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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書23章1-24節「律法学者たちに対する非難」



1.きびしい非難の言葉

23:13 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。
23:15 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは改宗者をひとりつくるのに、海と陸とを飛び回り、改宗者ができると、彼を自分より倍も悪いゲヘナの子にするのです。


 23章に入ると、心がかたくなな指導者たちに対する厳しい非難の言葉が続きます。この説教は、イエス様が十字架に架けられる三日前で、公に人々に語られた最後の説教となっています。

 マタイによる福音書では、イエス様の公生涯は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」という説教で始まりました。「八福の教え」と呼ばれます。そして23章の「わざわいだ」という説教で終わります。文語訳ではその対称を明らかにして「幸いなるかな」に対して「禍(わざわい)なるかな」と訳しています。

※23章14節は古い写本にはないため、マルコ、ルカを参照して挿入されたと考えられています。おそらく山上の説教に合わせて八つに揃えたと思われます。新改訳2017では省かれています。
23:14 〔わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはやもめの家を食いつぶし、見えのために長い祈りをしています。だから、おまえたちは人一倍ひどい罰を受けます。〕

 日本は和の国であり、平和主義国家ですので、あからさまに人を非難することを嫌います。争う事より、穏便にふるまうことを美徳と考えます。聖書もすべての人と平和を保つことを大切な事と教えていますが、イエス様はなぜ律法学者たちを激しく非難されたのでしょうか?・・それは彼らがイスラエルの指導者たちだったからです。人々を正しく導くべき人たちであるのに、間違った道へ人々を導いていたからです。

2.指導者たちの堕落した姿

@ 有言不実行
23:1 そのとき、イエスは群衆と弟子たちに話をして、
23:2 こう言われた。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。
23:3 ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。
23:4 また、彼らは重い荷をくくって、人の肩に載せ、自分はそれに指一本さわろうとはしません。


 「モーセの座を占めている」とは、教える立場にあるという事です。彼らが律法の規定をこと細かく遵守していたことは周知の事実です。安息日の規定、ささげものの規定等々。しかし、イエス様は「実行していない」と言われたのはどういう事でしょう?・・・それは律法の規定は行なっているが、律法の目的を行なっていないということです。

 最も大切な戒めは、神を愛することと、隣人を愛することだとイエス様は教えられました。指導者たちはその最も大切な戒めを破っていたのです。彼らのしていることは見せかけだけでした。人々に重い荷を載せるだけ載せて、それを助け支えてあげるために、指1本も出さない。律法を少しも実行していないのだと主は非難されたのです。

A テフィリンtefillinとツィーツィートTzitzit
23:5 彼らのしていることはみな、人に見せるためです。経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりするのもそうです。

 具体的に彼らがしていることは「経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたりする」のです。経札とは前に学びましたが、「シェマ・イスラエル」と呼ばれる戒めを書いた羊皮紙を革の小箱(テフィリン) に収め、一つは左上腕に、もう一つは額に巻きつけて朝夕の祈りをします。見栄を飾る人はその箱をだんだんと大きくしたのです。

 「着物のふさを長くする」・・ユダヤ人はツィーツィートと呼ばれる四つのふさが付いている服(タリート)を着て祈りをします。民数記の中にその規定があります。
民15:38 「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。
15:39 そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、【主】のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、

 熱心な信者と見られたい人たちは、そのふさをどんどん長くしていきました。そうすることで自分たちは敬虔な信仰者であると主張したいのです。

B 誓い
23:16 わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
23:17 愚かで、目の見えぬ者たち。黄金と、黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
23:18 また、言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
23:19 目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
23:20 だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさして誓っているのです。
23:21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
23:22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです

 文面通りに受け取るなら、ユダヤ人は誓いを破った罰則から逃れるために、逃げ道を作っていたことが分かります。誓いの罰則から逃れるために、「私は神殿の黄金を指して誓っていない」「私は祭壇の上の供え物を指して誓っていない」と言えば良しとされていたようです。イエス様はその考え方を完全否定されました。

C はっか、いのんど、クミン
23:23 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。

 はっか、いのんど、クミンは植物で、粉末状にして薬用、調味料として用いられるものです。収穫物の中ではとても小さなものです。パリサイ人等はこれらの細かな収穫でも申命記14:22の「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。」という規定に従い、きっちり十分の一を計ってささげました。それなのに「正義とあわれみと誠実を、おろそかにしている」と主イエスは非難されました。
 ただし誤解が生じないように、「十分の一もおろそかにしてはいけません。」と、規定を守ることも必要な事だと付け加えられました。

D ぶよとらくだ
23:24 目の見えぬ手引きども。ぶよは、こして除くが、らくだは飲み込んでいます。

 ぶよは汚い小さな虫です。飲み物にぶよが入った時はこして除くのは普通でした。しかし、らくだを飲み込んでいるとはありえない話です。ここで、らくだは大きなものを示す比喩として用いられています。つまり、律法学者たちは小さな罪を犯さないように気をつけているが、大きな罪を犯していると非難されています。


 主イエスは彼らの形だけの宗教を叱責されています。神を愛すること、人を愛することを棚に上げ、恰好だけ宗教的な衣服をまとい、細かい規定を守り、十分の一をきちっとおさめている。神の言葉を毎日唱え、身に付けて祈っている。――それは形だけの宗教です。神を愛する心と隣人を愛する心を失ってしまうなら、どんな行いも偽善です。使徒パウロは次のように書いています。

Tコリント13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13:3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

 パウロが書いたことは、イエス様が律法学者たちにあびせられた厳しい非難の言葉とまったく同じなのです。

3.指導者の正しい態度


23:6 また、宴会の上座や会堂の上席が大好きで、
23:7 広場であいさつされたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。
23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
23:9 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

参照;8 "But you are not to be called 'Rabbi,' for you have only one Master and you are all brothers. 9 And do not call anyone on earth 'father,' for you have one Father, and he is in heaven. 10 Nor are you to be called 'teacher,' for you have one Teacher, the Christ. (NIV)

 この箇所の解釈は分かれています。そのため牧師を認めない教会もあります。「先生」と呼ばずに兄弟と呼び、「牧師」ではなく代表者、長老とする教会もあります。

 私が信仰へ導かれたのは山口県の瀬戸内海に浮かぶ周防大島にあった小さな教会でした。アメリカ人宣教師が開拓された教会でした。その頃は教会に集う人はみな、「〜先生」と呼ばず、「〜さん」と呼んでいました。数年後、私は献身して聖書学校へ入学しました。当初、どうしても慣じめなかったのは、牧師を「〜先生」と呼んでいる事でした。
 「聖書では先生と呼んではいけないと書いているのに、どうして先生と呼ぶのだろう?」と疑問に思っていました。週報を見ると、「〜師」とも書いてありましたので不信感が募りました。しかし、神学校で学んでいく中で、「先生」は「ラビ」という言葉が用いられており、日本語の「先生」とは意味合いが違うという事で一応納得したのですが、「師」とは先生の事ですから、疑問は残りました。

 私たちが住んでいる社会では多くの人が「先生」と呼ばれます。学校の先生、医者、議員、保母さんも先生です。習字の先生、ピアノの先生、その道のプロで指導に当たる人は皆、先生と呼ばれます。もし、イエス様の言葉通り、誰をも「先生」と呼んではいけないとなると、日本では相当なひねくれ者となるはずです。(牧師を先生と呼ばない教会に集っている人たちも、社会に出れば、ある人は先生と呼ばれたり、他の人を先生と呼んでいるのです。)


 また、地上で誰も「父」と呼べないなら、肉の父親を何と呼べばいいでしょう?「兄弟」でしょうか?・・おかしな話です。従って、イエス様の教えの真意を知るべきです。それは、「真理を教える権威者として崇めることをしてはならない」という事です。牧師に真理の権威があるのではありません。聖書に真理の権威があるのです。ですから牧師の権威が強くなりすぎるのは危険です。「牧師の言う事なら間違いない」とするなら、大問題です。したがって、人々に聖書を教える立場として先生と呼ばれても、「絶対的権威者としての先生ではない」のです。(ユダヤ人社会でのラビの権威があまりにも強いことが背景にあります)

 この主イエスの教えを完全に無視して、権威者として崇められている人たちがいます。その一人がローマ教皇です。彼はカトリックの人から「ポープPope」と呼ばれます。日本では「パパ様」と呼ばれています。ローマ・カトリックがどんなに聖書的改革を進めようとも、教皇を認めている限り、聖書に従っていないことになります。イエス様が再臨されたなら、律法学者たちに言われたことと同じことをカトリックの指導者たちに言われることでしょう。

 見せかけだけの人たちが求めているものは常にこの世における賞賛です。誉められ、称えられ、崇められることです。自分は正しく、人々を自分に従わせたいという肉の欲求です。宴会の上座や会堂の上席が大好きです。ピラミッド社会の上に立ちたいのです。神様の栄光をあらわすのではなく、自分の栄誉を求めています。

 イエス様は次のように言われました。
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 繰り返し、主イエス様はこのことを教えられました。指導者は常にこの御言葉を胸に刻んでおくべきです。
 同じように私たちクリスチャンは、伝道や奉仕に熱心になればなるほど、プライドが強くなり、人を裁き、憐れみの心を忘れてしまいがちです。周りの人から褒められたり、感謝されるとき、自分の内側の心に気をつけましょう。

Tテモテ 4:16 自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。