マタイによる福音書27章11-26節 「総督ピラトの裁判」 並行箇所;マルコ15:1-20、ルカ23:1-24、ヨハネ18:28-40

 27章はイエス様が裁判を受けて十字架に架けられる一日が記されている個所です。神様のご計画の中で、最も重要な時であり、聖書の中で最も重要な箇所だと言わなければなりません。ここに私たちクリスチャンの信仰の理由、原因があるからです。十字架を知ることが私たちの宣教の基礎です。十字架を知らなければ、宣教は意味がありません。十字架が語られなければ、宣教ではありません。

1.ポンテオ・ピラト

@裁判の背景
 当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、死刑実行を許可されていませんでした。(ヨハネ18:31参照)そのため、祭司長たちは総督ピラトにイエスを訴える理由を協議しました。大祭司カヤパの法廷では、「神を冒涜した」という罪で死刑判決を下したのですが、それではローマ総督に訴えても関与してもらえません。そのため祭司長たちは別の理由を考えて訴えなければなりませんでした。結局、彼らが作った訴状は、「この男はイスラエルの王だと自称し、イスラエル国民を扇動してローマ帝国に反逆を企てている」という内容でした。(ルカ23:2参照)
 ポンテオ・ピラトはローマ帝国の第5代ユダヤ州総督でした。歴史家タキトゥースによれば紀元26年から約10年間在位していたと記されています。ピラトにしてみれば、ユダヤへの配属は不本意であったでしょう。ユダヤはローマの支配下にありながら、最も統治するのが難しい地域でした。ユダヤ人は自分たちを神から選ばれた民族だと信じるので、ローマ帝国に占領されていても、心から忠誠を誓うことなどありえません。そのためしばしば反乱暴動が起こったので、治めるのにピラトは手を焼いていたようです。度重なる暴動にピラト自身ももう後がない状態でした。ローマ皇帝から統治を任せられたのに、暴動ばかりでは統治能力がないと判断され、失脚させられるからです。また、ピラトはユダヤ人を嫌っていましたし、ユダヤ人もピラトを嫌っていたという事実をルカによる福音書は記しています。ルカ13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
 そのような背景があって、イエス・キリストの裁判がピラト官邸にて行われました。

A主イエスへの質問
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは彼に「そのとおりです」と言われた。
27:12 しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。
27:13 そのとき、ピラトはイエスに言った。「あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。」
27:14 それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。

 祭司長たちが訴えたイエスの罪状は、「この男はイスラエルの王だと自称し、イスラエル国民を扇動してローマ帝国に反逆を企てている」という内容でしたので、ピラトの質問は「あなたは、ユダヤ人の王ですか?」で始まります。詳しいやり取りをヨハネ福音書は記しています。
ヨハネ18:33-38 そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」 イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」 ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」
 イエス・キリストは、ご自分が王であることを認めていますが、この世の国の王ではないと言われます。この世でなければどこの国でしょうか?・・あの世の国です。聖書的に言えば「天の御国」です。天の御国の王だと主張されているのです。わずかな会話ですが、ピラトがイエス様の真理の言葉に引き込まれているのが分かります。しかし、自分は総督であり、さばく側であるため、深入りしようとしないピラトの姿が見えます。しかし、キリストと呼ばれているイエス様に罪がない事だけは理解したのです。

B釈放したい理由
 ピラトには、イエスを釈放したい理由が他にもいくつかありました。
a.彼なりの正義感。罪を犯していないと知り、また、ユダヤ人たちがねたみのゆえに訴えていることを知っていたから。
27:18 ピラトは、彼らがねたみからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。
b.ユダヤ人たちの言いなりになりたくないという総督のプライドがあった。
c.奥さんからお願いがあった。
27:19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
d.イエス様の神性に触れたから。
 ピラト自身も権威を与えられた人でした。彼はイエスという人物が何か大きな権威を持つかただということに気付いたのだと思います。ピラトは真実によってイエスを裁くべき立場であったのに、「真理とは何ですか?」とイエス様に質問しました。もう少しのところで彼はイエス・キリストの求道者になるところでした。彼はもったいないことをしました。せっかく救い主イエス様と直接話す機会が与えられたのに、彼は真理を知ろうとする寸前まで来たのに、後ずさりし、背を向けてしまいました。真理を追究しようとするなら、総督の立場を失ってしまうと恐れました。総督という立場、プライドが邪魔をしたのです。

2.ピラトが採った回避策

 総督ピラトはイエスの処刑を回避するために、色々と策を考えました。
@ヘロデ・アンティパス
 一つは、イエスがガリラヤのナザレ出身だと分かると、「それなら、ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスに裁かせたらよい」と考えて、ヘロデ・アンティパスの所へイエスを送ります。都合よくヘロデは過越の祭りのためにエルサレムへ上って来ていましたので、それほど時間もかかりませんでした。しかし、ヘロデはイエスが思ったような奇跡を何も見せてくれないので、すぐにピラトの元へ送り返してきました。(ルカ23章参照)

Aバラバ
 次に考えたのが、祭りの時の慣習で一人の囚人を赦免することになっていたので、これを利用してイエスを釈放しようと考えたのです。
27:15 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。
27:16 そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。
27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」

 ※バラバの名前については、議論があります。バラバと言うのは通称であって、それは「父の息子」という意味です。バル(息子)+アッバ(父の)。バラバの本当の名前はイエス様と同じイエスだったようです。ギリシャ語の写本によってはバラバ・イエスとなっています。そのため、新共同訳などは「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。」と訳しています。おそらく、写本が書き写されていく中で、混同しないようにイエスという本来の名を消してしまったのではないかと考えられています。ですから、ピラトの質問は、「あなたがたは、誰を釈放してほしいのか。バラバと呼ばれているイエスか?キリストと呼ばれているイエスか?」であったと思われます。
 バラバという人はどういう人だったでしょう?・・彼については、暴動が起こった時に殺人、強盗を犯して捕まった囚人だと記されています。ピラトは、群衆がまさか極悪人バラバを釈放しろというはずがないと思っていたのでしょう。しかし、群衆はイエスでなく、バラバを選びました。
27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバのほうを願うよう、そして、イエスを死刑にするよう、群衆を説きつけた。
27:21 しかし、総督は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」
27:22 ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架につけろ。」
27:23 だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けた。

 祭司長たちは集まってきた群衆を丸め込んだのです。おそらく時刻はまだ朝7時を過ぎたころだったでしょう。そこにいたのはイエスに死刑判決を下したサンヘドリンの議員たちと、イエスを捕らえに行った役人たちがおもだった人たちで、騒ぎに気付いて集まってきた群衆はそれほど多くはなかったことでしょう。女性たちは夕方から始まる安息日と過越の祭りに備えてとても忙しい一日が始まっていました。祭司長たちが群衆を説き伏せるのにはそれほど苦労しなかったことでしょう。
 彼らは一斉に「十字架に付けろ」と叫びました。その怒号の様なシュプレヒコールにピラトは恐怖を感じたのです。もし、彼らの主張を受け入れなければ、暴動になると直感しました。そこでピラトは最後の悪あがきをします。

B群衆
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
 水を持ってこさせ、群衆の見ている前で手を洗いました。それは「自分は関わらない。罪を犯していない」という主張です。そして「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と言います。群衆に責任を押し付けたのです。しかし、ピラトは責任を逃れることはできません。彼だけがキリストを釈放する権限を持っていたのですから。歴史はそのことを証明しています。ピラトのその後は、悪名高いカリグラ皇帝の時にガリアという地へ流刑となり、そこで自死を選んで死んだと伝えられています。教会史の父と呼ばれるエウセビオスの「教会史」という記録の中にそのことが記されています。
※「始末するがよい」という言葉は、イスカリオテ・ユダが銀貨30枚を返しに来たときに、祭司長たちがユダに言った言葉と同じ言葉が用いられています。祭司長たちは自分たちがユダに言った同じ言葉をピラトから聞くことになりました。(始末せよ;ギリシャ語 オラオー 英語直訳you see it) ユダは自分が犯した罪の始末を首を吊って付けました。祭司長たちの始末の付け方は25節の「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもよい。」という宣言でした。
27:25 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」
 この不用意な一言が、世界の歴史を大きく変えることとなりました。彼らは救い主を殺した張本人となり、イエス・キリストの血の責任を取ることになります。約40年後の紀元70年にエルサレムはローマ帝国に包囲され、エルサレムの多くの人々は餓死をし、焼かれ殺されました。神殿は破壊され、エルサレムは陥落しました。残された民は外国へ散り散りになってしまいました。まさに、彼らが宣言した通り、イエス・キリストの血の責任のため、神のさばきが彼らとその子供達の時代にくだったのです。

Cむち打ち
27:26 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。
 ヨハネによる福音書19章を参照すると、ピラトはむち打ちをすることによってユダヤ人の同情を買って、イエスを釈放したいと考えていたようです。当時のローマ帝国においてむち打ちの刑に使用するむちは、フラグラムと呼ばれ、むちの先端に硬い骨や金属片を編み込んだものでした。打たれると皮膚が裂けるほどの恐ろしいものでした。自白させるための拷問の道具でもあり、失神したり、死亡する人も少なくはなかったようです。イエス様の背中の皮膚、筋肉は切り裂かれ、背骨が現れ、血だらけになっていたでしょう。聖餐式の時にパンを裂くのは、イエス様の身体が裂かれたことを象徴しています。十字架に釘づけにされ槍で刺されたことだと考えていましたが、実はこのむち打ちこそ、イエス様の身体が裂かれたという理由なのでしょう。

3.十字架を取り巻く人々

 マタイはこれらの十字架を取りまく人たちの姿、言葉を書き記すことにより、私達に何を教えようとしているのでしょうか?・・ユダのお金に対する弱さと裏切り、祭司長たちのねたみと傲慢、そして総督ピラトの保身のための責任逃れ・・それらは彼らだけの問題ではなく、私達も同じ弱さを持ち、同じ罪を犯す者であるということを示すのです。そして、罪を犯した人に対する神のさばきは確実だということを、彼らにくだった神様のさばきを通して私たちは知るのです。
 しかし、同時にマタイは神様の恵みの記事も伝えています。ペテロの記事があり、バラバの記事があります。ペテロはユダと同じように主イエスを裏切りました。バラバは極悪人で十字架に架けられるはずの人でした。ペテロもバラバも神様に裁かれるべき人たちです。でも神様は彼らをあわれみ、救いを与えられました。伝承によればバラバは後にキリストを信じ、熱心に福音を宣べ伝えて殉教したと伝えられています。確かな記録はないのですが、そうであってほしいと願いますし、たとえそうでなくても、イエス・キリストがバラバの代わりに十字架に架けられ、バラバは無罪放免となったことは事実です。バラバは、キリストの身代わりの死によって罪赦される私たちのひな型となったのです。

 私達は皆罪びとで、神様に裁かれるべき人間ですが、その刑罰を赦される方法を聖書は教えています。それは神のひとり子、イエス・キリストの身代わりの死です。不正な裁判を受けても、ののしられても、殴られむち打たれても、じっと耐え忍び、十字架に向かわれた神の御子の身代わりの死です。使徒パウロは次のように書きました。
ローマ 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 どうか、あなたも神様の恵みを見い出してください。真理を求め続けてください。知りかけた真理にピラトのように背を向けないでください。