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心に響く聖書の言葉


タイによる福音書20章29節〜34節「聞かれる願い」



1.エリコの町


 イエス様と弟子たちは、ペレヤを出発してヨルダン川を渡り、エリコの町へ行かれました。かつてイスラエルがエジプトから脱出してカナンの地へ入っていき、最初に占領した町がエリコの町でした。この町では遊女ラハブがイスラエルの偵察隊をかくまい、神様の祝福をいただき、彼女はキリストの系図に載る女性となりました。

 また、ルカの福音書19章では、このエリコの町において取税人ザアカイの回心の話があります。誰からも嫌われていたザアカイでしたが、
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ルカ19:5
との主イエスの言葉によって彼は恵みを受け、回心したのでした。

 旧約における遊女ラハブ、新約における取税人ザアカイ――エリコの町で、1400年の時を隔てて神様のくすしい救いの御わざが行なわれました。今日の出来事はザアカイの回心後、エリコの町を出た所で起こりました。

2.二人の盲人


20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。

※マルコ福音書では盲人の名前をバルテマイと記しています。マルコとルカ福音書では一人の盲人の記事としていますので、バルテマイが中心的に呼び掛けたのでしょう。

 二人の盲人がイエス・キリストに「あわれんでください」と懸命に叫びました。それは「目を見えるようにしてください」という願いでした。

 私の故郷の佐世保市には四ヶ町というアーケード商店街があります。佐世保で最もにぎわう場所です。子供のころ、このアーケード街を何度も行ったり来たりしたものでした。私がまだ小学生になるかならないかのころ、時々、盲人と思われる方が商店街の通りでむしろに座り、空き缶を前に置いて乞食をしている姿を見かけました。彼は汚い服を着て地面に何か書いていました。子供心に、かわいそうだと思いましたが、自分はあんなふうになりたくないとも思いました。

 現在では乞食をしている人の姿を見ることはなくなりましたが、二千年前のイスラエルでは、乞食をしている人を見かけるのは常であったようです。障害を抱える人は仕事に就けないため、乞食をするしか生きるすべがありませんでした。聖書はそういう貧しい人に施しをすることを「善い行い」として奨励しているので、施す人も多かったようです。
箴言 19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。
イザヤ58:6〜 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、【主】の栄光が、あなたのしんがりとなられる。



3.盲人の願い

 盲人はキリストが通られると知り、この時を逃してはならないと思い、必死に大声を上げて叫びました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」

 エリコを出た時点でイエス様の周りにはエリコの町の人も加わり、大行列になっていました。その中にはザアカイもいたことでしょう。群衆は、突然叫びだして行進の邪魔をする盲人たちを黙らせようとしました。しかし盲人たちはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てました。目が見えず、どこにキリストがおられるのか分からないので、大声で叫ぶしかなかったのです。
20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」

 イエス様は彼らの願いを知っておられたはずです。しかし、あえて「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれました。盲人たちの願いはただ一つ、「この目をあけていただきたいのです」でした。この言葉に彼らの信仰が現わされています。彼らは乞食をしていました。乞食が人に願う事は、お金を恵んでもらう事です。しかし、イエス・キリストに願ったことは「お金」ではなく「目をあけていただきたい」でした。それは神にしか出来ないことです。つまり、彼らはこのお方が自分の目をひらく権威を持っている方、神のキリストだと信じたのです。彼らはキリストのあわれみを求めて、なりふり構わず、声の限り叫んで救いを求めたのです。これほど救いを求めている人をキリストが放っておかれるはずがありません。

4.キリストの救い

20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
 ※新改訳聖書は「かわいそうに思って」と訳していますが、他の翻訳では「深くあわれんで」と訳されています。「深いあわれみ:スプランクニゾマイ」
 盲人は「あわれんでください」と求めましたが、その言葉は「エレオ;あわれみ」という言葉です。「あわれみ」を求めた盲人をイエス様は深くあわれまれたのです。

@あわれみ
 「あわれみ」という言葉を多くの人は嫌います。教会では「神様が私をあわれんでくださった。神様が私に恵みを与えてくださった」と、「あわれみ」「恵み」という言葉をよく使いますが、一般世間では「あわれみ」とは、哀れな人間だけが求めるものであり、落ちぶれた人間が受けるものです。それで「あわれみ」という言葉を使うのを嫌がります。

 しかし聖書を学ぶと、私たちは皆、創造者を忘れて祝福を失い、落ちぶれてしまった者だと教えています。その落ちぶれた私たちを見て、神はあわれんでおられるのです。

 あわれみの心こそ、主イエス・キリストが十字架に架かられた理由でもあります。創造者を忘れ自分勝手に生きている人間は、イエス様の目には、羊飼いから離れてしまい、さ迷っている羊として映っているのです。
マルコ 6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 神に背を向け、罪の生活を続けて、永遠の滅びへ向かっている私たちをあわれんで、イエス・キリストは十字架に架かり、身代わりの死によって私たちに罪の赦しと永遠のいのちを与えようとされたのです。

 神様の御心は、
・あなた自身が、あわれみが必要なみじめな者であることを知ることです。
・キリストを信じて神が与えてくださるあわれみ(赦しと救い)を受け取ることです。
・キリストを信じてあわれみを受けたなら、あわれみの心を持つようになることです。

A願い
 今日の聖書箇所から教えられるもう一つは、願いということです。
 前回は、ヤコブとヨハネの母親がひれ伏して「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」と願いましたが、それは
聞かれない願いでした。
 ところが、この盲人たちの願いは
聞かれる願いでした。どちらも必死の願いでした。どちらもイエスをキリストと信じていました。しかし、求めるものは全く違いました。私たちが父なる神様に祈るときに、聞かれる願い聞かれない願いがあることを知っておくべきです。この違いを知るために、私たちは主の祈りを読み返して、イエス様から祈りについて学びましょう。

マタイ6:9-13 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕


 ◎来たるべきキリストの王国では、すべての栄光は神にあります。人間の名誉とか権力は全く何の役にも立ちません。だから、私たちは生きている限り、神の御名があがめられることを求めていきましょう。自分が誉め称えられることを願うのは聞かれない願いです。

 ◎生きていくため必要なものだけを求めましょう。主の祈りでは、「日毎の糧」を求めなさいと教えています。ところが私たちは将来の安心のために祈っていることが多いのではないでしょうか?「神様が必ず助けてくださる」という信仰があれば、多くの不安は取り除かれます。

 ◎赦しと救いを求めて歩みましょう。自分のために、そして、隣人のために赦しと救いを求める祈りは尊い祈りです。

 イエス様は次のように言われました。
マタイ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 あなたは罪人でしたが、神の御子キリストのあわれみによって救われ、永遠のいのちをいただいているのです。