マタイによる福音書23章25-39節 「エルサレムに対する非難」 並行箇所;ルカ11:37-54

 イエス・キリストの公生涯における最初の説教は「八つの幸いな人」で始まり、最後の説教は「八つのわざわいの人」で終わります。イエス・キリストは救いのために来られたのに、人々が差し出された救いを拒んだ結果です。本日の聖書箇所は、先週に引き続き、律法学者、パリサイ人等に対する非難の言葉です。

一、第六のわざわい

23:25 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
23:26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。

※新改訳第二版では「忌まわしいものだ」と訳されています。
 旧約聖書(特にレビ記11章)では、豚や、兎、エビ、カニ、ウナギ、などは食べてはいけないと規定されています。ラクダもひずめがないので食べることが禁じられています。(24節で、彼らはラクダを飲み込んでいると言われたのは、律法を完全に犯しているという非難でした) 現在でもユダヤ教では、カシュルート(食事規定)により、食べてよいものと食べてはいけないものが厳格に区別されています。食べてもよい物は「コーシェル」(適正食品)と呼ばれます。
・牛、羊、鹿は食べてよいが、豚、馬、らくだ、兎、犬、猫、猿、狼、熊などは食べていけない。
・鳥肉では、鶏、あひる、がちょう、七面鳥、鳩は食べてよい。それ以外の野鳥は食べてはいけない。
・適切な処理が施されていない肉、レアステーキなど血の付いた肉、乳製品と肉料理の組合せは食べてはいけない。
・ハ虫類、両生類、昆虫は食べてはいけない。ただし、イナゴは食べてもよい。
・魚ではウロコとヒレがある魚は食べてよい。イワシ、アジ、サバ、コイ、フナ、マグロ、カツオなど。ウナギ、ナマズ、アナゴなどは食べてはいけない。クジラ、サメも食べてはいけない。
・貝類、甲殻類、エビ、カニ、タコ、イカ、カタツムリは食べてはいけない。
・野菜や果物は基本的にすべて食べてよい。
・通常、肉類用の食器と乳製品用の食器を分け、流しも肉用と乳製品用に分けます。

 また、レビ記11章では食器についても規定があります。ユダヤ教のラビはさらに細かい規定を加え、食器を清める規定を定めています。イエス様はそのことを取り上げ、まず内側を清めなさいと教えます。そうすれば外側も清くなると。・・・私たちの体と心について話しておられます。外側だけをきれいにしても、心が汚ければそれは偽善に過ぎないのです。まず心を清めるなら、外側もきれいになります。

二、第七のわざわい

23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。

 その当時、エルサレムにあるお墓の墓石は白く塗られていたそうです。それは目立つようにするためです。エルサレムでは祭りの時には遠方からも多くのユダヤ人が集まってくるので市内は人でごった返します。その時に誤って墓に触ってしまうと、聖書の規定で「七日間、汚れる」ことになります。
民数記 19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。
 そうなると礼拝のためにエルサレムへ遥々やってきたのに、神殿で礼拝することができなくなります。そのため墓石が目立つように白く塗られたのです。イエス様はその墓を例として取り上げ、律法学者たちは白い墓のように外側はきれいに見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだと非難されました。

三、第八のわざわい

23:29 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って、
23:30 『私たちが、父祖たちの時代に生きていたら、預言者たちの血を流すような仲間にはならなかっただろう』と言います。
23:31 こうして、預言者を殺した者たちの子孫だと、自分で証言しています。
23:32 おまえたちも父祖たちの罪の目盛りの不足分を満たしなさい。

 ここでは彼らが殉教した預言者たちの墓を建て、記念碑を飾っていることをイエス様は取り上げて非難しています。葬られた預言者たちの中には、ユダヤ人の指導者たちによって殺された預言者が多くいたからです。「私たちなら〜仲間にならなかった」と弁解しても無駄です。なぜなら、今まさに神から遣わされたキリストを迫害し殺そうとしているからです。「罪の目盛りの不足分を満たせ」と言われたのは、彼らが悔い改めないことを主イエスはご存じであり、彼らがご自分を十字架に架けることを予告されています。

四、エルサレムへの非難

@殉教者の血の責任
23:33 おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。
23:34 だから、わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害して行くのです。
23:35 それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来るためです。
23:36 まことに、おまえたちに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
23:37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
23:38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。

 旧約時代においてイスラエルの指導者たちが預言者たちを迫害し殺したと同じように、キリストが遣わす使徒たちや弟子たちを彼らが迫害し殺していくことを預言されています。それゆえエルサレムには神のさばきがくだると預言されました。
※34節、37節はキリストが語り手ですが、歴史全体を通してイスラエルが犯してきた罪を責めているので、父なる神の代弁者としての宣言になっていると思われます。34節ではキリストが遣わす弟子達というより、神と御子が遣わす預言者、使徒たちという意味合いが強いと思われます。37節では「幾たび集めようとした」とは、キリストの宣教だけを言っているのではなく、神がイスラエルを何度も集めようとされたという事です。ルカ福音書ではそういうニュアンスで書かれています。ルカ 11:49 だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。
 アベルは旧約聖書における最初の殉教者です。そしてザカリヤは、第二歴代誌に登場する殉教者です。ユダヤ教徒が持つヘブル語聖書は私たちが持っている旧約聖書と同じ内容ですが、書簡の順番が違います。ユダヤ人の聖書では第二歴代誌が最後の書簡です。つまり聖書の最初の殉教者から最後の殉教者までの血の責任として、エルサレムに神の裁きがくだるのです。
 アベルもザカリヤも敵によって殺されたのではありません。アベルは兄カインによって殺されました。ザカリヤは同胞のユダヤ人指導者たちによって殺されました。この二つの聖書箇所を開きましょう。
創世記4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。
4:9 【主】はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」
4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

  兄弟喧嘩が殺人の理由ではありません。カインは弟アベルの信仰を憎みました。アベルは神に受け入れられ、自分は受け入れられなかった・・だから殺しました。したがってアベルは最初の殉教者といえます。殺されたアベルの血が正しいさばきを求めて神様に叫んでいるのです。
U歴代誌24:18 彼らはその父祖の神、【主】の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えたので、彼らのこの罪過のため、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。
24:19 主は、彼らを【主】に立ち返らせようと預言者たちを彼らの中に遣わし、預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。
24:20 神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤを捕らえたので、彼は民よりも高い所に立って、彼らにこう言った。「神はこう仰せられる。『あなたがたは、なぜ、【主】の命令を犯して、繁栄を取り逃がすのか。』あなたがたが【主】を捨てたので、主もあなたがたを捨てられた。」
24:21 ところが、彼らは彼に対して陰謀を企て、【主】の宮の庭で、王の命令により、彼を石で打ち殺した。
24:22 ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、「【主】がご覧になり、言い開きを求められるように」と言った。

※歴代誌ではゼカリヤの父はエホヤダですが、マタイではバラキヤとなっています。考えられる理由は、@別名、通称A写字生の間違いBバラキヤは祖先
  預言者ザカリヤ(ゼカリヤ)はヨアシュ王と指導者たちによって殺害されました。自分たちが犯している罪を責められたからです。ザカリヤの最期の言葉は「【主】がご覧になり、言い開きを求められるように」 でした。彼も神様に正しい審判を求めて叫んだのです。二つの記事とも、血の責任を要求しています。そのさばきを神様は必ずくだされます。正しい人が無念にも殺されたことに対して神様は怒っておられるからです。
 もう一つの箇所を開きましょう。キリストが十字架に架かられた時に、裁判を担当した総督ピラトは次のように言いました。
マタイ27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 ユダヤ人は「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」と言いました。そして主イエスを十字架に架けて殺したのです。彼らの罪の目盛りは、イエス・キリストを殺したことによって振り切れました。そのさばきをエルサレムはいま、受けているのです。

Aこの時代にくだる神のさばき
 十字架以降、ユダヤ人がどんなに悲惨な歴史をたどってきたかは周知の事実です。AD70年にエルサレムは焼き払われ、ユダヤ人は殺害され、生き残った人々は世界中に散らされました。その行く先々で迫害を受けました。第二次世界大戦ではホロコーストと呼ばれて、600万人以上のユダヤ人がガス室へ送られたり、虫けらと同じように無残に殺されました。「ホロコースト」という言葉はもともと「全焼のいけにえ」を指すギリシャ語だそうです。ユダヤ人の2000年にわたる悲惨な歴史の理由は、「神が遣わされた預言者たち、使徒たち、そして御子キリストを殺した血の責任」なのです。
※「あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」と主イエスは預言されました。1948年にイスラエル国家が再建されました。商業地や住宅街が建てられ、形だけはエルサレムは整備されています。しかし、エルサレムは依然として荒れ果てたままだと言えます。エルサレムの中心にはイスラム教の金のモスクが建てられており、異邦人によって踏みにじられています。
 ただし、誤解してはいけません。神にさばかれ呪われた民族としてユダヤ人を嫌う人たちがいますが、大きな誤りです。神様はイスラエルを捨てられたのではなく、苦しみを通して彼らが悔い改めて、再び神を愛する信仰を持つようになることを望んでおられるのです。次の御言葉でそれが明らかです。

B悔い改めるまで
23:39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』という言葉は、詩篇118篇26節の言葉です。詩篇118篇はメシア預言と賛美に満ちた詩篇で、「主が私たちを救ってくださる、助けてくださる」と歌います。しかし、途中に次の預言があります。
詩篇118:22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
118:23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
118:24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

 キリストが人々に捨てられることを預言しています。しかし、これは主が設けられた日であり、神様のご計画でした。この日を楽しみ喜ぼう、となるのです。
 イエス・キリストがエルサレムへ入城された時、多くの群衆は叫びました。
21:9 「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
 しかし、民の指導者たちは苦々しい思いで、イエスのエルサレム入城を見ていました。群衆も後にイエス・キリストを裏切り「十字架に付けろ」と叫びました。そのイスラエルの指導者たちと群衆が悔い改めて『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』という時までキリストは再臨されない、と預言されています。エルサレムに対するさばきの預言ですが、エルサレムの民が悔い改めて神様に立ち返ることを主が待ち望んでおられることを示しています。
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 イスラエルが犯してきた罪と神様のさばきを知るときに、私たちは本当に悔い改めなければならないと教えられます。楽な生活や便利な生活を追い求めているばかりで、神様に目を向けず、感謝もせず、外側のきれいさばかりを求めているなら、心がますます汚れていきます。福音のことばを聞いても、無関心を続けるなら神様のさばきがくだることを覚えておかなければなりません。神様の願いは私たちが信仰者となり、感謝と賛美をもって生きることです。キリストの福音こそ私たちの希望の光です。