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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書26章1-16節「信仰と不信仰」



1.過越の祭り


26:1 イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。
26:2 「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

 過越の祭りが二日後に迫ったとき、イエス様は弟子たちに「過越の祭り」の時に十字架に架けられることを予告されました。何故、過越の祭りの時なのでしょう。

 過越の祭りについて説明します。

@約3500年前、イスラエルがエジプトで奴隷として苦しんでいた時代、神様はモーセを指導者として立て、イスラエルをエジプトから助け出されました。その時、10の災害をエジプトに下しました。10番目の災害は、すべての家で最初に産まれた子が死ぬと言うさばきでした。家畜の初子も同様でした。ただし、さばきを免れる方法として、子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗るなら、その家の前では神のさばきは通り過ぎ、初子の命は守られました。(出11章参照)


 イスラエル人はモーセを通して語られた神の言葉に聞き従い、家の鴨居と門柱に子羊の血を塗ったので、誰も死なずに済みました。しかし、エジプトの人々は、神の言葉を無視したため、パロの息子をはじめとし、すべての家で初子が死にました。このさばきによりイスラエルはエジプトから脱出することが出来ました。これを記念するのが過越の祭りです。

Aイスラエル三大祭の一つで、現在でもほとんどのユダヤ人がお祝いし、最も祝われている祭りです。ヘブル語でペサハ、英語でパスオーバー。過越の食事はセデルと呼ばれ、ハガダーという規定にしたがって長い時間をかけて食事をしていきます。その中で欠かせない食材が三つあります。ペサハ(焼いた子羊肉)、マッツァー(種なしパン)、マロール(苦菜)です。

出エジプト 12:8 その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。

ペサハ(焼いた子羊肉)――犠牲の羊を象徴
マッツァー(種なしパン)――出エジプト時、パンに酵母を混ぜて膨らむのを待つだけの時間の余裕がなかったので、酵母を入れないパンを食べた事を記憶する
マロール(苦菜)――エジプトでの奴隷生活の苦しみを記憶する

B過越の出来事は後に来られるイエス・キリストを予表していました。ほふられる子羊はイエス・キリストの死を表しています。神様のご計画は、神の子羊であるイエス・キリストが犠牲となり、十字架で血を流して死ぬことにより、私たちをさばきから救い出すことです。イスラエルがエジプトでの奴隷生活から救い出されたように、罪と死の奴隷状態である私たちを救い出すために、キリストがほふられ、血を流さなければなりませんでした。

 それゆえ、イエス・キリストが十字架に架けられるのは、過越の祭りの時でなければならなかったのです。

2.指導者たちの不信仰

26:3 そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、
26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
26:5 しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。

 民の指導者たちは、イエス・キリストに対する激しいねたみから、暗殺計画を立てました。自分たちが重んじてきた慣習やしきたりを否定したイエスを憎み、犯罪者扱いし、殺そうとしたのです。彼らは過越の祭りの間はイエス暗殺を実行するつもりではなかったのですが、神様のご計画通りになりました。

3.マリヤの信仰

26:6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。


 この記事には一人の女性の素晴らしい信仰が示されています。ヨハネ福音書12章に並行記事があり、この女性はベタニヤのマリヤです。マルタの妹で、ラザロという兄弟をイエス様がよみがえらせてくださいました。また、文句を言った弟子はイスカリオテ・ユダだったことも記されています。

 マリヤは、イエス・キリストの頭に高価なナルドの香油を注ぎました。ユダは「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と、文句を言いました。しかし、イエス様は「りっぱなことをしてくれたのです」とマリヤの行為を賞賛されました。

 その理由は注目に値します。「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」

 マリヤはイエス様がこれから十字架に架かり、殺され、葬られる事を理解してナルドの香油を注いだのです。(当時、埋葬時に遺体に香油を注いでいました)
 なぜ、彼女だけがそれを理解していたのでしょうか?――ルカ福音書の記事を参照します。

ルカ10:38-42 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 マリヤはイエス様が語られる御言葉に熱心に聞き入りました。主イエスが語られることを受け入れ、信じました。それで主イエスの受難について彼女だけははっきり理解したのです。それゆえ、葬りのために高価な油を用意し、エルサレムへ上られる直前に自分に出来る最後の奉仕としてナルドの香油をすべて注いだのです。イエス様にとってマリヤの信仰とこの奉仕は、受難直前にあって、最高の慰めと励ましになったでしょう。イエス様がどれほど喜ばれたか、次の言葉で分かります。

26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

 彼女は主イエスがよみがえられることも理解していたと思われます。多くの女性たちが日曜日の朝早く、主イエスが葬られた墓へ行ったのに、ベタニヤのマリヤは墓へ行っていません。彼女だけが主のよみがえりを理解し、「墓にはおられない」と分かっていたのでしょう。

 マリヤが行なった主への奉仕から大切な事を教えられます。ささげるということも大切ですが、それ以上に、御言葉をよく聞くという事です。御言葉が私たちの信仰を成長させ、神様の導きを与えます。御言葉によって私たちは神様の祝福を受け取ることが出来ます。

 説教者は説教のために、粉骨砕身の思いで御言葉に取り組み、解き明かすべきです。また、礼拝に集う人は心を整え、御言葉を熱心に求めて聞かなければなりません。神様の真理の御言葉を、心から受け取りましょう。

4.ユダの不信仰

26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、
26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

 マリヤに真っ先に文句を言ったのはイスカリオテ・ユダでした。彼は「この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と言いました。彼は貧しい人のことを考えていたのではなく、文句を言うための提案でした。確かに彼の提案そのものは素晴らしいことです。無駄使いをせず、貧しい人たちに施すことは良きあかしであり、愛の行いです。しかし、この場面ではイエス様は彼の提案を退けられました。
 他の弟子たちの手前、ユダの面目は丸つぶれです。彼が「もうイエス様について行けない」と決断したのはこの時だったのかもしれません。彼は祭司長たちのところへ行って、イエス様を売る相談をしたのです。


 彼は12弟子の一人としてずっとイエス様の伝道旅行について回りました。御言葉を聞き、イエス様が行なわれる不思議なしるしの数々を目の当たりにしました。使徒としての権威を与えられ、彼自身も病人を癒したり、悪霊を追い出したはずです。しかし、彼は御言葉を聞いていなかったのです。
 彼に与えられた報酬は銀貨30枚でした。それは出エジプト記で規定されている「奴隷が死んだときの贖いの金額」と同じでした。つまり、キリストを信じない彼らにとって、イエス・キリストのいのちの価値は奴隷一人の価値と同じだという屈辱的な値踏みとなっています。

※出21:32 もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。
1シェケル(銀貨)=4デナリ=約4万円 30シェケル=約120万円

 今日の聖書箇所では信仰と不信仰が対比されて描かれています。指導者達の不信仰、マリヤの信仰、ユダの不信仰。十字架を前にしてこの後も人々の態度は分かれていきます。著者マタイは、記事を並べながら読者に訴えているのだと感じます。「あなたはイエス・キリストの言葉をどう受け取りますか?」と。