マタイによる福音書26章57-68節 「大祭司カヤパの裁判」
並行箇所;マルコ14:53-65、ルカ22:54—65、ヨハネ18:12-24

1.大祭司カヤパの裁判
 今朝の聖書箇所はイエス・キリストがゲツセマネの園で捕らえられた後、十字架に架けられる前に最初に受けられた裁判の記事です。この裁判は大祭司カヤパの官邸で行われました。
26:57 イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。
26:58 しかし、ペテロも遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の中庭まで入って行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわった。

①不正な裁判
 この裁判は通常の裁判規定を全く無視したやり方で行われました。すでに時間は夜中の1時を過ぎていたでしょう。そんな真夜中にサンヘドリンの議員たちが集められ、証言、尋問、審議が行われました。彼らの口伝律法であるミシュナーの規定では、日没後に裁判を開いてはいけないと規定されていました。それにも関わらず裁判が進められました。彼らは体裁を繕うために、日の出とともに形だけの裁判を再び開くことになります。(27:1) また、被告には弁護人がつけられるべきでしたが、それもありませんでした。
26:59 さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。
 はじめから死刑と定めるための裁判でした。大祭司カヤパによる不正な裁判です。裁判において偽証をする事は律法の中でもはっきり禁じられていることです。
申命記19:18-19 さばきつかさたちはよく調べたうえで、その証人が偽りの証人であり、自分の同胞に対して偽りの証言をしていたのであれば、あなたがたは、彼がその同胞にしようとたくらんでいたとおりに、彼になし、あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
 カヤパは神と人をとりなす大祭司でありながら、不正な裁判の首謀者となったのです。現在の言葉で言うなら、汚職です。自分の高い地位を利用した犯罪でした。ここに、真の大祭司であるイエス・キリストと世の大祭司カヤパが対比されています。

②裁判と死刑執行を急いだ理由
 彼らはイエスを死刑と定めますが、当時のユダヤはローマの支配下にあったため、死刑執行が許されていませんでした。そのため早朝にローマ総督ピラトに裁判を開いてもらい、死刑を求刑したのです。(27:2)そこで死刑が確定され、すぐに十字架刑が執行されました。朝9時にはキリストは十字架に架けられ、午後3時に息を引き取られました。キリストの遺体は取り降ろされて日没前に葬られました。これは異常と言える展開でした。あまりにも急すぎる裁判と処刑です。大祭司カヤパをはじめとして祭司長たちがなぜこれほどまで事を急いだのかというと、その日は14日の金曜日で、日没後から安息日となるため、裁判を開くことが出来ません。さらにその安息日は過越の祭りと重なっていて種なしパンの祭りが一週間続きます。喜び楽しむ祭りですから、指導者たちは何とかして祭りが始まる前にキリストを葬っておきたかったのです。また、裁判が長引けば、イエスの肩を持つ群衆が暴動を起こすかもしれないという恐れがありました。そのため、彼らは急いで処刑まで済ませたかったのです。
※指導者たちにとっては、イエス・キリストを捕らえるのは祭りの後でもよかったのですが、イスカリオテ・ユダに対して主イエスが最後の晩餐の席で、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」(ヨハネ13:27)と言われたため、自分の裏切りの策略を知られたユダは急いで祭司長たちの所へ行き、話をしました。「イエスは私たちの策略を知っているので、今、捕らえなければ逃げられてしまう」・・そのような会話があったのでしょう。祭司長たちはあわてて役人や兵隊を雇い、イエスを捕らえさせました。彼らは知らず知らずのうちにキリストを、過越の小羊がほふられれる時(過越の祭りが始まる前)に十字架に架けて殺したのです。神の贖いのご計画通りに進んだことになります。

③偽証者たち
26:60 偽証者がたくさん出て来たが、証拠はつかめなかった。
 いろいろな偽証がされたのですが、証拠をつかめなかったというのは当然のことです。イエス様がエルサレムへ入城されたのはその週の日曜日でした。その日から、月、火、水、木曜日と毎日イエス様はエルサレム神殿で御国の福音を教えられました。指導者たちは何とかしてイエス・キリストを言葉の罠にかけて陥れようと試みたのですが、何一つ成功しませんでした。(22:15~パリサイ人による税金についての質問   22:23~サドカイ人による復活についての質問   22:35~律法の専門家による大切な戒めについての質問)
 このカヤパの裁判でも、何一つキリストに不正や罪を見いだすことが出来ませんでした。しかし、最後にふたりの者が進み出て証言しました。
2
6:61 言った。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」
26:62 そこで、大祭司は立ち上がってイエスに言った。「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、これはどうなのですか。」

 カヤパは「この証言は使える!」と思ったでしょう。神殿を壊すと言ったなら、それは神に対する反逆罪として死刑を宣言できると考えたのです。しかし、この証言も偽りでした。イエス様の言葉通りでなかったし、その意味も全く違いました。
ヨハネ 2:19-22 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。
 全くの偽証であり、誤った受け取られ方でした。それでも、主イエスはこの間違った証言に対して何も答えられません。ペテロは後に書いた手紙の中で次のように書いています。
Ⅰペテロ 2:22-24 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

④大祭司カヤパの誘導尋問
 何も答えないイエスに、業を煮やしたカヤパは裁判長でありながら、イエスを断罪するために誘導尋問します。
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」
 生ける神によって・・そう言われたなら答えないわけにいきません。主イエスは閉ざしていた口を開き、答えられます。
26:64 イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」
※ギリシャ語直訳:「それはあなたが言ったことだ。しかし、私はあなたがたに…」  マルコ福音書では「わたしです」エゴーエイミーとなっている。
 この言葉はご自身の神性を主張する言葉であり、ダニエル預言の引用でした。
ダニエル 7:13-14 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。
 父なる神の右の座に着く神の子であり、雲に乗って来られるメシア、全世界を永遠に支配する王だと主張されているのです。
26:65 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。
26:66 どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる」と言った。

 主イエスの言葉を聞いた大祭司は怒り狂いました。神への冒涜だと。律法の規定では、偶像礼拝する者でさえ死刑に定められたのですから、自分を神と等しいとする者は悪魔的であり、最悪の冒涜の罪です。ユダヤ人にとって、冗談でも「私は神と等しい」と主張することはありえないことです。サンヘドリンの議員たちも死刑に同意しました。しかし、この裁判ほど不公平な裁判はありません。はじめからイエスを犯罪者に仕立て上げようとしたからです。「死刑ありき」でした。彼らはこのイエスがメシアであるはずがないと思いました。ガリラヤのナザレという田舎者が救世主であるはずがないと。彼らの目には生意気な異端者としか映らなかったのです。
 考えてみるなら、彼らはもう一つの判断を下すこともできたはずです。それは、イエスはもしかすると本当のメシアかもしれない、という判断です。もし、彼らが正しい裁判を志し、イエスがメシアであるという証拠を挙げさせよう、弁護人を立て、証人を呼び証言させようとしたなら、イエスがメシアであるという証拠が次々と証言されたはずです。しかし、彼らは早くイエスを処刑したい、過越の祭りがもうすぐだ・・時間がない、急がなければ、、、という思いで、弁護人も立てず、非公式の裁判を行い、偽証者を立てて裁判を進めていったのです。

2.イエスを憎んだ理由

 なぜ、それほどまでに民の指導者たちはイエスを憎んだのでしょうか? 聖書はその理由を「
ねたみ」だと説明しています。
マタイ 27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
 ねたみという感情は時に恐ろしい結果を招いてしまいます。幸せそうな人や、喜んでいる人を見ると、私たちはねたみを持ってしまいます。自分にない物を持っている人を見るとねたみます。ねたみは大きくなっていくと、その人に対する激しい憎しみへと変わります。そしてその人の存在をも、うとましく思うようにさえなります。
 人類最初の殺人事件は、ねたみによって引き起こされました。アダムとエバの長男カインは弟のアベルが自分より神様に祝福されているのを見てねたみました。アベルがささげた羊は受け入れられ、自分がささげた野菜は受け入れられなかった時、弟アベルに対するねたみは燃え上がり、野に弟を連れて行き、殺してしまいました。
 ねたみが恐ろしいのは、ねたまれる人は何も悪いことをしていないのに、ねたむ人が勝手にねたみを持つことです。優しいというだけでねたまれます。愛情深い人がねたまれます。人々に愛されている人が、才能を持った人がねたまれます。
 同じようにキリストはねたまれました。正しいお方だからです。彼の正しさと聖さ、愛の行動、行なわれた力ある奇跡、群衆がイエスを取り囲んでホサナと歓喜している・・すべてが指導者たちのねたみを買いました。彼らのねたみは憎しみへと変わっていきました。67-68節を見てください。
26:67 そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、
26:68 こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。」

 死刑判決を受けた人に対するむち打ちや暴行は許されないことでした。しかし、人々はねたみのゆえに、むごい行動をとりました。「当てて見ろ」という言葉は直訳すれば「預言してみろ」という言葉です。自分をメシアとしたイエスに対する皮肉、いやみが込められています。

 イスラエルの指導者たちのねたみのゆえに、イエス様は死刑に定められ、十字架に架けられました。イエス様はその処刑を父なる神の御心として受けられました。彼らのねたみの罪もひっくるめて、人々の罪を背負い、赦しを与えるために十字架に架かり、呪われた者となってくださいました。「父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは何をしているのか分からないのです」と十字架に付けた彼らのために祈られました。何という救い主でしょう。何というキリストの愛でしょう。ここに神が与えられた永遠に致る救いがあるのです。

3.ねたみから解放されるために

 ねたみの背景にあるのは、自分は不幸だ、自分は恵まれていない、自分は劣っているという劣等感です。悲しいことに、私たちは誰もがそういう心の汚れを持つ罪人です。クリスチャンになってもなかなか克服できません。では、ねたみから解放されるために必要なことは何でしょうか?・・それはあなた自身が幸せな人になることです。「自分は幸せ者だ」と思うなら、ねたまずに済みます。詩篇119篇に次のように記されています。
119:1 幸いなことよ。全き道を行く人々、【主】のみおしえによって歩む人々。
119:2 幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。
119:3 まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩む。

 主のみおしえ(聖書)によって歩む人は幸いな人です。
・聖書の言葉によって、神様が私を愛しておられる事を信じるなら、幸いです。
・キリストの十字架によって罪がすべて赦され、私には永遠のいのちが与えられていると信じるなら、幸いです。
・試練や困難があっても御言葉の約束の通りに必ず脱出の道がある、勝利があると信じるなら、幸いです。
・生活が貧しくても、天においてあふれるばかりの相続財産が用意されていると信じるなら、幸いです。
・私にはキリストの愛と恵みがあふれていると本当に信じるなら、幸せです。
 御言葉を信じるなら、だれをもねたむ必要が無くなります。信仰者の歩みは、イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じたときから始まります。クリスチャンとしての新しい人生の始まりです。その後は、聖書の御言葉にある神様の約束を一つ一つ学んで、その約束を信じて歩みます。毎日毎日、御言葉の約束を聞いて、信じて、歩むのです。そうして私たちは信仰から信仰へ移っていきます。その信仰を神様は喜ばれるのです。