マタイによる福音書26章17-29節 「最後の晩餐」 並行箇所;マルコ14:12-25 ルカ22:7-30 ヨハネ13:1-17:26

1.種なしパンの祭り

26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」
 本日の聖書箇所は「最後の晩餐」の場面です。それは旧約聖書で定められた過越の食事でした。過越の祭りの規定では、ユダヤ暦の1月14日の夕方に子羊をほふり、その血を家の鴨居と門柱に塗り、日没後、過越の食事をします。その時に「パン種の入らないパンを食べよ」と命じられています。この過越の食事から七日間、パン種の入らないパンをイスラエル選民は食べます。これが種なしパンの祭りです。マタイはここで「過越の祭り」と記さず、「種なしパンの祝い」と記しているのは、このあとに続く出来事がパン種を取り除くことに関連しているからです。
※イエス様と弟子たちは一日前に過越の食事をされています。次を参照→ 過越の祭りと十字架の日付
 律法の規定では、この祭りの期間は家の中にパン種があってもいけないと徹底しています。そのため、イスラエルでは現在でも過越の祭りの前に必ず大掃除をするそうです。イーストだけでなく発酵食品すべて取り除くという事ですからユダヤ人の徹底ぶりもすごいものです。発酵する食品をハメッツと呼び、小麦や大麦を使ったパスタ、ピザ、シリアル、ビールもハメッツとなります。味噌や醤油、米、豆腐、納豆もハメッツとなるので日本食はほぼ全滅です。イスラエルのほとんどの家庭では、ハメッツをすべて処分するために過越になる前に食べきるか、焼却するかします。最後の手段として外国人にあげたり、箱やカバンに詰め込んで、見えないところにしまいこむそうです。しかし、厳格なユダヤ教徒にとっては、それは明らかな律法違反となっています。

 なぜパン種を除けと命じられているのでしょうか?・・聖書の中でパン種は常に罪を象徴するものだからです。その理由は、人間の罪の性質ととても似ているからです。パン種はパンを発酵させて膨らませます。それは実質的にはパンが腐敗して、大きく膨らんでいる状態だからです。
※発酵とは、食品に微生物が繁殖してその成分が変化することで、仕組みは腐敗と同じです。しかし、人間にとって有用な場合に限って「発酵」と呼びます。
 同じように、私たちの心に罪の種が入りこむと、私たち心は悪い思いに溢れ、どんどん腐ってしまいます。そして外見や体裁だけをよくしますが、中身は罪で満ちてしまいます。 そのため、パン種が罪の象徴として語られており、聖書は「あなたがたの中からパン種を取り除け」と命じています。また、イエス様は間違った教義についても「パン種」という言葉を用いておられます。
マタイ16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」
 もちろん、パン種自体は悪いものではありません。その証拠に種なしパンの祭りのとき以外はパン種の入ったふっくらしたパンを食べて全く問題ありません。ハメッツ食品はすべて食べて良いのです。ただし、この祭りの時には霊的な意味を示すためにパン種を除けと命じられているのです。種なしパンの祭りが教えているのは、「小羊の血によって神のさばきから救われたのだから、あなたがたの中から罪を取り除きなさい」という神様のメッセージなのです。

2.最後の晩餐

@準備 18-20節
26:18 イエスは言われた。「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」
26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。
26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。

 過越の食事の準備のために遣わされた弟子は、ペテロとヨハネでした。(ルカ22:8参照) 大切な点は、すべて主イエスが言われたとおりに過越の準備が進められていったことです。父なる神様のご計画にしたがって、すべてが準備されていきました。

Aイスカリオテ・ユダの裏切り 21−25節
 最後の晩餐についてマタイは多くのことを記していません。しかし、ヨハネによる福音書では13章から17章にわたって、最後の晩餐で語られた主イエスの言葉を記しています。その内容を要約すると次の通りです。
13章;弟子たちの足を洗ってご自身の愛を示された。
14章;天の住まいを用意するために天に帰られること。そして、助け主を遣わす事。
15章;キリストにとどまって実を結びなさい。
16章;迫害されるが勇敢でありなさい。
17章;大祭司の祈りとして、彼らが守られるように。
 これらは教会時代についての教えです。私たちクリスチャンにとってはとても重要な教えです。しかしマタイは「イスラエルの王として来られたキリスト」という主題を離れないために、これらの教会に対するイエス様の教えを記していません。イスラエルに命じられた過越と種なしパンの祭りにこだわり、パン種を取り除かなければならないことに注目しています。そしてそれは、まず12弟子たちに目が向けられることになります。
26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。
26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

 最後の晩餐の最初の出来事として、マタイはイスカリオテ・ユダの裏切りを取り上げています。ヨハネによる福音書では、ユダはパンきれを受け取るとすぐに出て行ったと記されていますので、ユダは結局、過越の食事を食べなかったことになります。つまり、イエス様は弟子たちの中からパン種を取り除かれ、パン種の入らない過越の食事を11人の弟子たちと持たれたことになります。
 イエス様を裏切るユダに対するイエス様の言葉はとてもきびしい言葉です。
26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
「生まれなかったほうがよかった」・・イスカリオテ・ユダの全生涯を否定する言葉です。私たちは聖書を通して神様が愛なる方だと知っています。人を形造り、息を与えられ、愛をもって導かれる神様です。すべての人間を神様は愛しておられると信じています。しかし、「生まれなかったほうがよかった」とは何とむごい言葉でしょう。しかし、それが現実なのです。イスカリオテ・ユダをイエス・キリストは愛されました。ユダを12使徒の一人として任命し、共に歩まれました。最後の晩餐の席において、ユダの汚れた足をもイエス様は洗われ、彼を愛されていることを示されました。しかし、ユダはそのイエス・キリストを裏切りました。隠れて祭司長たちのところへ行き、イエスを売る見返りとして銀貨30枚を受け取りました。彼の懐にはその銀貨が入っていたはずです。ユダはキリストが与えてくださった愛と福音を拒み、自分の欲に負けてキリストを裏切ってしまったのです。ユダにくだる神様のさばきは恐ろしく激しいさばきです。イエス様はそれを知っておられて、「ユダは生まれてこなければ、さばきを受けることがなかったのに」と悲しんでおられるのだと思います。
 神様に愛され罪赦された皆さんは、どうかユダのようにならないでください。自分の肉の欲に負けて、キリストを裏切らないでください。また、キリストが愛されている教会を裏切らないでください。キリストが愛されている兄弟姉妹を裏切らないでください。たといあなたが裏切られたとしても、あなたは裏切らないことを決心してください。裏切る人の心はさらに荒んでいきます。彼は隠れて行動しなければなりません。嘘ばかり、秘密ばかりで、心が闇で支配されてしまいます。
箴言11:1-3 欺きのはかりは【主】に忌みきらわれる。正しいおもりは主に喜ばれる。高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。直ぐな人の誠実は、その人を導き、裏切り者のよこしまは、その人を破滅させる。
 裏表がなく、正直に生きる人は、神様に喜ばれます。嘘偽りを捨てて、正しい生き方をしていきましょう。

B主の晩餐
26:26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 過越の食事では、子羊の肉、種なしパン、苦菜が必ず食されますが、ぶどう酒も必ず飲まれます。過越の食事はエジプト時代に受けた先祖の苦しみを思い返し、そしてその苦しみからイスラエルを救い出された全能の神様のみわざを誉め称える記念の食事です。イエス様の最後の晩餐でもパンとぶどう酒が出されました。しかし、イエス様はエジプトでのことに言及されず、新しい意味を示しながらパンとぶどう酒を与えられました。
イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
 パンは、ご自身のからだの象徴であると言われます。これには三つの意味があります。
・パン種が入っていないパンは、罪がないお方であるという事。
・裂いて渡すのは子羊がほふられたように、キリストの身体が十字架に釘づけされ、槍で刺し通されることをあらわします。
・そのパンを食べる事は、キリストを心の中に受け入れることをあらわします。

 杯については、もっと深い意味が込められています。
杯を取り、感謝をささげて後「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
・赤い葡萄酒は十字架で流されるイエス・キリストの血をあらわします。
・神の裁きから救われることをあらわします。
 キリストの血は罪の赦しのために流されるものだと説明されています。キリストの血によって罪を赦され、神のさばきから救われることを象徴しています。過越の祭りで家の鴨居と門柱に子羊の血を塗った人々は神の裁きに遭わずに済んだことと重ねられています。
・この盃から飲む事はパンと同様、キリストを信じ受け入れることをあらわしています。
・新しい契約です。
 「わたしの契約の血」と言われました。旧約時代には、大切な契約を交わす時には必ず動物の血が必要でした。(創世記15:17、エレミヤ34:18参照) 神様が律法を与えられた時も血が流されました。血が流されることによって正式に契約が結ばれたのです。この契約を破る者は同じように血を流さなければならないことが啓示されています。
出24:8 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」
 キリストは最後の晩餐で、新しい契約を結ぼうとされています。「キリストを信じ受け入れる人は神の裁きから救われる」という契約です。ただし、契約はこの時には完了していません。なぜなら、まだ血が流されていないからです。キリストはその夜の内に捕らえられ、翌朝裁判を受けた後、十字架に架けられます。その十字架において契約が結ばれたのです。イエス様は息を引き取られる前に「完了した」と叫ばれました。それは新しい契約が完了したことを含んでいます。何と深い神の救いのご計画でしょう!

 1コリント11章で使徒パウロは主の晩餐について規定しています。そのため、世界中の教会において主の晩餐(聖餐式)が行なわれています。主の晩餐はイエス・キリストの裂かれたからだと、流された血潮を覚え、記念として行うものです。同時に、主が再臨されるまで、福音を伝えていこうという決心の時でもあります。主の晩餐を持つときの注意事項が書かれています。
Tコリント11:26-32 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
 「ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」・・あなたの心からパン種を取り除きなさいという事です。コリントの教会は問題ばかりの混乱した教会でした。分裂があり、指導者を陰で非難しました。教会ではまじめでも、家に帰ると不品行を行っている人たちがおり、偶像礼拝をしている人たちがいました。パンとぶどう酒だけを求めて教会へ来て、我先にとパンを食べ、ぶどう酒を飲んで酔っ払っている人たちもいました。熱心な教会員は自分が聖霊に満たされたクリスチャンだと自慢したいがために、異言のしるしばかり求めました。そのため集会では誰が何をしゃべっているのか分からないような状態でした。パウロはコリントの教会のこれらの罪を責め、正しい秩序ある教会生活を送るべきであることを教えています。
 あなたがユダやコリントの教会の人のように隠れて悪いことをしているのなら、主の晩餐にあずかってはいけません。もし罪を犯したままで主の晩餐にあずかるなら、神様はその人を懲らしめられます。救いを失うことはありませんが、時にそれは病気であったり、死に至ることもあるとパウロは教えています。みじめなクリスチャンとして歩むことになりますから、よく自分を吟味して主の晩餐にあずからなければなりません。
Tコリント 5:6-8 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
 どうか、あなたの心の中から、悪意と不正のパン種を取り除いてください。神様の大きな愛を受けて、純粋で真実な心をもって神様を礼拝し、御言葉を学び、主の晩餐にあずかり、交わりを保つなら、どんなにか神様は私たちと教会を祝福してくださるでしょう。