マタイによる福音書25章1-30節 「天の御国のたとえ」 参考箇所;ルカ19:11-28

 24章では、世の終わりの時代は、ちょうどノアの日のようだと学びました。「洪水前の人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり・・」でした。その時代の人々はそういう事にしか興味がなく、神様の存在や信仰などに全く関心を持ちませんでした。世の終わりのときも同じようになっていくことが預言されています。
 25章では、24章に続き世の終わりに起こることについて教えられています。この箇所は様々な解釈があり、聖書神学者たちを悩ませている個所です。しかし、正しい解釈なしに正しい説教はできません。また、イエス様が教えておられる主題から逸れて、道徳的な事や観念的な事だけを教えるなら、的外れです。正しい解釈に基づき、その真理に立つとき、神様の御心の内を歩むことが出来ます。ですから今日の説教も解釈から始め、神様のご計画と御心を知って、そして私たちの信仰生活に適応していきたいと思います。

 25章では「天の御国のたとえ話」が二つあります。
@花婿を迎える十人の娘のたとえ       Aタラントのたとえ
 24章に出てきた三つのたとえ話とは異なり、この二つのたとえ話は「天の御国は」という書き出しです。これが意味するところは、将来起こる出来事だけを預言しているのではなく、神の国における法則、神のご支配における普遍的な真理が教えられているという事です。
※マタイ福音書13章でも天の御国のたとえ話がありましたが、25章のたとえは二つの点で内容が大きく違います。@終末の出来事を預言している中でのたとえ話のため、世の終わりに関連付けられています。A教会について教えられていません。その理由として次の事が上げられます。@すでにイエス様の目は選びの民イスラエルと、神の都エルサレムに向いているから。A千年王国はイスラエルに対する約束の成就だから。B教会はすでに天に上げられているので、患難期には存在しないから。
 預言を理解するため、まず聖書が教える終末の出来事の表を参照してください。



一、花婿を迎える十人の娘のたとえ v1-13

25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

@解釈
・花婿・・イエス・キリスト
・場面・・婚礼の祝宴が始まろうとするときで、花婿がやってきます。・・キリストが地上再臨される時であり、千年王国が始まる時です。花嫁である教会はこのたとえでは登場していません。
・花婿を迎える10人の娘・・花嫁ではなく、花嫁に付き添う友人たち、ブライズメイド(bridesmaid)だと思われます。花婿が来るのを待ちわびている娘たち・・キリストが来られるのを待ちわびて眠り込んでしまった人々とは誰でしょう?・・・イスラエル人しか考えられません。その根拠は、旧約聖書ではイスラエル人を「シオンの娘」と呼んでいるからです。
イザヤ 62:11 見よ。【主】は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。
ミカ 4:8 羊の群れのやぐら、シオンの娘の丘よ。あなたに、以前の主権、エルサレムの娘の王国が帰って来る。
ゼカリヤ 2:10 シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。──【主】の御告げ──

 マタイ福音書で「娘」という言葉が出てくる一つ前の記事は
マタイ 21:5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
 キリストが王として来られるときに「シオンの娘」に伝えられるのです。最初のエルサレム入城はロバの子に乗って来られましたが、二度目は雲に乗って来られます。
・『そら、花婿だ。迎えに出よ』という声・・イスラエルが目を覚ます時です。それは患難期に入った時であり、イスラエルにリバイバルが起こる時です。
・『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』・・・油が彼女たちの運命を左右することになります。花婿であるキリストと共に千年王国に入るか、戸が閉められて王国に入れないか。それを左右するのは信仰以外ありません。油はイエス・キリストを信じる信仰を示しています。「信仰を分けてください」と頼まれても分けることはできません。「店に行って、自分のをお買いなさい。」は、自分で何とかしなさい!という事です。
※油は聖霊を示すという解釈が一般的ですが、患難時代には教会が引き上げられているため、聖霊の働きはあっても聖霊内住の奥義がない時代だと考えられます。
・ともしびは「聖書の御言葉」です。イスラエルは御言葉を与えられているのに油である信仰がない為、役に立たないのです。油(信仰)がきれている状態です。

Aたとえの目的
 このたとえの最終目的も、「目を覚ましていなさい」という事です。救い主が来られると知っていても、食べたり飲んだりの生活のことばかりで、信仰を持たず神の言葉に対して居眠りしている状態、つまり無視し続けているなら、さばかれて悲しみの中で永遠に過ごさなければなりません。主イエスが来られた時に「王国へ入れてください」といくら頼んでも聞かれない願いです。天の御国へ入るための唯一の鍵は「信仰」です。これはすべての時代における普遍的な真理です。
※「娘」が花嫁(教会)の友人という立場に注目して、「娘」を「患難期における異邦人」と解釈する考え方もありますが、イスラエル中心の話の流れを無視して異邦人のことを最初にたとえで話された、とは考えにくいでしょう。

二、タラントのたとえ v14-30

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。 25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

@解釈
・旅に出かけて帰ってくる主人・・イエス・キリスト。
・しもべたち・・・イスラエルを含めた全世界の人々
・タラント・・1タラントは6000デナリ。今のお金で約6000万円。5タラントなら約3億円です。イエス・キリストが残していかれた莫大な財産とは?・・・福音です。
 キリストは墓からの復活後、天に帰られる時に弟子たちに福音を託されました。そして世界中に福音が宣べ伝えられつつあり、世界中の人がタラントをいただくことになります。早くから福音が伝えられ多くタラントをいただく人々もあれば、最近になってやっと福音が伝えられた国々もあります。主イエスが帰って来られるときに、すべての人はその精算をすることになります。五タラント儲けた人も、二タラント儲けた人も、同じ言葉で誉められ、報いを受けます。しかし、一タラント預かった人は隠しておいただけで何の働きもしませんでした。
※ここから出てくる間違った教えは、「クリスチャンは主のために働かなかったら天の御国へ入ることはできません。天の御国へ入るために、熱心に礼拝し、献金し、伝道しましょう!」・・間違った解釈と適応です。なぜなら聖書は「信仰によってのみ人は救われる」ことを疑いの余地なく、教えているからです。

Aたとえの目的
 ここで問題とされているのは、一タラントを預かった人の態度と行いです。彼にとって神は恐ろしくて裁きをくだすおかたです。つまり彼は福音の中に罪の赦しがあることを全く理解していないという事です。ですから、福音の言葉を聞いても信じることが出来ず、それを隠しておいて、見もせず学ぶこともしない。当然、福音を伝えることもしないのです。・・つまり、彼は救われていない人です。だから彼はさばかれて、王国へ入ることが出来ません。教会時代の人々も患難期に生きるイスラエル人、異邦人にとってもこの原則は変わりません。キリストの福音を信じて罪の赦しをいただかなければ救われません。天の御国[王国]は、福音を信じ、罪を赦された人々(その人は当然、喜んで主に仕えることが出来る)が入る祝福の場所であることをこのタラントのたとえは啓示しています。ただし、神様のための働いた者に対して大きな報いが用意されているという事を教えられているのも確かです。

三、主イエスの願い
 24章32節から続くたとえ話に共通することは、「主イエスが再び帰って来られるので、いつ来られてもいいように目を覚まして準備していなさい」という事です。そのために必要なことはイエス・キリストによって与えられた福音を信じ、罪赦され、神を愛して神の栄光のために生きることです。これが主の再臨に対する備えです。教会にとってそれは空中携挙の時であり、イスラエルにとってそれは地上再臨の時です。

 ところで、あなたは死んだ後、自分がどこへ行くかご存知ですか?・・天国へ行きますか?・・・本当に行けますか?・・・はい、と答えることが出来る人は幸いな人です。
では、天国へ行ったならどういう状態でいるのでしょうか?聖書では「眠った人々」と書かれていますが、意識があるでしょうか?うれしいとか悲しいとかいう感情があるでしょうか?・・・あるはずです。天国へ行ったならずっと天国にいるのでしょうか?・・・将来、キリストと共に地上に降りてきます。そのとき私たちは栄光の身体をいただいています。

 神様の救いの計画は今も続いています。キリストを信じる人は信仰によって今すでに救われて永遠の命を持っています。けれども私たち人間には一度死ぬことが定められています。私たちの肉体は滅びてしまいます。しかし神様は私たちが栄光に輝く体をもってよみがえる計画を持っておられます。イエス様が帰って来られる時、その計画が実行に移されます。肉体の復活があって救いが完成したことなります。さらに「死」に対する完全な勝利として、人が死ぬことなく天に上げられる奥義があります。(空中携挙)
Tコリント15:51-54 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。
 今の私たちの信仰生活は永遠のための備えです。無くなったり、さび付いたり、壊れたり盗まれたりしない永遠の富をいただくための準備期間です。
マタイ6:20 「自分の宝は、天にたくわえなさい。」・・このイエス様の言葉こそ、私たちの生きる指針です。