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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書27章51-66節「イエス・キリストーその葬り」



 本日の聖書箇所はイエス様が葬られる場面です。福音はイエス・キリストが十字架に架かって死なれたこと、葬られたこと、そして三日目によみがえられたことを宣言します。

1.新しい時代の到来

27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現れた。

A.三つの出来事
 イエス様が十字架で息を引き取られると、三つの不思議な出来事が起こりました。
@神殿の幕が裂けた
A地震が起こり、岩が裂けた
B多くの聖徒たちが生き返った


@神殿の幕が裂けたのは、神様の特別な啓示です。マタイは「見よ」と強調しています。

 当時のエルサレム神殿はヘロデ大王によって大掛かりな修復拡張工事をしていた最中でした。神殿の内部は聖所と至聖所に区切られていますが、それを仕切るのが神殿の幕です。祭司たちは聖所まで入ることが出来ますが、その奥にある至聖所には入れず、大祭司だけが年に一度だけ入ることが許されていました。至聖所には契約の箱が置かれ、そこで神様が大祭司に臨在を現わされました。

出エジプト25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

 その仕切りの幕が裂けたということは、聖所と至聖所の区別がなくなり、大祭司だけでなく祭司なら誰でも至聖所に入ることが出来るということです。現在では「万人祭司」と呼ばれますが、大祭司という仲介者を必要とせず、信仰者は誰でも直接、神様に祈り、礼拝することが出来るという教えです。ヘブル書ではさらに深い霊的真理を私達に教えています。

ヘブル10:19-20 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

 イエス様の肉体が幕であり、その肉体が裂かれたことによって新しい生ける道、つまり新しい契約における礼拝が与えられたのです。それは旧約聖書で命じられた神殿礼拝の終わりを示すものです。ですから、私達クリスチャンは神殿や祭壇を作る必要はありません。毎年エルサレムへ上って巡礼する必要はありません。キリストが私たちの内に住んでおられるからです。

A地震が起こり、岩が裂けたのは、神様のさばきと時代の終わりを示すしるしだと考えられます。

B聖徒たちが生き返ったのは、イエス様の復活が「救いの確証」であったと同じように、「新しい時代の幕開けの確証」のためでしょう。

B.百人隊長の告白
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 新しい時代が到来することを示すために、著者マタイは百人隊長の言葉を記しています。彼は異邦人ですが、「この方はまことに神の子であった」と告白しています。イエス・キリストの十字架を見て、最初に告白した人はユダヤ人でなく異邦人でした。つまり、新しく始まる時代は「異邦人の時」であることを暗示しています。

C.多くの女性たち
27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。


 マタイはここにきてやっと女性たちの存在を明らかにしています。マグダラのマリヤをはじめ、多くの婦人たちがガリラヤからずっと付いて来ていたのです。その中にはイエス様の母マリヤもいました。

 マタイは新しい時代が「女性たちの時代だ」と言わんばかりです。当時の女性たちの立場は弱く、数にも加えてもらえず、裁判において証言に立つことも出来ない時代でした。マタイによる福音書を読んでいくと、女性が登場する記事がとても少ないことに気付きます。それはマタイがユダヤ人に宛ててこの福音書を書いたからです。ユダヤ人にとって女性たちの記事や証言は受け入れてもらえないため女性の記事が少ないのです。

 しかし、新しい時代においては、女性たちが福音のために用いられました。復活されたイエス様にお会いし、最初の復活の証人となりました。この世では無視されている人たちの証言がキリストの復活を広めていったのです。

 神様は不思議なお方です。福音を伝えるために権力者や知恵者を用いられませんでした。蔑視されていた女性たちやガリラヤという田舎町の漁師たちを用いられました。それは福音がうまく考え出された思想ではなく、権力者が人々を支配するためのアイデアでもないからです。福音は人の知恵によってでなく、神の知恵によって与えられた救いのメッセージだからです。

Tコリント 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

2.イエス様を葬る

27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
27:61 そこにはマグダラのマリヤとほかのマリヤとが墓のほうを向いてすわっていた。



A.その日のうちに
 ヨハネによる福音書を参照すると、祭司長たちは死刑囚をその日のうちに十字架から取り降ろすよう総督ピラトに願ったことが記されています。

ヨハネ19:31 その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。

 その理由は、日没から安息日と過越の祭りが始まるためでした。楽しい祭りの間、呪われた死刑囚を誰も見たくなかったのでしょう。また、律法の規定には次のように書かれています。

申命記21:22-23 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、【主】が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

 ローマ総督が十字架による処刑を行った場合、見せしめのために数日間放置しておくのですが、祭司長たちは自分たちがイエスを十字架に架けたという思いがあったのでしょう。律法の規定に従おうとしたのです。

 死刑囚の遺体は通常、エルサレム城壁の南にあるヒンノムの谷と呼ばれるゴミ焼却場に投げ捨てられました。その場所はギリシャ語でゲヘナと呼ばれ、焼却する火が絶えることがなく、悪臭が立ち込める場所でした。新約聖書ではこのゲヘナという語が永遠の地獄を指す言葉として用いられるようになりました。首を吊って死んだイスカリオテ・ユダの遺体はヒンノムの谷に投げ捨てられたと思われます。

使徒 1:18 ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。

B.アリマタヤのヨセフ
 もし、この時にアリマタヤのヨセフがイエス様の遺体を引き取らなければ、イエス様の遺体もヒンノムの谷(ゲヘナ)へ投げ捨てられていたはずです。しかし、それはあってはならないことです。神様はアリマタヤのヨセフを用いられました。彼はサンヘドリンの有力な議員でした。立派な正しい人であり、神の国を待ち望んでいました。そして彼はイエス・キリストの弟子となっていました。しかし、ユダヤ人を恐れて弟子であることを隠していたのです。

参照;
ルカ23:50-52 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。

 ヨセフは議員ですから、祭司長たちがピラトに遺体を取り降ろすよう願ったことを知っていたはずです。彼は思い切ってピラトに直訴し、自分が遺体を引き取り、葬ることの許可を求めました。このことはとても勇気がいることでした。なぜなら、ヨセフは有力な議員でしたが、もし、死刑囚イエスの弟子であることを公にするなら、彼の議員職は剥奪され、彼も彼の家族も迫害されることが目に見えていたからです。つまり、彼は自分が築いてきた地位や名誉すべてを投げ捨てる覚悟をもってイエス様の遺体の引き渡しを願ったのです。彼はイエス様の傷だらけの遺体を十字架から取り降ろし、亜麻布で包み、彼が所有していた新しい墓に葬りました。

 ヨハネによる福音書では、この時に同僚議員のニコデモもやってきて、イエス様の葬りを手伝ったことが記されています。彼らの勇気ある証しと奉仕によってイエス様の遺体はヒンノムの谷(ゲヘナ)に投げ捨てられませんでした。そして彼らの尊い証しと奉仕は聖書に書き記されたのです。

参照;
ヨハネ19:38-40 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。



C.墓の番兵
27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」
27:65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。
27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

 イエス様は御自分が十字架に架けられて死に、墓に葬られ、三日目によみがえることを幾度か預言されました。皮肉なことにその言葉を思い出したのは、弟子達ではなく祭司長、パリサイ人たちでした。祭司長たちは再び総督ピラトの所へ出向き、墓の番のために兵を出してくれと頼みました。その結果、イエス様が葬られた墓の入口の石には封印がされ、墓の前をローマ兵たちが厳重に警備しました。

 福音書は私達にイエス・キリストが確かに死なれて、確かに葬られたことを伝えています。それはイエス・キリストが墓の中で息を吹き返したのでもなく、遺体が盗まれたのでもないことを証明しています。イエス様は疑う余地もなく、十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられたのです。