マタイによる福音書24章32-51節 「目を覚ましていなさい」 並行箇所;マルコ13:28-37 ルカ21:29-36

 先週、この時代の終わりに起こることについて学びました。反キリストの出現について詳しく学び、キリストが再臨される時にはオリーブ山に立たれることを預言から学びました。今朝の聖書箇所は、終末の時代における心構えについて教えておられます。「目を覚ましていなさい」と主イエスは言われました。

一、預言通りになる

24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

 「いちじくの木を見なさい」と言われます。その枝が柔らかくなって、葉っぱが茂ってくると夏が近いと分かる…同じように、世の終わりの前兆が現れたら、世の終わりが近いのです。「人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」・・地上再臨の事であり、その時がこの時代の終わりです。
※「この時代」とは・・・ギリシャ語:ゲネア(一世代、一時代、時代を示す言葉) いつからいつまでをイエス様は言われているでしょうか?・・・主イエスが御国の福音を語られた期間から、異邦人に与えられた教会時代、そして患難期を含めるなら、「御国の福音が宣べ伝えられる時代」と言えます。あるいは、「この時代」をアダムとエバの時代から患難期終わりまでとするなら、「人間が支配する時代」と考えることが出来ます。
 主イエスは多くの前兆を話されました。偽キリストや偽預言者の出現、地震や飢饉、世界戦争、そして反キリストの出現など・・それらは必ず起こることだと宣言されます。なぜなら、イエス・キリストが語られた言葉は神の言葉だからです。歴史はそれを証明してきました。イエス・キリストの言葉は二千年経った今も宣べ伝えられています。ローマ帝国のディオクラチアヌス帝をはじめとして多くの支配者たちがクリスチャンたちを迫害し、聖書を焼き払い、キリスト教を撲滅しようとしてきました。しかし、迫害されればされるほど、キリストの福音は広まっていきました。前兆として主イエスが預言された戦争、地震、飢饉、偽キリストがすでに起こっています。そして近い将来、教会の空中携挙が必ず起こり、反キリストが登場し、ユダヤ人大迫害が起こります。そしてキリストが地上再臨されて世の終わりが来るのです。

 しかし、キリストの再臨と世の終わりがいつ来るのかは誰にも分からないと教えられました。
24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
 ですから、「世の終わりが何月何日に来る」というような預言をする人が現れたら、偽預言者だと考えてください。その日を誰も知ることが出来ないからです。
 平成4年の10月28日、韓国において 「タミ宣教会」という新興宗教団体が「10月28日に世界が終末を迎え、キリストが再臨する」と予言し、信者達約三千人が各地の教会に集まり、祈りを捧げながら「最後の時」を待ちました。結局その日の24時になっても何も起きず、教祖の李牧師が「終末は来ませんでした」と宣言。信者達はガッカリし、ある信者たちは暴言を吐きながら家路に着いたそうです。李牧師はその後、詐欺罪で逮捕されました。信者たちに「世の終わりが来るから財産を売り払って献金しなさい」と教えていたからです。この預言の背景には、16歳の少年が「神から啓示をいただいた」ということから始まりました。現在、カリスマ派と言われる人たちは「神様から言葉をいただいた」という事を平気で証しします。「現在でも神様が啓示を与えられる」という信仰が人々を異端へと導きます。どうか惑わされないでください。私たちは夢や幻を信じるのではなく、聖書の言葉を信じて歩むのです。
 ※この節が問題視されるのは、「世の終わりがいつ来るか、イエス・キリストも知らない」という事です。キリストの神性を否定する人たちは、この節を根拠に「イエス・キリストは神ではない」と教えます。しかし、三位一体の教理は聖書全体の教えから理解されるべきものです。人としてお生まれになったイエス様にはすべてが知らされていなかったと考えられます。イエス様は地上生涯を信仰者の模範として歩まれたため、肉の弱さ、知恵、知識の弱さを持たれたのです。参照;ルカ 2:40 幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。

二、再臨の日に備えて

 主イエスの地上再臨の時がどのように起こるのかを、三つのたとえを用いて教えられました。
@ノアの日のよう A泥棒のよう B留守中の主人のよう
 共通して教えられていることは・・・イエス・キリストが再臨されるのは、思いがけない日、思わぬ時間だという事です。もしキリストが預言された世の終わりの前兆を気にかけず、自分の生活の事ばかりに気を取られているなら、まったく思わぬ時に再臨が起こり、悲しみながらキリストの再臨する姿を見ることになります。なぜなら、さばかれるからです。
@ノアの日のよう 
24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。
24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

 ノアの時代、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。悪い事ではありません。問題は、それだけだったからです。神の言葉に目を向けず、ノアの宣教の言葉にも耳を傾けず、箱船が造られていくのを見ても何とも思いませんでした。彼らはノアを通して与えられた神の警告を無視したのです。
創世記6:9-13 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。ノアは三人の息子、セム、ハム、ヤペテを生んだ。地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。
 彼らの結末は、洪水が神の言葉の通りに起こり、洪水に飲み込まれて死んでしまいました。今の時代もノアの時代と同じような堕落した世界になっていくはずです。政治的堕落や暴動、狂ったような殺人が増えるでしょう。性的犯罪、同性愛者も増えていきます。最近のニュースで、食品の偽装表示事件が取り上げられ、次から次へと偽装が出てきました。大会社の社長や取締役たちが、自分たちの利益のために平気で偽装を行っていました。その様な社会ですから、神の言葉を信じる信仰がなければ、社会の罪に巻き込まれてNO!ということが出来ず、自分も同じ罪を犯し続けることになります。神を信じない人たちの強要に対してNOという勇気を持ってください。神様の側に立つ勇気を持ってください。人をだますことが出来ても、天の神様をだますことは決してできません。日曜日に教会に集まり、忠実に礼拝をささげることは、私たちが主の民であり、この世の人と同じように歩んでいないことの良きあかしです。どうか世の誘惑に惑わされないでください。
※40−41節は空中携挙の様子に似ているため、この箇所は空中携挙について教えていると解釈されがちです。しかし、マタイ24:31節「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」は地上再臨の時の様子を預言していることが明らかですので、御使いによって選民が集められるその様子と解釈されるべきです。

A泥棒のよう
24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

 二つ目のたとえは「泥棒のよう」です。イエス様の再臨を泥棒が空き巣に入ることに例えるのは何ともユニークです。もし、説教者が「イエス様は泥棒のようにやって来ます」といったら、「ひどいたとえ話だ」とつまづかれるに違いありません。
 以前、私が子供のころ住んでいた家にも泥棒が入りました。なぜ空き巣に入られたか理由は分かっています。何月何日、何時何分に泥棒が来るかを知らなかったからです。知っていれば泥棒対策をしたのに、と後悔します。イエス様が言っておられることはそういう事です。知っていればわざわいに遭わなくて済むのです。この世の終わりの前兆を知っていれば、わざわいに遭わなくて済みます。主の再臨に備えることが出来るからです。

B留守中の主人のよう
24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。
24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。
24:48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、
24:49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
24:50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
24:51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

 三つ目のたとえは、留守中の主人です。(特に指導者たちに向けて語られているようです。)責任を任されていたのに、主人はまだまだ帰ってこないだろうと思い、やりたい放題の管理をしているとき、主人が突然、帰ってきます。その時、しもべはきびしく罰せられます。・・・このたとえで描かれているしもべとは、主イエスが再臨される時に、(イスラエル)選民としての使命を果たさず、福音を宣べ伝えず、自分の思いのままに生きている人々です。ノアの話と同じで「食べたり飲んだりして」とあります。それだけなのです。食べて、飲んで、仕事をして、寝て起きて、また食べて・・その繰り返しです。神の言葉を無視して生きている姿です。彼らにくだる神のさばきは確実です。「しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」
 ルカによる福音書の並行箇所では次のように書かれています。
ルカ 21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。・・・苦しい時代、困難な時代になると、人々は投げやりになって放蕩し、深酒になり、悩みばかりの毎日になります。そうなると、ますます神様の言葉に目を向けなくなってしまいます。だから目を覚ましていなさい、と警告されています。
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 これらのたとえを通して、イエス様は終末の時代に生きる私たちに「目を覚ましていなさい」と警告されています。預言された世の終わりの前兆を見逃してはいけません…世界情勢に関心を持つ必要があります。いま私たちは世界各国の様々なニュースを見聞きすることが出来ますから感謝なことです。特にイスラエルの動向に関心を持つことは大切です。
 この後、イエス様は弟子たちを伴ってゲッセマネの園へ行き、祈られます。弟子たちは眠くて眠くて居眠りをはじめます。その時の主イエスの言葉は、
マタイ 26:41「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」でした。私たちが誘惑に陥らないための一番の良い対策は「祈ること」だと教えられています。暗い時代になればなるほど、迫害はきびしくなり、信仰から人々は離れていきます。ですから目を覚まして、祈り続けることが必要です。
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 ※これらのたとえは第一義的には終末(患難期)に生きるイスラエル人に対して語られています。地上再臨されるキリストを迎えるために選民イスラエルは準備をしておくべきであることが教えられています。また、「すべてのイスラエルが救われる」のではなく、「主イエスを信じたすべてのイスラエルが救われる」ことを啓示しています。(マタイ22:11〜礼服を着ない人のたとえも同様)
 ※先週、二重預言について書きましたが、空中携挙は地上再臨のひな型として起こります。ですから空中携挙と地上再臨には似ている部分が多くあります。再臨についての預言の一部は、空中携挙によって成就されますが、その完全な成就は地上再臨において成就すると考えると、再臨預言が理解しやすいでしょう。