期は猫の手も借りたいほど忙しいそうです。一斉にぶどうが収穫の時を迎え、摘む日を遅らせるとぶどうの味が変わってしまうので、収穫の時が来たらすぐに収穫しなければならないそうです。それがおいしいワインを作るコツでもあるようです。また、当時の労働者は朝6時から夕方6時まで働いたようです。単純に考えると12時間労働ですが、休憩時間も長かったと考えられます。
 ここで語られたたとえは人間の尺度で考えるなら、まったくもって不公平な話です。ぶどう園の主人がやってきて、最初の日雇い労働者を朝6時ごろに雇います。9時にも来て雇い、12時、午後3時、午後5時にも雇います。終業の時刻になり、給与を支払います。ところが最後に雇われた人から先に支払いが行なわれます。この時点でまず不公平です。遅く来たのに一番早く帰れるのです。それ以上に不公平なのは、雇われた人全員、1デナリの日当が支払われました。朝6時から12時間働いた人も、夕方5時から1時間しか働かなかった人も1デナリです。朝6時から働いている人からするなら、こんな馬鹿な話はありません。「1時間しか働かなかった奴等と同じ給料なんてありえない!」と文句を言うのです。このたとえを通してイエス様は何を教えておられるのでしょうか?

@神様の公平を教えている
 私も日雇い労働の経験がありますので、とても身近な話に思えます。日雇い労働者は朝早く事務所に集まり、その日の仕事が決まった人から現場へ出ていきます。決まらない間、じっと座って待っているのは、みじめな気持です。ここに登場する労務者は夕方5時になっても仕事がなく、待っています。「なぜ仕事をしないのか」という問いに、「誰も雇ってくれないからです」と答えます。もしそれが現実なら、こんな厳しいことはありません。その人にも生活があります。食べていかなければ死んでしまいます。家族がいるなら、養わなければなりません。しかし、雇ってくれる人がいない。働けないままでは帰ることもできず、夕方5時になっても仕事を待っている。何とみじめでしょう。働きたくても働けないというのは、過酷な労働をすることよりもつらいことかもしれません。
 ぶどう園の主人がこの人たちをたった一時間でも雇ってくれたのはあわれみです。そして報酬として他の人と同じように1デナリを与えたのは、驚くばかりのあわれみです。1時間の時給では、その人と家族の夕食代にもならないでしょう。それでは次の日の生活が出来ません。ぶどう園の主人はこの人にも一日の賃金を与え、生きる糧を与えるのです。このたとえが表しているのは次の事です。天の神様はすべての人に対してあわれみ深く、そして公平なお方だということです。人にいのちの息を与え、守り、支えてくださるお方です。求める人には誰にでも必要なものを備えられるお方です。

A神様の恵みを教えている
 このたとえでぶどう園の主人は天の父なる神様のことで、雇われた労務者とはあなたの事です。このたとえは、労務者のあなたが、自分がどの時間に雇われた者なのかを知ることによって大きく変わってきます。あなたが朝早くから働いたと思うなら、このたとえは不公平極まりない話です。しかし、あなたが自分は午後5時に集められた人と同じで、報酬などないくらいのものだと思っているなら、この話は素晴らしい神様の恵みを教えている事になります。

 先回の話に出てきたりっぱな青年は、まさに朝6時から働いていると感じていたでしょう。当時のパリサイ人や律法学者たちは神様のために誰よりも早くから働いていると自負し、神様から当然多くの報いを受けるものだと信じていたのです。彼らは言うでしょう。「私たちは律法と言い伝えを懸命に守り、ほしい物も我慢し、耐えてきました。」と。それは「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。」という言葉と同じです。神様に対して不平不満を言い続けるのです。
 それとは対照的に15章で登場したカナン人の女性は、イエス様にその信仰を立派だと誉められました。彼女は自分が取るに足りない者であると自覚し、「ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と言って娘の病を癒していただきました。彼女はぶどう園のたとえで言うなら、自分を午後5時に雇われた者と考えたのです。彼女がこのぶどう園の話を聞いたなら、なんとあわれみと恵みに富んだ話だと思うでしょう。なぜなら自分は少しの報酬しかいただけない者だと理解しているからです。

 ハーベストタイムの中川先生が次のようなユダヤ人ジョークを話されていました。少し私の脚色も入れてみます。
“有名なユダヤ教のラビが死んで天国へ行きました。ラビは生前、人々に聖書を教えたので、たくさんの報酬が用意されていると思っていました。しかし、天国での報酬は驚いたことに一人一人に乗り物が与えられたのでした。ラビに与えられた乗り物はスクーターでした。「このわたしがスクーター?」とがっかりしていると、近くを一台の黒塗りの高級車が通り過ぎました。よく見ると、乗っていたのは生きている間、バスの運転手をしていた人でした。彼は乱暴者で知られていて、素行が悪く、バスの運転も荒くて、いつも苦情のあった男でした。
 ラビは信仰の父アブラハムに文句を言いました。
「どうして私がスクーターで、あの乱暴者がりっぱな高級車なのですか?」
 アブラハムは彼にやさしく答えました。
「子よ、思い出しなさい。あなたが会堂で説教している間、会衆はいつも居眠りしていたのです。しかし、あの男がバスを運転している間、バスの乗客は皆、父なる神様に熱心に祈っていたのです!」“・・・ 彼は人々を祈りへ導いたから報いが多いというのです。

 ユーモアのある話ですが、天国へ私たちが行ったときに、同じことが起こるのではないでしょうか。「どうしてあの人にたくさんの報いがあって、私はこんなに少ないのですか?私は神様、あなたの報酬が頂けると信じて懸命に働いたではないですか?」・・しかし、打算的な信仰を持ち、自分は他の人より立派なクリスチャンだと思っていると、後の者になるとイエス様は教えられているのです。
 これは信仰の奥義です。自分は謙遜だと思った瞬間に、その人の謙遜は失われてしまいます。自分には報いが多くあると思った途端、多くの報いを失うのです。神の国はその様なものです。イエス様は12使徒たちに格別な報いを約束されたので、使徒たちがその約束によって高慢にならないように、主はあらかじめ釘を刺しておかれたと言えます。

B神様のご計画を教えている
 マタイだけがぶどう園のたとえ話を記載しています。その理由は、マタイがユダヤ人読者を対象として書いており、このたとえの本来の目的はユダヤ人のおごり高ぶりを戒めるものだからです。ユダヤ人の意識の中に、自分たちは神様に選ばれ、特別に祝福された民族だから、異邦人などよりはるかに神様に愛され、多くの報酬を与えられると考えていました。しかし、そのような意識こそ、ここで主イエスが戒められていることです。イスラエルは確かに神様によって先に雇われた人たちです。神様のためにたくさん働いた民族です。異邦人の教会は午後5時に雇われた人たちです。ほとんど仕事をしていません。しかし、将来の預言は後で雇われた異邦人が先に天の御国へ入ることを約束しています。なぜなら、今イスラエルは異邦人にも同じ祝福が与えられたと言って不平不満を言い、信仰から離れてしまっているからです。

 教会時代は異邦人の救いのために与えられた時代です。教会はイスラエルより先に天の御国へ引き上げられます。空中携挙と呼ばれます。その後でキリストは地上に降りて来られ、イスラエルのための王国が始まります。「先の者があとになり、あとの者が先になる」とは、この神のご計画をも示しているのです。
※ルカ 13:30 「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」 この聖書箇所はユダヤ人と異邦人の対比で話されていることが文脈から明らかです。

 私たちクリスチャンは皆が午後5時に神様によって雇われたものなのです。十字架の恵みによって神様の大きなあわれみによって神の子供とさせていただいたのです。恵みによって信仰生活を支えていただいているのです。誰も自分の信仰や行いを誇ることが出来ません。信仰を与えてくださるのも神様だからです。