マタイによる福音書20章29節〜34節 「聞かれる願い」 並行箇所;マルコ10:46-52、ルカ18:35-43

1.エリコの町

 イエス様と弟子たちは、ペレヤを出発してヨルダン川を渡り、エリコの町へ行かれます。かつてイスラエルがエジプトから脱出してカナンの地へ入っていき、最初に占領した町がエリコの町でした。エリコの町では遊女ラハブがイスラエルの偵察隊をかくまい、神様の祝福をいただき、彼女はキリストの系図に載る女性となったのです。ルカの福音書19章では、このエリコの町において取税人ザアカイの回心の話があります。誰からも嫌われていたザアカイでしたが、
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ルカ19:5
との主イエスの言葉によって彼は恵みを受け、回心したのでした。旧約における遊女ラハブ、新約における取税人ザアカイ。エリコの町で、1400年の時を隔てて神様のくすしい救いの御わざが行なわれました。今日の出来事はザアカイの回心後、エリコの町を出た所で起こりました。
(ルカ福音書では「エリコに近づかれた時」とありますが、おそらくエリコに入る時に既に盲人たちはエリコの入り口で乞食をしており、救い主到来のうわさを聞き、イエス様がエリコの町を出られたときに、この時を逃してはならないと思い、必死で叫んだという事でしょう)

2.二人の盲人

20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

※マルコ福音書では一人の名前をバルテマイと記しています。マルコ、ルカとも一人の盲人の癒しの記事としてまとめていますので、バルテマイが中心的に呼び掛けたのでしょう。
 私の生まれ故郷の佐世保市には四ヶ町というアーケード商店街があります。佐世保で最もにぎわう場所です。子供のころ、このアーケード街を何度も行ったり来たりしたものでした。私がまだ小学生になるかならないかのころ、時々、盲人だと思うのですが、商店街の通りで、むしろに座り、大きな缶を前において乞食をしている人を見かけました。汚い服を着て地面に文字を書いていました。子供心に、かわいそうだと思いましたが、自分はあんなふうになりたくないとも思いました。もう現在では乞食をしている人の姿を見ることはなくなりましたが、2000年前のイスラエルでは、乞食をしている人を見かけるのは常であったようです。障害を抱える人は仕事に就けないため、乞食をするしか生きるすべがありませんでした。「右や左の旦那様、哀れな乞食でございます、何か恵んで下さいませ。」と、口上を述べたか分かりませんが、人々のあわれみにすがるしか生きる方法がありません。聖書はそういう貧しい人に施しをすることを「善い行い」として奨励しています。
箴言 19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。
イザヤ58:6〜11 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、【主】の栄光が、あなたのしんがりとなられる。そのとき、あなたが呼ぶと、【主】は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる」と仰せられる。もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。 【主】は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。

 これが福祉の基本だと思います。善いことをする人を神は見ておられ、神は報いてくださると信じるからこそ、与えることが出来る。神様を信じてないなら、赤の他人の貧しい人に与えても何の得にもならないと思う。だから施さない。施さないから、国は法律で縛って税金として取り立てなければならない。税金が増えると人は文句を言うのです。私たちの社会が抱えている福祉の問題、税金の問題は、報いを与えてくださる神を信じないから問題が大きくなるのです。もし、日本人が皆、イエス・キリストを信じることが出来たら、社会はどれほど過ごしやすくなるでしょう。「福祉」なんて言葉すら必要が無くなるでしょう。貧しい人、苦しんでいる人を助けることは当たり前のことだからです。

3.盲人の願い

 盲人はキリストが通られると知り、この時を逃してはならないと大声を上げて叫びました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
 エリコを出た時点でイエス様の周りにはエリコの町の人も加わり、大行列になっていました。その中にはザアカイもいたことでしょう。過越の祭りのためエルサレムに上ろうとしている人たちも巻き込んだことでしょう。群衆は、突然叫びだして行進の邪魔をする盲人たちを黙らせようとしました。しかし盲人たちはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てました。目が見えないので、どこにキリストがおられるのか分からないので、大声で叫ぶしかなかったのです。
20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

 イエス様は彼らの願いを知っておられたはずです。しかし、あえて「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれました。盲人たちの願いはただ一つ、「この目をあけていただきたいのです」でした。この言葉に彼らの信仰が現わされています。彼らは乞食をしていました。乞食が人に願う事は、お金を恵んでもらう事です。しかし、イエス・キリストに願ったことは「お金」ではなく「目をあけていただきたい」でした。それは神にしかできないことです。つまり、彼らはこのお方が自分の目をひらく権威を持っている方、神のキリストだと信じたのです。彼らはキリストのあわれみを求めて、なりふり構わず、声の限り叫んで救いを求めたのです。これほど救いを求めている人をキリストが放っておかれるはずがありません。
参照;マルコ10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」

4.キリストの救い

20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
 主の奇跡のしるしです。新改訳聖書は「わいそうに思って」と訳していますが、他の日本語翻訳では「深くあわれんで」と訳されています。「深い憐み:スプランクニゾマイ」です。
盲人は「あわれんでください」と求めましたが、その言葉は「エレオ;憐れみ」という言葉です。「あわれみ」を求めた盲人をイエス様は深くあわれまれたのです。

@あわれみ
 今日の聖書箇所の中心のメッセージはあわれみです。「あわれみ」という言葉を多くの人は嫌います。教会では「神様が私をあわれんでくださった。神様が私に恵みを与えてくださった」と言い、「あわれみ」「恵み」という言葉を平然と使いますが、世の中の人にとってあわれみとは、哀れな人間だけが求めるものであり、落ちぶれた人間の象徴です。しかし、聖書を学んでいくと、私たちもまた、創造者を忘れ祝福を失って、落ちぶれてしまった者であることが分かります。その落ちぶれた私たちを見て、神はあわれんでおられるのです。
 このあわれみの心こそ、主イエス・キリストが十字架に架かられた理由でもあります。創造者を信じないで、自分勝手に生きている人間は、イエス様の目には、羊飼いがおらず途方に暮れ、さまよっている羊として映ったのです。
マルコ 6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。
 神に背を向け、罪の生活を続けて永遠の滅びへ向かっている私たちをあわれんで、イエス・キリストは十字架に架かり、身代わりの死をもって私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えようとされたのです。

 神様の御心はまず、
・あなた自身が、あわれみが必要なみじめな者であることを知ることです。そして、
・キリストを信じて神が与えてくださるあわれみ(赦しと救い)を受け取ることです。そして、
・キリストを信じてあわれみを受けたなら、あわれみの心を持つようになることです。
 貧しい人や弱い人に対してあわれみの心を持つことは当然ですが、迫害する者をあわれむことも大切です。なぜなら、彼らは神を知らないから迫害するのであって、迫害することによって神の燃える怒りの炭火を自分の頭の上に積み上げているからです。

 A祈り
 今日の聖書箇所から教えられるもう一つのことは、祈りということです。先週はヤコブとヨハネの母親がひれ伏して「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」と願いました。しかし、それは聞かれない願いでした。この盲人たちの願いは聞かれる願いでした。どちらも必死の願いでした。どちらもイエスをキリストと信じて願いました。しかし、求めるものは全く違いました。私たちが父なる神様に祈るときに、聞かれる願い聞かれない願いがあることを知っておくべきです。自分の欲からくる願いは聞かれませんでした。救いを求める願いは聞かれました。私たちはもう一度、主の祈りを読み返してイエス様から祈りについて学びましょう。
マタイ6:9-13 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 来たるべきキリストの王国では、すべての栄光は神にあります。人間の名誉や権力は全く何の役にも立ちません。私たちもキリストの王国へ入るようになります。だから、私たちは生きている限り、神の御名があがめられることを求めていきましょう。それは聞かれる願いです。自分が誉め称えられることを願うのは聞かれない願いです。
 また、自分が生きていくため必要なものだけを求めましょう。主の祈りでは、「日毎の糧」を求めなさいと教えられています。私たちは将来の財産のために祈っていることが多いのではないでしょうか?
 そして、赦しと救いを求めて歩みましょう。自分のために、そして、隣人のために赦しと救いを求める祈りは尊い祈りです。

 イエス様は次のように言われました。
マタイ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
 あなたは罪人でしたが、神の御子キリストのあわれみによって救われ、永遠のいのちをいただいているのです。