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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書27章33-50節「イエス・キリストーその死」



1.ゴルゴダの十字架


27:33 ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、
27:34 彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
27:35 こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、
27:36 そこにすわって、イエスの見張りをした。
27:37 また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。


 今回の聖書箇所は、イエス・キリストが十字架に架けられ、息を引き取られるまでの出来事です。その場所はゴルゴダと呼ばれ、「どくろ」という意味だと説明されています。どくろのような形をしていたのか、あるいは十字架刑が幾度も行なわれ、処刑された囚人の頭蓋骨があちらこちらに転がっていたため付けられた名前かもしれません。日本語ではゴルゴダと訳されていますが、英語では「カルバリ― calvary」と訳されています。

@苦味を混ぜたぶどう酒
 ゴルゴダに着くと、ローマ兵は囚人たちに苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませました。これは痛みを和らげるための麻酔薬の役目を果たしたと考えられます。囚人は十字架の木に両手両足を大釘で打ち付けられるので、心臓が弱い人ならショック死してしまいます。しかし死んでしまうと十字架刑の意味がなくなってしまいます。

 十字架刑の目的は、死刑囚を長時間十字架にかけて、息絶えるまで苦しませて処刑する最も残酷な処刑法でした。そして町のすぐ近くで処刑することにより、人々に対する見せしめでもありました。ですから、十字架に釘付けした時に囚人が死んでしまったら十字架刑の意味がなくなってしまうのです。それで苦味を混ぜたぶどう酒を飲ませ、痛みを和らげたのでしょう。

 しかし、イエス様はそれをなめただけで飲もうとされませんでした。十字架に架けられる痛みを和らげることなく受けるためでしょう。自ら十字架に架かることを選び、自ら苦しむことを選ばれたイエス様は「私達が受けるべき痛みを担うおかた」として、十字架に架かられたのです。

Aくじを引いて着物を分ける
 兵士たちは、囚人イエスが着ていた服をくじ引きで分けました。それは兵士たちの役得でした。ヨハネによる福音書では四人の兵士たちが四つに分けたと記しています。

B罪状書き
 ゴルゴダの丘には三本の十字架が立てられました。イエス様を真ん中に、右と左に強盗でつかまった囚人が十字架に付けられました。イエス様の頭上には罪状書きが掲げられました。「ユダヤ人の王イエス」――これは罪状書きですが、イエス様の本当の身分でした。

 祭司長たちはこの罪状書きを見たとき、総督ピラトに願い、「ユダヤ人の王と自称した」と書き直してくれと頼んだことが、ヨハネ福音書に記されています。しかし、ピラトは「私の書いたことは私が書いたのだ」と祭司長たちから不正な裁判を強いられた恨みを晴らすかのように要求をはねのけました。ここにも神様の摂理を見ることが出来ます。

※ヨハネ福音書では「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていたと記しています。聖画でイエス様の十字架の上に「INRI」 と書かれてあるのを見ますが、これはラテン語の「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭字語です。実際はヘブル語、ラテン語、ギリシャ語の三つの言語で書いてあったので大きな罪状書であったと思われます。ヘブル語はユダヤ人の宗教言語で、ラテン語はローマが用いていた言語、ギリシャ語は当時の世界で広く使われていた共用語でした。


2.人に捨てられる(午前9時から12時)

27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」

 「道を行く人々」とは過越の祭りに集まった人々か、エルサレム住民かはっきりしません。いずれにしても死刑囚イエスのことを知っていた人たちです。彼らは頭を振り(馬鹿にした態度)、ののしりの言葉を口々にしました。

27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

 民の指導者たちもイエス様をあざけりました。

27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

 事もあろうにイエス様と共に十字架に架けられた二人の強盗もののしりました。

 イエス・キリストを取り囲むすべての人々がののしりました。彼等に共通しているのは、「もしあなたが神の子なら、イスラエルの王なら、メシアなら、十字架から降りて証明してみろ」という点です。これは荒野においてイエス様を誘惑した悪魔の言葉と同じです。

「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」

 つまり群衆や祭司長たちの言葉の背後には悪魔の働きが隠されており、イエス・キリストの十字架による贖いの完成を阻止しようとする悪魔の最後の誘惑だと言えます。しかし、キリストはその声に従わず、十字架から降りられませんでした。自分で自分を救おうとされませんでした。ののしりの言葉に一言もののしり返されませんでした。それは父なる神の御心に従い、過越の子羊として犠牲となられた主イエス・キリストの忍耐でした。

3.神に捨てられる(12時から午後3時)

@全地が暗くなる
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

 三人の死刑囚が十字架に架けられたのは午前9時ごろでした。12時になった時、全地が暗くなり午後3時まで続いたと記されています。聖書の中で全地が暗くなったという箇所が数か所ありますが、それは常に神様のさばきがくだる時の状況です。
参照;出エジプト10:15、黙示録9:2 、アモス8:9

 12時から3時まで何が起こっていたのでしょう?――キリストは木にかけられ呪われた者となり、激しい苦しみを受け、死を待つ者となりました。父なる神に裁かれ、父なる神から捨てられていたのです。キリストは罪を犯しませんでしたが、イエス・キリストを十字架に架けた人々の罪のために身代わりとなって神のさばきを受けられたのです。

 イエス・キリストを十字架に架けた人とは誰でしょう?――ローマ兵、イエス様をののしった人たち、十字架を取り囲んでいた群衆です。そして、その場所に私もあなたも立っていたのです。神を信じないで自分勝手に生きている人間の罪がキリストを十字架に架けたのです。

 イエス・キリストの十字架の場面を描いたパッションと言う映画があります。メル・ギブソンが監督となって制作された映画です。メル・ギブソンは敬虔なカトリック信者だということですが、この映画を作った時、映像の一部に自分も写し入れました。それはイエス様の手に大きな釘が打ち込まれるシーンで、釘を握っているのがメル・ギブソンの左手でした。このことについて彼は次のようにコメントしました。「イエス様の十字架に、自分も少なくとも責任があります。彼の死に対しての自分の責任を表現したかったのです。」 


Aエリ、エリ、レマ、サバクタニ
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 十字架上でイエス様が語られた七つの言葉を福音書は記録していますが、マタイはそのうちただ一つだけを記しています。「
エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」

 イエス様がこの言葉を大声で叫ばれたことにより、彼が父なる神に裁かれ、捨てられたことが分かります。それまで一度もイエス様は父なる神に対して「わが神」と呼ばれていません。常に「父よ」と呼びかけました。つまり父と子という関係が断たれたということです。
 そして「どうしてお見捨てになったのですか」という言葉には、神様の御心を知ることが出来なくなった状態が示されています。神の子であるイエス様が、父なる神との交わりだけでなく、父なる神様の愛からも引き離されてしまったのです。

 人に裏切られ捨てられることはつらいことですが、耐えることが出来ます。人からどんなに迫害されても、神様が支えてくださるいう希望があるので立ち上がることが出来ます。しかし、神に捨てられたなら、誰も生きていくことはできません。誰ひとり、立ち上がることは出来ません。イエス様はこの三時間、最も恐ろしいさばきを受けておられたのです。



B周りの人々の反応
27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。

 イエス様が大声で叫ばれた言葉を聞いて、人々の反応はどうだったでしょう?――イエス様の口が渇いていたため、よく聞き取れなかったのでしょう。「エリ、エリ」と叫ばれたのを「エリヤを呼んでいる」と勘違いしました。一人の兵士が(ルカ23:36参照)、走って行って酸いぶどう酒を飲ませようとしました。イエスと言う囚人が何を言おうとしているのかはっきり聞きたいという好奇心からでしょう。

 昼間なのにあたりは暗くなっていたので異様な雰囲気の中です。人々は何か不思議なことが起こるのではないかという期待をしていたようです。「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言い、高見の見物気分で、死刑囚イエスに対するあわれみのかけらもありません。十字架を取り巻く人々の心の闇が最後の最後まで続きます。

C最期のことば
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

 イエス様はもう一度大声で叫んで、息を引き取られました。イエス様の最期の言葉をマタイは記していませんが、他の福音書に記されており、「
完了した」という言葉に続いて、大声で「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と叫ばれました。ここに、救い主として来られたイエス・キリストの贖いが完成しました。それは血による新しい契約の完了です。「父よ」と呼びかけておられることにより、父なる神との交わりが回復されたことが分かります。神の怒りの杯をすべて飲み干されたイエス様は、再び父なる神の愛に抱かれ、父なる神の懐に戻られたのです。

4.マタイのメッセージ

 著者マタイはこれらの出来事を書きながら、ユダヤ人たちに一つのメッセージを伝えようとしていることが分かります。それはユダヤ人なら誰もが知る詩篇22篇を思い出してほしいというメッセージです。

22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
22:3 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
22:6 しかし、
私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
22:7 私を見る者はみな、
私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります
22:8 「【主】に身を任せよ。彼が助け出したらよい。
彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。
22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
22:11 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
22:12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、
私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
22:16 犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの
着物を、くじ引きにします
22:19 【主】よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。
22:20 私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
22:21 私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。

 詩篇22篇とマタイが記した十字架の記事は、ほぼ一致しています。ダビデが書いた詩は、彼の心境を綴っていますが、約千年後にお生まれになるイエス・キリストの十字架を見事に預言していました。そこに啓示されているのは、イエス・キリストこそダビデの子孫として生まれ、ダビデの永遠の王座に就く王だということです。それを象徴するかのようにイエス様の頭上には「ユダヤ人の王、イエス」という文字が掲げられていたのです。何と神様のご計画は深いのでしょう。神様は私たちを罪のさばきから救い出すために、綿密なご計画を立てられ、何と大きな犠牲を払って救いを与えられているのでしょう!

 マタイはユダヤ人に向けて福音書を書くことにより、「我々は預言されていた救い主を十字架に架けて殺してしまった」ことを知るようにと願っているのです。そして、マタイ自身もキリストを十字架に架けた一人でした。使徒であるのに、主イエスを見捨てて逃げてしまいました。彼も群集の一人としてゴルゴダの丘に居て、主イエスの十字架の最期を見ていたはずです。彼は自分自身の大きな悔い改めをもってこの福音書を書いたのです。

 私達がするべきことは、イエス・キリストの福音を聞いて、それを信じるだけです。これは人間の行いによらず、神様の恵みによって救いが与えられるためです。今日、十字架の言葉を聞いて、「私がキリストを十字架に架けました。イエス様の十字架は私の罪のためでした」と告白してください。