マタイによる福音書20章17節〜28節 「聞かれない願い」 並行箇所;マルコ10:32-45、ルカ18:31-34

 12弟子たちに特別な報いを約束されたイエス様は、「先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」と教えられました。それは、神のご計画を示すとともに、神に仕える者はへりくだらなければならないことを教えています。ペレヤでの伝道を終えられると、イエス様はエルサレムを目指されます。21章ではエルサレム入城の場面となり、受難週が始まります。

1.最後の都上り

20:17 さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
 いよいよ最後の都上りとなりました。イエス様の最後のエルサレムへの旅はカペナウムを出発して、おそらくガリラヤとサマリヤの境を通られ(ルカ17:11)、ヨルダン川を渡ってペレヤへ行き、ペレヤから再びヨルダン川を渡り、エリコ→ベタニヤ→エルサレムと続きます。(当時のユダヤ人はサマリヤを通りたくなかったので迂回路としていた) その道のりをよく見ると、ここにも主イエス様の深いご計画があったのではないかと思います。ペレヤには途中、ヤボクの渡しがあります。そこは、かつて族長ヤコブが神の使い(受肉以前のキリスト)と格闘して、イスラエルという名をいただいた場所でした。(創世記32章) イエス様と弟子たちもヤボクの渡しを渡られたに違いありません。また、ペレヤには、モーセが天に召されたネボ山があり(申命記32:49)、イエス様と弟子たちはそのネボ山を背にしながらヨルダン川を再び渡って行ったはずです。それはエジプトを脱出したイスラエル民族が、ヨシュアに率いられて約束の地カナン(パレスチナ)へ入っていった道のりと同じだったでしょう。カナンに入ると最初の町がエリコです。それらの場所を主イエスは彼らの事を想いながら通って行かれたことでしょう。
 イエス様の生涯を注意深く見ていくと、ヤコブに起こった出来事(天からのはしご ヨハネ1:51)や、モーセに起こった出来事(山上での顔の光、天からのマナ)とシンクロする場面があります。エルサレムで受ける受難はアブラハムが息子イサクをささげる場面とシンクロし、その受難の詳細はダビデ王が詩篇に綴った苦しみの言葉とまったく一致するのです。イエス様の公生涯には、旧約の聖徒たちの追体験があり、そこに神のご計画の驚くべき深さを覚えます。
 私たちクリスチャンを考えると、12弟子たちが体験したことを私たちも人生の中で追体験するのだと思います。弟子たちが経験した驚き、喜び、悲しみ、失敗、嘆きを、多かれ少なかれ私たちも経験するのです。ですからクリスチャンの人生は何が起こっても驚く必要がありません。弟子たちが既に経験したことであり、御言葉によってその意味を教えてくれているからです。そしてイエス様からいただく慰めと励ましも弟子達と同じように経験するのです。

2.受難と復活の予告

20:18 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
20:19 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 主イエスは弟子たちと共に道を歩きながら、御自分の最期について預言されます。マタイ福音書においては三度目の受難と復活の予告です。
 ・異邦人に引き渡される   ・むち打ちの刑を受ける    ・十字架に架かる
 これらのことが新たに明らかにされています。しかし、弟子たちはこの時も全く理解出来ません。ルカは次のように書き添えています。
ルカ18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
 弟子たちが理解しなかったのは神様のご計画だというのです。彼らはイエス様がよみがえられたときに、やっとすべてのことを理解するのです。

3.母親の願い・・聞かれない願い

20:20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
20:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」

 ゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネのことです。彼らの母親がしゃしゃり出て来て、自分の子供たちをキリストの王国で高い地位につけてほしいと、ひれ伏して願います。他の弟子たちがヤコブとヨハネのことで腹を立てたことを考えると、ヤコブとヨハネが母親に頼んでくれるように願ったのだと考えられます。(マルコ福音書ではヤコブとヨハネが主イエスにお願いしたことになっています) いずれにしても、子を思う母親の願いはいつの時代も変わりません。
20:22 けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。
 母親の願いは自分の息子たちを愛するあまりの言葉です。息子たちの将来を考えて、ひれ伏してお願いする母親はそうそういるものではありません。・・立派な母親です。私たちは生きている間、多くの人に頭を下げてお願いしなければならないときがあります。人々に頭を下げなかったため、道が閉ざされたとき、「神様の御心だった・・」というのは、大きな勘違いであり、明らかに信仰者の側に責任があります。ですから、ここで母親がひれ伏してお願いしたのは母親として素晴らしいことをしているのです。しかし、問題は「何を願っているのか?」ということです。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです」・・・キリストの王国においてキリストの右と左に着くという事は、人間的な義理や人情で決められるものではありません。キリストの王国は父なる神の御心が成され、正義と真理が支配する国です。その国が人間の願望や思惑で成り立つはずがありません。母親はキリストの王国がどのようなものかを全く理解していないのに、息子たちに高い地歩を授けてくださるようにお願いしたのです。彼女の願いは聞かれない願いでした。
(マタイ27:56とマルコ15:40、ヨハネ19:25の比較から、ヤコブとヨハネの母の名はサロメであり、イエスのおばにあたるとされるが断定はできない。またヨハネ19:25では「母の姉妹すなわちクロパの妻マリヤ」と訳すこともできるため、同一人物とする見方もあるが、これも確かな事ではない。)

「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」・・「わたしの杯」とは、キリストが受ける苦しみ、迫害、殉教です。「苦しむ覚悟はできているか?」という事です。ヤコブとヨハネは「できます」と啖呵を切ります。イエス様はその返事を良しとされたのでしょう。なぜなら、彼らに起こる後のことを知っておられるからです。ヤコブは教会時代に入って12使徒の中で最初の殉教者となりました。ヘロデ・アグリッパ王によって彼は処刑されました。ヨハネは迫害の中を生き抜き、老年になってパトモス島に流刑になりました。(彼はただ一人殉教せず、95歳まで生きたと伝えられています。)
20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲みはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、このわたしの許すことではなく、わたしの父によってそれに備えられた人々があるのです。」
 しかし、彼らが殉教するしないに関わらず、キリストの王国の支配は、父なる神の御心によることを教えられました。
20:24 このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。
 他の十人の弟子たちは出し抜かれたと思ったのでしょう。腹を立てたという事は、自分たちも同じ思いがあったという事です。そのあさましい思いを見抜かれてイエス様は弟子たちを呼び寄せられます。教師が子どもたちに大切なことを伝えようとしている姿です。

4.主イエスの教え

20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 イエス様が語られた言葉は、これまで教えてこられたことの繰り返しです。山上の垂訓に始まり、行く先々で示された教えです。主イエスは常にへりくだった者を励まし、高慢な人々を叱責されました。イエス様の教えは常に一貫しています。また、それは旧約聖書の教えとも一致しています。律法の中の、レビ 19:18 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と言う戒めです。
 主イエスはその教えを、十字架の上で身をもって実践されます。みなに仕える者となり、自分のいのちさえ与えるしもべとなられたのです。主は教えられただけでなく、全き模範となられました。主イエスは次のように命じられました。
ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 愛しなさい、という命令は律法の戒めと同じです。何が違う点であり、何が新しいのでしょうか?・・・違うのは「キリストが私たちを愛してくださったように、愛しなさい」ということです。「愛されているから愛しなさい。愛されたように愛しなさい。」と、愛する理由と愛し方を教えています。律法は「あなた自身のように愛しなさい」と、ただ命じましたが、キリストは愛する心を与えてくださるお方なのです。
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マタイ18:1 「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」と争っていた12弟子たちを主イエスは呼び寄せて教えられました。それは今、教会時代の私たちへの大切な教訓です。イエス様の願いは、キリスト者の私たちが皆に仕える者、皆のしもべとなることです。主イエスが身をもって示してくださったように私たちは互いに仕えあうべきです。世の中では通用しないことでしょう。会社の中で皆に仕えていたら、身が持たないでしょう。社会では権力を持つ者が支配しているからです。主イエスが言われたのは、「あなたがたの間では、そうではありません。」です。つまり、キリストの身体である教会の中にあってであり、教会の中で私たちは互いに仕えることが求められています。教会の中では権力者がいないからです。各々が身体の各器官として支え合って働くのです。誰が頭だ、手足だ、要らない器官だ、とさばくことをせず、キリストの栄光のために心を一つにして互いに仕えあい、愛し合っていくなら、キリストが願われた御心の教会となっていくのです。