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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書20章17節〜28節 「聞かれない願い」



1.最後の都上り


20:17 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
 イエス様の最後のエルサレムへの旅は、カペナウムを出発し、ヨルダン川を渡ってペレヤへ行き、ペレヤから再びヨルダン川を渡り、エリコ→ベタニヤ→エルサレムへと続きます。この道はイエス様や弟子たちにとって、エルサレム巡礼のために何度も通った道でした。
※当時のユダヤ人はサマリヤを通りたくなかったので迂回していました

 ペレヤには途中、ヤボクの渡しがあります。そこは、かつて族長ヤコブが神の使い(受肉以前のキリスト)と格闘して、イスラエルという名をいただいた場所でした。(創世記32章)
 また、ペレヤには、モーセが天に召されたネボ山があります。(申命記32:49)



 イエス様の御生涯を注意深く見ていくと、ヤコブに起こった出来事(天からのはしご ヨハネ1:51)や、モーセに起こった出来事(山上での顔の光、天からのマナ)とシンクロする場面があります。エルサレムで受ける受難はアブラハムが息子イサクをささげる場面とシンクロし、その受難の詳細はダビデ王が詩篇に綴った苦しみの言葉とまったく一致するのです。イエス様の公生涯には、旧約の聖徒たちの追体験があり、そこに神のご計画の驚くべき深さを覚えます。

 私たちクリスチャンを考えると、12弟子たちが体験したことを私たちも人生の中で追体験するのだと思います。弟子たちが経験した驚き、喜び、悲しみ、失敗、嘆きを、多かれ少なかれ私たちも経験するのです。ですからクリスチャンの人生は何が起こっても驚く必要がありません。弟子たちが既に経験したことであり、御言葉によってその意味を教えてくれるからです。そしてイエス様からいただく慰めと励ましも弟子達と同じように経験するのです。

2.受難と復活の予告

20:18 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 主イエスは弟子たちと道を歩きながら、御自分の最期について話されました。マタイ福音書においては三度目の受難と復活の予告です。しかし、弟子たちはこの時も全く理解出来ていません。ルカ福音書は次のように書き添えています。

ルカ18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。


 弟子たちが理解しなかったのは神様のご計画だというのです。彼らはイエス様がよみがえられたときに、やっとすべてを理解することが出来ました。

3.母親の願い・・聞かれない願い

20:20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
20:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」


 ゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネのことです。彼らの母親がしゃしゃり出て来て、自分の子たちをキリストの王国で高い地位につけてほしいと、ひれ伏して願いました。他の弟子たちがヤコブとヨハネのことで腹を立てたことを考えると、ヤコブとヨハネが母親に頼んでくれるように願ったのだと考えられます。(マルコ福音書ではヤコブとヨハネが主イエスにお願いしたことになっています) いずれにしても、子を思う母親の願いはいつの時代も変わりません。

20:22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。

 母親の願いは自分の息子たちを愛するあまりの行動です。息子たちの将来のために、ひれ伏してお願いする母親はそうそういるものではありません。・・立派な母親です。私たちは生きている間、多くの人に頭を下げてお願いしなければならないときがあります。人に頭を下げなかったため道が閉ざされたとき、「神様の御心だった」と言うのは、大きな勘違いです。ですから、ここで母親がひれ伏してお願いしたのは母親として素晴らしいことをしているのです。

 しかし、問題は「何を願っているのか?」ということです。
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」
――キリストの王国においてキリストの右と左に着くという事は、人間的な義理や人情で決められるものではありません。キリストの王国は父なる神の御心が成され、正義と真理が支配する国です。その国が人間の願望や思惑で成り立つはずがありません。母親はキリストの王国がどのようなものかを全く理解していないのに、息子たちに高い地歩を授けてくださるようにお願いしたのです。彼女の願いは聞かれない願いでした。

 この事はクリスチャンにとって肝に命じておくべきです。神様は私たちの祈りをなんでも聞いてくださるお方ではありません。聞かれない願いがあります。御心でない祈りがあります。しかし、聞かれる祈りと聞かれない祈りの区別が、私たちには分からない時が多いことも事実です。ですから、諦めずに祈り続けましょう。祈り続けているうちに分かってくることもあります。

「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」――「わたしの杯」とは、キリストが受ける苦しみ、迫害、殉教です。「苦しむ覚悟はできているか?」という事です。ヤコブとヨハネは「できます」と啖呵を切ります。イエス様はその返事を良しとされたのでしょう。なぜなら、彼らに起こる後のことを知っておられたからです。ヤコブは教会時代に入って12使徒の中で最初の殉教者となりました。ヘロデ・アグリッパ王によって彼は処刑されました。ヨハネは迫害の中を生き抜き、老年になってパトモス島に流刑になりました。(彼はただ一人殉教せず、95歳まで生きたと伝えられています。)

20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
 しかし、彼らが殉教するしないに関わらず、キリストの王国の支配は、父なる神の御心によることを教えられました。

20:24 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
 他の十人の弟子たちは出し抜かれたと思ったのでしょう。腹を立てたという事は、自分たちも同じ思いがあったという事です。そのあさましい思いを見抜かれてイエス様は弟子たちを呼び寄せて教えられました。

4.主イエスの教え

20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 イエス様が語られた言葉は、これまで教えてこられたことと同じです。山上の垂訓に始まり、行く先々で話された教えです。主イエスは常にへりくだった者を励まし、高慢な人々を叱責されました。イエス様の教えは常に一貫しています。

人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい
 人は誰もが先に立ちたいと願います。偉くなりたい、尊敬されたい、誉められたいと。それが向上心として働くなら良いのですが、差別や軽蔑といった思いに傾く事もあります。イエス様は、「先に立ちたい、偉くなりたい」という願いを否定してはおられません。ただ、その人は「しもべとなりなさい、仕える者になりなさい」と教えられました。

 誰が一番かと言い争っていた弟子たちに、イエス様は「生き方」を教えられています。私たちが生きている社会や教会でも指導者、リーダーは必要です。リーダーがいなかったらどんな仲良しグループでも、争いや分裂で成り立たなくなるでしょう。そしてそのグループの良し悪しは指導者によって決まっていくのです。それで、指導者になりたいと願う人の心構えをイエス様は教えられました。後に教会の基礎、指導者となっていく12使徒にとって必要な教えでした。そしてそれは私たちの生き方にも必要な教えです。
 
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり
 「仕える」という生き方は、イエス様の地上生涯での生き方そのものでした。神の御子であるのに、この地上に降りて来られ、人と成り、人々に仕える者となられた――人々を正しい道に立ち返らせるため、寝る間も惜しんで教えられました。そして人々の罪の赦しと永遠のいのちを与えるため、ご自身が身代わりとなって罪の刑罰を受けてくださったのです。

 イエス・キリストは私たちに「生き方」を教えられただけでなく、その見本となられ、そして罪の赦しと永遠のいのちへの道を与えてくださいました。だから私たちはイエス・キリストを救い主として信じることが出来るのです。そして主イエス様と同じように「仕える者」として生きていこうと願うのです。