マタイによる福音書26章1-16節 「信仰と不信仰」 並行箇所;マルコ14:1-11ルカ22:1-6 ヨハネ12:1-8

1.過越の祭り v.1-2

26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

 マタイはこの26章からイエス・キリストが十字架に架けられ、よみがえられるまでの出来事をまとめています。
 1節;「これらの話をすべて終えると」は、オリーブ山での説教のことでしょう。マタイ福音書では最後の晩餐での説教を記していません。これは「イスラエルの王として来られたキリスト」そして「天の御国の福音」というテーマにこだわったマタイの考えによるものと思われます。
 2節;主イエスはこれまで幾度かご自身が十字架にかけられ、よみがえることを弟子たちに話されました。しかし、この時には二日後の過越の祭りの日に十字架に架けられると予告されました。・・・過越の祭りの時に十字架に架からなければならないという事です。それが父なる神の御心だと。
 理解のために、過越の祭りについて説明します。
●イスラエル三大祭の一つ。現在でもほとんどのユダヤ人がお祝いし最も祝われています。ヘブル語でペサハ、英語でパスオーバー。過越の食事はセデルと呼ばれ、ハガダーという規定にしたがって長い時間をかけて食事をしていきます。その中で重要なものが3つあります。ペサハ(犠牲の子羊)、マッツァー(種なしパン)、マロール(苦菜)です。
出エジプト 12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。
●約3500年前、イスラエルがエジプトで奴隷として苦しんでいた時代、神様はモーセを指導者として立て、イスラエルをエジプトから助け出されました。その時、10の災害をエジプトに下しました。10番目のわざわいは、すべての家の最初に産まれた子供のいのちを取ると言うものでした。家畜の初子も同様でした。ただし、さばきを免れる方法として、子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗った家では神のさばきは通り過ぎ、守られると言うものでした。(出11章参照) イスラエル人はモーセを通して命令された神の言葉に聞き従い、家の鴨居と門柱に子羊の血を塗り、誰も死なずに済みました。しかし、エジプトの人々は、モーセを通して語られた神の言葉を聞かず、パロの息子をはじめとして、すべての家で初子が死にました。このさばきによりイスラエルはエジプトから脱出することが出来ました。
●この出来事は私たちにとっても重要な出来事です。なぜなら、犠牲の子羊は後に来られる救い主イエス・キリストを表していたからです。神様のご計画は、神の小羊であるイエス・キリストが十字架で血を流して死ぬことにより、私たちをさばきから救い出すことです。イスラエルがエジプトでの奴隷生活から救い出されたように、罪の奴隷という状態である私たちを救い出すために、キリストが血を流さなければなりませんでした。だからこそ、イエス・キリストが十字架に架けられるのは、過越の祭りの時であるべきなのです。
 しかし、十字架の道を歩まれるイエス・キリストに対する人々の反応は様々でした。
※過越の祭りと十字架の日付については次のページを参照してください。過越の祭りと十字架の日付

2.指導者たちの不信仰 v.3-5

26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。

 民の指導者たちは、イエス・キリストに対する激しいねたみから、殺害計画を立てます。どれほど素晴らしい教えを主イエスが話されても、学ぼうとする態度がなければ無意味です。指導者たちは自分たちの慣習やしきたりを重んじ、それを否定するイエスを憎み、犯罪者扱いし、殺す相談までしているのです。

3.マリヤの信仰 v.6-13

26:6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 この記事には一人の女性の素晴らしい信仰が示されています。ヨハネ福音書12章に並行記事があり、この女性はベタニヤのマリヤです。マルタの妹で、ラザロという兄弟をイエス様がよみがえらせてくださいました。また、文句を言った弟子はイスカリオテ・ユダだったことも記されています。さらに、この出来事が起こったのは、イエス様がエルサレムへ入城される前の出来事となっています。従って、マタイはあえてこの出来事をこの箇所に入れていることが分かります。
※マタイがマリヤの名前を伏せているのは、一個人が誉め称えられないためというより、迫害の時代のなかで福音書を書いたことによって彼女とその家族に迫害の手が及ばないためだったと考えられます。
 マリヤは、イエス・キリストに高価なナルドの香油を注ぎます。ユダは「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と、文句を言います。しかし、イエス様は「りっぱなことをしてくれたのです」とマリヤの行為を認められます。その理由は注目に値します。「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」・・マリヤはイエス様がこれから十字架に架かり、殺され、葬られる事を理解していてナルドの香油をささげたのです。なぜ、彼女だけがそれを分かっていたのでしょうか?・・ルカ福音書の記事を読むと理解できます。
ルカ10:38-42 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
 マリヤはイエス様が語られる言葉に熱心に聞き入りました。主イエスが語られることを受け入れ、信じました。それで主イエスの受難について彼女だけは理解したのです。それゆえ、葬りのために高価な油を用意し、エルサレムへ上られる直前に自分に出来る最後の奉仕としてナルドの香油をすべて注いだのです。彼女は主イエスがよみがえられることも理解していたと思われます。多くの女性たちが日曜日の朝早く、主イエスが葬られた墓へ行ったのに、ベタニヤのマリヤは墓へ行っていません。彼女だけが主のよみがえりを理解し、「墓にはおられない」と分かっていたのでしょう。
 私たちはマリヤが行なった主への奉仕から大切な事を教えられます。ささげるということも大切ですが、それ以上に、御言葉をよく聞くという事です。御言葉が私たちの信仰を成長させ、神様の導きを与えます。御言葉によって私たちは神様の祝福を受け取ることが出来ます。私もこの与えられた説教の時間のために、粉骨砕身の思いで御言葉に取り組み、解き明かしたいと思います。ですから、皆さんも御言葉を熱心に求めて聞いてください。神様の偉大な御言葉を、信じて受け取ってください。

4.ユダの不信仰

26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

 マリヤに対して真っ先に文句を言ったのはイスカリオテ・ユダでした。彼は「この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と言いました。彼は貧しい人のことを考えていたのではなく、ただ、文句を言うための提案でした。確かに彼の提案そのものは素晴らしいことです。無駄使いをせず、貧しい人たちに施すことは良きあかしであり、愛の行いです。しかし、この場面ではイエス様は彼の提案を退けられました。ほかの弟子たちの手前、ユダの面目は丸つぶれです。彼が「もうイエス様について行けない」と思ったのはこの時だったのかもしれません。祭司長たちのところへ行って、イエス様を売る相談をしたのです。
 彼は12弟子の一人としてずっとイエス様の伝道旅行について回りました。御言葉を聞き、イエス様が行なわれる不思議なしるしの数々を目の当たりにしました。使徒としての権威を与えられ、彼自身も病人を癒したり、悪霊を追い出したはずです。しかし、彼は御言葉を聞いていなかったのです。
 彼に与えられたお金は銀貨30枚でした。それは出エジプト記で規定されている奴隷が死んだときの贖いの金額と同じでした。つまり、キリストを信じない彼らにとって、イエス・キリストのいのちの価値は奴隷一人の価値と同じだという屈辱的な皮肉となっています。
出21:32 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。
1シェケル=4デナリ=約4万円 30シェケル=約120万円

 マタイはこの三つの記事を並べることにより、私たちに問うているのだと思います。あなたはイエス・キリストの言葉をどのように聞いていますか? 祭司長たちのように、敵対心をもって聞くでしょうか?ユダのように聞いていても上の空でしょうか?マリヤのように求めて聞くでしょうか?・・どうか、真理を求めて御言葉を聞くようにしてください。過越のさばきの時に、神の言葉を聞いて信じたイスラエルは救われ、聞かなかったエジプト人はさばかれました。父なる神様の願いは、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得る」事です。御言葉をよく聞いて、信じる人となってください。