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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書23章25-39節「エルサレムに対する非難」



一、わざわい


@食器規定
23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。


 イエス・キリストは、約束されたメシアとしてエルサレムへ来られました。しかし、そこで見たものは指導者たちの不信仰でした。彼らに対する叱責の言葉が続きます。

 モーセの律法では、豚や、エビ、ウナギなどは食べてはいけないと規定されています。現在でもユダヤ教では、カシュルート(食事規定)により、食べてよいものと食べてはいけないものが厳格に区別されています。食べてもよい物は「コーシェル」(適正食品)と呼ばれます。

※食物規定参照
・牛、羊、鹿は食べてよいが、豚、馬、らくだ、兎、犬、猫、猿、狼、熊などは食べていけない。
・鳥肉では、鶏、あひる、がちょう、七面鳥、鳩は食べてよい。それ以外の野鳥は食べてはいけない。
・適切な処理が施されていない肉、レアステーキなど血の付いた肉、乳製品と肉料理の組合せは食べてはいけない。
・爬虫類、両生類、昆虫は食べてはいけない。ただし、イナゴは食べてもよい。
・魚類ではウロコとヒレがある魚は食べてよい。イワシ、アジ、サバ、コイ、フナ、マグロ、カツオなど。ウナギ、ナマズ、アナゴ、クジラ、サメは食べてはいけない。
・貝類、甲殻類では、エビ、カニ、タコ、イカ、カタツムリは食べてはいけない。
・野菜や果物は基本的にすべて食べてよい。

 レビ記11章では食器についても規定があります。ユダヤ教のラビはさらに細かい規定を加え、食器を清める規定まで定めています。イエス様はそのことを取り上げ、「まず内側を清めなさい。そうすれば外側も清くなります」と教えられました。それは人の体と心について言及されています。外側をきれいにしても、心が汚ければそれは偽善に過ぎません。心を清めるなら、外側もきれいになります。

A白い墓
23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。



 当時、エルサレムの墓石は白く塗られていたそうです。それは美観目的、そして目立つようにするためです。エルサレムでは祭りの時には遠方からも多くのユダヤ人が集まってくるので、市内は人でごった返します。その時、誤って墓に触れてしまうと、律法の規定で「七日間、汚れる」とされました。
民数記 19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。
 そうなると礼拝のためにエルサレムへ遥々やってきたのに、神殿で礼拝することができなくなります。それを防ぐため墓石が目立つように白く塗られたのです。イエス様はその白い墓を例として取り上げ、律法学者たちは白い墓のように外側はきれいに見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだと非難されました。

B預言者の墓
23:29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
23:30 『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。
23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
23:32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。


 次に彼らが預言者たちの墓を建て、記念碑を飾っていることをイエス様は取り上げられました。葬られた預言者たちの中には、ユダヤ人の指導者たちによって殺された預言者が多くいたからです。「私たちなら〜仲間にならなかった」と弁解しても無駄です。なぜなら、今まさに神から遣わされたキリストを迫害し、殺そうとしていたからです。「罪の目盛りの不足分を満たせ」と言われたのは、彼らが悔い改めないことを主イエスはご存知であり、彼らがご自分を十字架に架けることを予告されたのです。



二、エルサレムへの非難


@殉教者の血の責任
23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
23:36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。

 エルサレムの指導者たちに対する糾弾が頂点に達しました。語り手はキリストですが、歴史全体を通してイスラエルが犯してきた罪を責めているので、父なる神の代弁者としての宣言になっていると思われます。
 34節ではキリストが遣わす弟子達というより、神と御子が遣わす預言者、使徒たちという意味合いが強いと思われます。37節の「幾たび集めようとした」とは、キリストの宣教だけを言っているのではなく、神がイスラエルを何度も集めようとされたという事です。

 アベルは旧約聖書における最初の殉教者です。そしてザカリヤは、第二歴代誌に登場する最後の殉教者と言えます。
※ユダヤ教徒が持つヘブル語聖書は私たちが持っている旧約聖書と同じ内容ですが、書簡の順番が違います。ユダヤ人の聖書では第二歴代誌が最後の書簡となっています。

 アベルもザカリヤも敵によって殺されたのではありません。アベルは兄カインによって殺されました。ザカリヤは同胞のユダヤ人指導者たちによって殺されました。この二つの聖書箇所を開きましょう。

創世記4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
4:9 【主】はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。


  兄弟喧嘩が殺人の理由ではありません。カインは弟アベルの信仰を憎みました。アベルは神に受け入れられ、自分は受け入れられなかった・・だから弟を殺しました。したがってアベルは最初の殉教者と言えます。殺されたアベルの血が正しいさばきを求めて神様に叫んでいるのです。

U歴代誌24:18 彼らはその父祖の神、【主】の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えたので、彼らのこの罪過のため、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
24:19 主は、彼らを【主】に立ち返らせようと預言者たちを彼らの中に遣わし、預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。
24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高い所に立って、彼らにこう言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ、【主】の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。』あなたがたが【主】を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」
24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、【主】の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。
24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、「【主】がご覧になり、言い開きを求められるように」と言った。


  預言者ザカリヤ(ゼカリヤ)はヨアシュ王と指導者たちによって殺害されました。自分たちの罪を責められたからです。ザカリヤの最期の言葉は「【主】がご覧になり、言い開きを求められるように」 でした。彼も神様に正しい審判を求めて叫んだのです。

 二つの記事とも、血の責任を要求しています。そのさばきを神様は必ずくだされます。正しい人が無念にも殺されたことを神様は怒っておられるからです。

 もう一つの箇所を開きましょう。キリストが十字架に架かられた時に、裁判を担当した総督ピラトは次のように言いました。

マタイ27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。


 ユダヤ人は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と言いました。そして主イエスを十字架に架けて殺したのです。彼らの罪の目盛りは、イエス・キリストを殺したことによって振り切れました。そのさばきをエルサレムは今、受けているのです。

Aこの時代にくだる神のさばき


 十字架以降、ユダヤ人がどんなに悲惨な歴史をたどってきたかは周知の事実です。
AD70年にエルサレムは焼き払われ、ユダヤ人は殺害され、生き残った人々は世界中に散らされました。その行く先々で迫害を受けました。第二次世界大戦ではホロコーストと呼ばれて、600万人以上のユダヤ人がガス室へ送られたり、虫けら同様に無残に虐殺されました。「ホロコースト」という言葉はもともと「全焼のいけにえ」を指すギリシャ語です。ユダヤ人の二千年にわたる悲惨な歴史の理由は、「神が遣わされた預言者たち、使徒たち、そして御子キリストを殺した血の責任」なのです。

※「あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」と主イエスは預言されました。しかし1948年にイスラエル国家が再建され、商業地や住宅街が建てられ、形だけはエルサレムは整備されています。けれどもエルサレムは依然として荒れ果てたままだと言えます。エルサレムの中心にはイスラム教の金のモスクが建てられており、異邦人によって踏みにじられています。


 ただし、誤解してはいけません。神にさばかれ呪われた民族としてユダヤ人を嫌う人たちがいますが、それは大きな誤りです。神様はイスラエルを捨てられたのではなく、苦しみを通して彼らが悔い改めて、再び神を愛する信仰を持つようになることを望んでおられるのです。次の御言葉でそれは明らかです。

B悔い改めるまで
23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」

『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』という言葉は、詩篇118篇26節の言葉です。詩篇118篇はメシア預言と賛美に満ちた詩篇で、「主が私たちを救ってくださる、助けてくださる」と歌います。しかし、途中に次の預言があります。

詩篇118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
118:23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
118:24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。


 キリストが人々に捨てられることを預言しています。しかし、これは主が設けられた日であり、神様のご計画でした。この日を楽しみ喜ぼう、と賛美するのです。

 イエス・キリストがエルサレムへ入城された時、多くの群衆は叫びました。
21:9 「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
 しかし、民の指導者たちは苦々しい思いで、イエスのエルサレム入城を見ていました。群衆も後にイエス・キリストを裏切り「十字架に付けろ」と叫びました。そのイスラエルの指導者たちと群衆が悔い改めて『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』という時までキリストは再臨されません。エルサレムの民が悔い改めて神様に立ち返ることを、主は待ち望んでおられるのです。