マタイによる福音書23章1-24節 「律法学者たちに対する非難」 並行箇所;マルコ12:38-40、ルカ20:45-47

 前章では、質問に答えながら重要な真理について主イエスは教えられました。@税金と献金について、A復活について、B最も大切な戒めについて、C三位一体の教理について。・・これらは教会の教えの中でも重要であり、かつ、慎重に取り扱われなければ、人々のつまずきとなってしまう教えです。その反面、正しく理解するなら神様のご計画のすばらしさを教えられます。その適応は今の教会時代でも同じです。神様の真理は旧約時代も新約時代も変わることがありません。

1.きびしい非難の言葉

23:13 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。
23:15 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。

 23章に入ると、イエス様の厳しい非難の言葉が続いています。12節までは群衆と弟子たちに向けて、そして13節以降は律法学者、パリサイ人たちに向けて直接非難されているようです。この説教は、十字架に架けられる三日前であり、公に人々に語られる最後の説教となっています。マタイによる福音書においてイエス様の公生涯は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」という群衆に対するメッセージで開始されました。八つの幸いな人についてのメッセージです。そして群衆に対する最後の説教は13節から八つの「わざわいだ」というメッセージで終わります。八つの祝福で始まり、八つのわざわいで終わるのです。文語訳ではその対象を明らかにして「幸いなるかな」に対して「禍なるかな」と訳しています。約束されたメシアとして祝福をもって到来されたイエス様。しかし福音を拒み、受け入れないイスラエルに降りかかる不幸が示されています。彼らの不信仰こそがメシアとして来られたイエスを十字架に追いやり、神の救いを拒んだことを啓示しています。
※23章14節は古い写本にはないため、マルコ、ルカを参照して挿入されたと考えられています。おそらく山上の説教に合わせて八つにそろえたのかもしれません。
23:14 〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。〕

 日本は和の国であり、平和主義国家ですので、あからさまに人を非難することを嫌う民族です。争う事より、穏便にふるまうことを美徳と考えます。すべての人と平和を保つことは聖書でも大切な事と教えています。では、イエス様はなぜ律法学者たちを激しく非難されたのでしょうか?・・それは彼らがイスラエルの指導者たちだったからです。人々を正しく導くべき人たちであるのに、間違った道へ人々を導いていたからです。神様の真理を教えるべきなのに自分たちの教えを教えていたからです。
 律法学者たちの犯していた罪は、誘惑に負けて犯した罪というのではなく、神に敵対し、人々を地獄へ道連れにしようとする悪魔的な罪です。主イエスの厳しい非難の理由がここにあります。

2.指導者たちの堕落した姿

@ 有言不実行 v.1-4
23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
23:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。当時のユダヤ教指導者たちの堕落した姿を非難されています。

・「モーセの座を占めている」・・・教える立場にあるという事。
・「彼らは言うことは言うが、実行しない。重い荷をくくって、人の肩に載せ、指一本さわろうとしない」・・・彼らが律法の規定をこと細かく遵守していたことは周知の事実です。安息日の規定、ささげものの規定等々。しかし、イエス様は「実行していない」と言われます。どういう事でしょう?・・・それは律法の規定だけを行なっているが、律法の目的を行なっていないということです。最も大切な戒めは何だったでしょうか?・・それは神を愛することが第一の戒めであり、それと同じように隣人を愛することも大切だと教えられました。彼らはその最も大切な戒めを破っていたのです。彼らのしていることは見せかけだけです。重い荷を載せるだけ載せて、それを助け支えてあげるために、指1本も出さない。律法を少しも実行していないのだと主は非難されるのです。

A テフィリンtefillinとツィーツィートTzitzit v.5
23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。
 具体的に彼らがしていることはどんな事でしょう?・・「経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりする」のです。経札とは前に学びましたが、「シェマ・イスラエル」と呼ばれる重要な戒めを書いた羊皮紙を革の小箱(テフィリン) に収め、一つは左上腕に、もう一つは額に巻きつけて朝夕の祈りをします。見栄を飾る人はその箱をだんだんと大きくするのです。
 「着物のふさを長くする」・・ユダヤ人はツィーツィートと呼ばれる四つのふさが付いている服(タリート)を着て祈りをします。民数記の中にその規定があります。
民15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。
15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、
15:40 こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。

 熱心な信者と見られたい人たちは、そのふさをどんどん長くしていきます。そうすることで自分たちは敬虔な信仰者であると主張したいのです。

B 誓い v.16-22
23:16 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
23:17 愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
23:18 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
23:19 目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
23:20 だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
23:21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
23:22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。

 文面通りに受け取るなら、ユダヤ人は誓いを破った罰則から逃れるために、逃げ道を作っていたことが分かります。黄金やいけにえにかけて誓うなら必ず守らねばならないが、神殿、祭壇にかけて誓うなら、守ることが出来なくても罰則を受けない、としていたようです。イエス様はその考え方を完全否定されます。

C はっか、いのんど、クミン v.23
23:23 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。
 はっか、いのんど、クミンは植物で、粉末状にして薬用、調味料として用いられるものです。収穫物の中ではとても小さなものです。パリサイ人等はこれらの細かな収穫でも申命記14:22の「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」という規定に従い、きっちり十分の一を計ってささげました。「しかし、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」と主イエスは非難されました。
 けれども誤解が生じないように、「ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」と、規定を守ることも必要な事だと付け加えられています。

D ぶよとらくだ v.24
23:24 目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。
 ぶよは汚い小さな虫です。飲み物にぶよが入った時はこして除くのは普通でした。しかし、らくだを飲み込んでいるとはありえない話です。ここでも、らくだは大きなことを示す比喩として用いられています。つまり、律法学者たちは小さな罪を犯さないように気をつけているが、大きな罪を犯していると非難されています。
参照;マタ 19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
 主イエスがおっしゃっていることをまとめるなら、こういう事です。神を愛すること、人を愛することを棚に上げたままで、恰好だけ宗教的な衣服をまとい、細かい規定を守り、十分の一をきちっとおさめ、教会の集会にはすべて出席し、聖書を毎日通読していても、それは形だけであり、偽善なのだと。神を愛する心と隣人を愛する心を失ってしまうなら、どんな行いも主の忌み嫌われることです。使徒パウロは次のように書いています。
Tコリント13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 パウロの書いたことは、イエス様が律法学者たちにあびせられた厳しい非難の言葉とまったく同じなのです。

3.指導者の正しい態度 v.6-12

23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

参照;8 "But you are not to be called 'Rabbi,' for you have only one Master and you are all brothers. 9 And do not call anyone on earth 'father,' for you have one Father, and he is in heaven. 10 Nor are you to be called 'teacher,' for you have one Teacher, the Christ. (NIV)
 この箇所の解釈は大きく分かれています。そのため牧師を認めない教会もあります。先生と呼ばずに兄弟と呼び、牧師ではなく代表者、長老とする教会もあります。私が信仰へ導かれたのは山口県の瀬戸内海に浮かぶ周防大島にあった小さな教会でした。アメリカ人宣教師が開拓された教会でした。その頃は教会に集う人はみな、「〜先生」と呼ばず、「〜さん!」と呼んでいました。数年後、私は献身して聖書学校へ入学しました。当初、どうしても慣じめなかったのは、牧師を「〜先生」と呼んでいる事でした。「聖書では先生と呼んではいけないと書いているのに、どうして先生と呼ぶのだろう?」と疑問に思っていました。週報を見ると、「〜師」とも書いてありましたので不信感が募りました。しかし、神学校で学んでいく中で、「先生」は「ラビ」という言葉がギリシャ語で用いられており、日本語の「先生」とは意味合いが違うという事で一応納得したのですが、「師」とは先生の事ですから、疑問は残りました。
 イエス様がここで教えられていることを注意深く考えるなら、「先生」と呼ばれることが問題なのではなく、「先生」という権威が問題なのだと分かります。私たちの住んでいる社会ではたくさんの人が「先生」と呼ばれます。学校の先生、医者、国会議員、保母さんも先生です。習字の先生、ピアノの先生、その道のプロで指導に当たる人は皆、先生と呼ばれます。もし、イエス様の言葉通り、この地上で誰をも「先生」と呼んではいけないとなると、日本では相当なひねくれものとなるはずです。(牧師を先生と呼ばない教会に集っている人たちも、社会に出れば、ある人は先生と呼ばれたり、他の人を先生と呼んでいるのです。) 
 また、地上で誰も「父」と呼べないなら、父親を何と呼べばいいでしょう?「兄弟」でしょうか?・・・おかしな話です。従って、イエス様の教えの真意を知るべきです。それは、「真理を教える権威者として崇めることをしてはならない」という事です。牧師には真理の権威があるのではありません。聖書に真理の権威があるのです。ですから牧師の権威が強くなりすぎるのは問題です。「牧師の言う事なら間違いない」とするなら、考え違いです。牧師も間違う時があります。したがって、人々に聖書を教える立場として先生と呼ばれても、「絶対的権威者としての先生ではない」のです。(ユダヤ人社会でのラビの権威があまりにも強いことが背景にあります)
 この主イエスの教えを完全に無視して、権威者として崇められている人がいます。ローマ教皇です。彼はカトリックの人から「ポープPope」と呼ばれます。日本では「パパ様」と呼ばれています。ローマ・カトリックがどんなに聖書的に改革を進めようとも、教皇を認めている限り、聖書に従っていないことになります。イエス様が再臨されたなら、律法学者たちに言われたことと同じことをカトリックの指導者たちに言われることでしょう。

 見せかけだけの人たちが求めているものは常にこの世における賞賛です。誉められ、称えられ、崇められることです。自分の意見に従わせたいという肉の欲求です。宴会の上座や会堂の上席が大好きです。ピラミッド社会の上に立ちたいのです。神様の栄光をあらわすのではなくて、自分の栄光を求めています。
 イエス様は次のように言われました。
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 繰り返し、このことを教えられました。指導者は常にこの様にあるべきです。今日の説教は牧師のために語っているようですけれど、大切な事です。私たちはクリスチャンとして伝道や奉仕に熱心になればなるほど、プライドが強くなり、人を裁き、憐れみの心を忘れてしまいがちです。そうならないように気をつけましょう。
Tテモテ 4:16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。