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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書24章32-51節「目を覚ましていなさい」

 イエス・キリストは世の終わりに起こることを預言されました。それは罪の世界に対する神様のさばきの時です。今日の聖書箇所では、終末の時代における心構えを教えられました。


一、預言通り

24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。


 いちじくの枝が柔らかくなって、葉っぱが茂ってくると夏が近いと分かるように、世の終わりの前兆が現れたら、世の終わりが近いのです。
人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」とはイエス様が再び地上へ降りて来られることを預言しています。その時がこの時代の終わりです。

 主イエスは多くの前兆を預言されました。偽キリストや偽預言者の出現、地震や飢饉、世界戦争、そして反キリストの出現等・・それらは必ず起こることだと。
 それらの前兆がすでに起こり始めています。そして近い将来、教会の空中携挙があり、反キリストが登場し、ユダヤ人大迫害が起こります。そしてキリストが地上再臨されて世の終わりが来るのです。

 しかし、キリストの再臨と世の終わりがいつ来るのかは誰にも分かりません。
24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

 ですから、「世の終わりが何時何時来る・・」と預言をする人が現れたら、偽預言者ですから気を付けてください。


 韓国において 「タミ宣教会」という新興宗教団体が「1992年10月28日に世界が終末を迎え、キリストが再臨する」と予言し、信者約三千人が各地の教会に集まり、祈りを捧げながら「最後の時」を待ちました。結局その日の24時になっても何も起きず、教祖の李牧師が「終末は来ませんでした」と宣言。信者達はがっかりし、ある信者たちは暴言を吐きながら家路に着きました。李牧師はその後、詐欺罪で逮捕されました。信者たちに「世の終わりが来るから財産を売り払って献金しなさい」と教えていたからです。

 この偽預言は、16歳の少年が「神から啓示をいただいた」という証しから始まりました。現在でも、カリスマ派と呼ばれる人たちの多くは「神様から言葉をいただいた!」と自慢のように証しします。「神様が啓示を与えられる」という信仰が人々を異端へと導きます。どうか惑わされないでください。私たちは夢や幻を信じるのではなく、聖書の言葉を信じて歩むのです。

※この節が問題視されるのは、「世の終わりがいつ来るか、イエス・キリストも知らない」という点です。キリストの神性を否定する人たちは、この節を根拠に「イエス・キリストは神ではない」と教えます。しかし、三位一体の教理は聖書全体の教えから理解されるべきものです。受肉されたイエス様にはすべてが知らされていなかったと考えられます。イエス様は赤ちゃんで生まれ、地上生涯を信仰者の模範として歩まれたため、肉の弱さ、知恵、知識の弱さを持たれたのです。
 参照;ルカ 2:40
幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。

二、再臨の日に備えて

 主イエスの地上再臨がどのように起こるのかを、三つのたとえを用いて教えられました。
@ノアの日のよう A泥棒のよう B留守中の主人のよう

 共通して教えられていることは、キリストが再臨されるのは思いがけない日、思わぬ時間だという事です。世の終わりの前兆を気にせず、自分の生活の事ばかりに気を取られているなら、まったく思わぬ時に再臨が起こり、悲しみながらキリストの姿を見ることになります。なぜなら、さばきの時が来たからです。

@ノアの日のよう 
24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。



 ノアの時代、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。悪い事ではありません。問題なのは、それだけだったからです。神の言葉を気にかけず、ノアの宣教の言葉に耳を傾けず、箱船が造られていくのを見ても何とも思いませんでした。彼らはノアを通して与えられた神の警告を無視したのです。

創世記6:9-13 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

 彼らは洪水に飲み込まれて死んでしまいました。
今の時代もノアの時代と同じように堕落した世界になっていくでしょう。人々の愛は冷たくなり、倫理的に堕落し、暴動や狂った殺人が増えるでしょう。その様な社会ですから、神の言葉を信じる信仰がなければ、社会の罪に巻き込まれてしまいます。神様の側に立つ勇気を持ちましょう。非難されても、脅されても、信じたとおりに生きていきましょう。教会に集まり、忠実に礼拝をささげることは、私たちが主の民であり、この世の人と同じように歩んでいないことの良きあかしです。どうか世の誘惑に惑わされないでください。

※40−41節は空中携挙の様子に似ているため、この箇所は空中携挙について教えていると解釈されがちです。しかし、マタイ24:31節「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」は地上再臨の時の様子を預言していることが明らかですので、御使いによって選民が集められるその様子と解釈されるべきです。

A泥棒のよう
24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

 二つ目のたとえは「泥棒のよう」です。イエス様の再臨を泥棒が空き巣に入ることに例えるのは何ともユニークです。

 私が子供のころ住んでいた家に空き巣泥棒が入りました。なぜ空き巣に入られたか理由は分かっています。何月何日、何時何分に泥棒が来るかを知らなかったからです。知っていれば泥棒対策を出来たはずです。イエス様がここで語っておられるのはそういう事です。知っていればわざわいに遭わなくて済むのです。この世の終わりの前兆を知っていれば、わざわいに遭わなくて済みます。主の再臨に備えることが出来るのです。


B留守中の主人のよう
24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、
24:49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
24:50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
24:51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 三つ目のたとえは、留守中の主人です。
 責任を任されていたのに、主人はまだまだ帰ってこないだろうと思い、やりたい放題の管理をしていたとき、主人が突然、帰ってきます。その時、しもべはきびしく罰せられます。

 このたとえで描かれているしもべとは、主イエスが再臨される時に、選民としての使命を果たさず、福音を宣べ伝えず、自分の思いのままに生きている人々です。ノアの話と同じで「食べたり飲んだりして」とあります。それだけなのです。食べて、飲んで、仕事をして、寝て起きて、また食べて・・その繰り返しです。神の言葉を無視して生きる姿です。彼らにくだる神のさばきは確実です。「しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 ルカによる福音書の並行箇所では次のように記されています。
ルカ 21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。

 苦しい時代、困難な時代になると、人々は投げやりになって放蕩し、深酒になり、悩みばかりの毎日になります。そうなると、ますます神様の言葉に目を向けなくなってしまいます。だから気をつけなさい、と警告されています。

 これら三つのたとえを通して、イエス様は終末の時代に生きる人々に「
目を覚ましていなさい」と警告されています。世の終わりの前兆を見逃してはいけません。世界情勢に関心を持つべきです。いま私たちは世界各国の様々なニュースを見聞きすることが出来るのは感謝すべきことです。特にイスラエルの動向に関心を持つことは重要です。

 この後、イエス様は弟子たちを伴ってゲッセマネの園へ行き、祈られました。弟子たちは眠くて眠くて居眠りをはじめました。その時のイエス様の言葉は、
マタイ 26:41「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
でした。私たちが誘惑に陥らないための一番の良い対策は「祈ること」だと教えられています。暗い時代になればなるほど、迫害はきびしくなり、信仰から人々は離れていきます。ですから目を覚まして、祈り続けることが必要です。