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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書26章30-56節「ゲツセマネの祈り」



1.つまずきの予告


26:30 そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。
26:32 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

 過越の食事をイエス様は12弟子と共に取られました。現在でもイスラエルの家庭で持たれる過越の食事は、ハガダ―と呼ばれるプログラムに従って進行され、詩篇の113-118篇を賛美し、最後は136篇を賛美します。イエス様たちが賛美したのもこれらの詩篇の賛美だったに違いありません。過越の食事を終えて、オリーブ山へと向かわれました。

※エルサレム神殿のすぐ東にケデロンの谷があり、その谷を挟んだ向かい側がゲツセマネの園で、そこからオリーブ山になります。
※写真参照;現在はカトリックの「万国民の教会」があり、オリーブ山中腹にはロシア正教会の「マリヤ・マグダリナ教会」が建っています。

 ここでイエス様は弟子たちに多くの予告をされました。
・その夜のうちに受難が始まる
・弟子たち全員がイエス様につまずき、逃げ去ってしまう
・よみがえって、弟子たちより先にガリラヤへ行く
・ペテロが三度、イエス様を知らないと言う

2.ゲツセマネの祈り

26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

@ゲツセマネの園
 ゲツセマネは「油絞り」という意味です。オリーブ山のふもとにある園で、多くのオリーブが茂り、そのオリーブを絞ってオリーブオイルを生産したことからゲツセマネ「油絞り」と名付けられたと考えられます。夜は静かな場所なので、イエス様と弟子たちはエルサレム滞在中、夜になるといつもこの場所に集まり、イエス様はここで祈られました。

 ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて園の奥の方へ行かれました。そして、イエス様だけ少し離れて、ひれ伏して祈られました。三人から見える場所で、祈りの声がかすかに聞こえる場所、石を投げて届く場所(ルカ)ですから、20〜30メートル程、離れて祈られたのでしょう。


 ペテロ、ヤコブ、ヨハネはイエス様が御そばに置かれた弟子達であり、初代教会において重要な働きをする三人となりました。かつて高い山の上で栄光の姿に変貌されたイエス様の姿をこの三人だけは見ることが出来ました。そしてここでは、十字架を目前に控え、恐れ、苦しみもだえるイエス様の姿を見たのです。イエス様の真実の姿の証人とするためだったと考えられます。

Aイエス様の恐れと悲しみ
 ゲツセマネの園で見せるイエス様の姿は今までの主の姿と全く異なります。それまでイスラエルの王、メシアとして、しるしを行い、人々を癒し、罪を赦し、力強く御国の福音を伝えてこられました。威風堂々たる姿でした。しかし、ここに記されている主イエスの姿は、深く恐れ、悲しみのあまり死ぬほどだと弱音を吐き、もだえ苦しんでいる姿です。「汗が血のしずくのように落ちた」と、ルカは記しています。この場所がゲツセマネだとマタイが記したのは、救い主であるイエス・キリストが十字架を前に、絞られて汗を流している姿を重ね映すためだったのでしょう。

 イエス様の恐れと悲しみの理由は何でしょう?

a.十字架に架けられ、死の苦しみを受ける恐れと悲しみ
 復活すると分かっていても、むち打ちで背中を切り刻まれ、その後、両手両足に釘を打たれ、張り付けにされる痛みと苦しみを前に、誰も平常心でいることはできないでしょう。
b.人々からあざけられ、ののしられ、弟子達からも見捨てられるという恐れと悲しみ
c.全人類の身代わりとして、呪われた者となって木にかけられ、さばかれる恐れと悲しみ
d.父なる神の愛から引き離される恐れと悲しみ

 全人類の身代わりと分かっていても、父なる神に裁かれてその愛から引き離される事の悲惨さを知っておられるがゆえ、恐れられたのでしょう。その恐れは、私たちの想像を絶するものだったに違いありません。

B誘惑に陥らないように 
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」



 三度、同じ事が繰り返されました。実はこの時に、弟子たちもゲツセマネの園において油絞りをされていたと分かります。彼らは、これから受ける試練に備えてイエス様と共に祈り、心を備えておくべきでした。しかし、彼らは眠くて眠くて、目をあけて祈り続けることが出来ませんでした。

 この時がイエス様と共に祈る最後の機会であり、十字架に架けられるその最後の夜だと知っていたなら、彼らは居眠りをせず、祈り続けたに違いありません。しかし彼らは祈ることが出来ませんでした。それゆえ彼らはつまずいてしまいました。イエスを捕らえようとする大集団がやって来たとき、彼らは恐ろしさのあまりイエス様を見捨てて、一目散に逃げてしまったのです。

 弱さや恐れを克服するために私達はどうしたらよいでしょうか?――イエス様の答えは、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」と教えられました。終末の出来事を話された時と同じです。もし、ペテロたちが「どのような時なのか」知っていたなら、ゲツセマネの園で眠り込んだり逃げ去ったりしなかったでしょう。

Cみこころのように
 注目したいのは、イエス様の祈りの言葉です。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

 最後の晩餐で、イエス様は杯を取って弟子たちに与えました。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
 主は杯の意味を知っておられました。しかし、父なる神から差し出された杯を飲むことは、心が絞られるほど苦しいものでした。なぜならそれは怒りの杯、さばきの杯だからです。「もし出来ることなら、取り除いてほしい」と、イエス様の心が叫んでいるのです。しかし、自分の願いではなく、父の御心を選ぼうとされている主イエスを見るのです。ここに信仰の創始者と言われるイエス・キリストの模範があります。クリスチャンにとって最高の祈りの模範です。

「あなたのみこころのように!」――そう信じ、祈り、受け入れていくなら、私達はどんな苦しみの中でさえ希望を見つけることが出来ます。倒されても何度でも立ち上がることができます。死も恐れるに足りません。

3.イエス様の逮捕

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
26:48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
26:49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。
26:50 イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。


 つい先ほどまで「最後の晩餐」の席で共にいたイスカリオテ・ユダは、パンを受け取るとすぐに抜け出して、祭司長たちのところへ行き、イエス様を捕らえる手引きをしました。祭司長たちに雇われた多くの役人たちや兵士を引き連れてやってきました。その合図は口づけでした。親愛を示す口づけを裏切りの手段として用いました。

 ユダは最後まで表の顔と裏の顔を使い分けています。悪魔が彼に入っていたからです。イエス様は武器を持ってやってきた群衆に対し、無抵抗をつらぬき通されました。その理由は、54節、56節で言われたように、聖書の言葉が実現されるためです。ゲツセマネの祈りにより、父なる神の御心に従うという決意をし、その通りに歩まれる主イエスの姿がここにあります。

ヘブル 5:7-9 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、

 私達にもゲツセマネの夜が来ます。恐れ、悲しみ、もだえ苦しむ時が来るでしょう。心が絞られるように汗を流し、涙が止まらない時があるでしょう。その時に私たちはどうしたらよいでしょう。イエス様の言葉をどうか思い出してください。

「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい」

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」