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心に響く聖書の言葉


マタイによる福音書28章1-15節「イエス・キリストーその復活」



 今回はいよいよ最後の章で、イエス・キリストの復活の記事です。長く続いた重苦しい十字架の場面から一変して、喜びのメッセージへと変わります。

1.日曜日の朝

①墓へ向かうマリヤたち
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。

 イエス様が十字架に架けられたのは、ユダヤ歴の1月にあたるニサンの月の14日だと思われます。(一般的には13日)その日は金曜日でした。午後3時ごろ息を引き取られ、アリマタヤのヨセフが遺体を取り降ろしたのはすでに午後5時近くだったでしょう。

 ヨセフはイエス様の遺体に香料、没薬を塗り、亜麻布を巻いたのですが、葬りの処置を十分できないまま急いで墓に葬ったようです。日没が近づき安息日が始まろうとしていたからです。律法の規定では人を葬る時にはその日のうちに、つまり、日没までに葬らなければなりませんでした。(申命記21章22-23節参照)

 マグダラのマリヤと他の女たちは、イエス様の遺体が葬られる所を見ていました。彼女たちは安息日が終ったら自分たちでイエス様の遺体に油を塗り、丁寧に葬りたいと思ったようです。安息日は規定通り休み、陽が沈んで安息日が終るとすぐにマリヤたちは香料を買って準備をし、そして日曜日の朝、まだ暗いうちに彼女たちは起きて墓へ向かいました。(参照;マルコ16:1)

②墓での出来事
 その日曜日の朝早く、イエス様が葬られた墓ではただならぬことが起こっていました。

28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

 地震が起き、天の使いが降りてきて、墓の入り口をふさいでいた大きな石を転がしたのです。その天使を見て、番兵たちは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。顔面蒼白、腰を抜かした状態でしょう。彼らは必死に逃げていったようです。マリヤたちが墓に到着したときにはすでに番兵たちはおらず、封印された石が転がされていたことが他の福音書に記されています。

③墓に着いたマリヤたち
 墓に着いたマリヤたちを迎えたのは天使でした。
28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。


 天使を見たのは彼女たちにとって初めての経験だったに違いありません。番兵たちと同じように震え恐れました。しかし、天使がマグダラのマリヤたちに告げた言葉は驚くべき喜びの知らせでした。

28:5「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

 確かに墓の中は空っぽでした。残されていたのはイエス様の遺体に巻いてあった亜麻布だけでした。彼女たちは天使に告げられた通り弟子たちへ知らせに走りました。その後、再び墓へ戻ってきました。そこでさらに大いなる出来事を経験したのです。

2.復活の主イエス

①マリヤたちに現れる
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10 すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」



 何とうれしい光景でしょう。マリヤたちがどれほど喜んだか想像できるでしょうか。復活の主イエスを前にして、ただただイエス様の足元にひれ伏し、その御足にすがりつきながら礼拝したのです。

 復活されたイエス様の第一声は「おはよう」です。「おはよう」と訳されている語は「カイレテ」(ギリシャ語:χαίρετε)です。元の意味は「喜びなさい」と言う命令形ですが、古典ギリシャ語ではあいさつの言葉として用いられるようになりました。「おはよう、こんにちは、さようなら、ようこそ」と言う意味です。※フットノート参照

②ガリラヤで会う
 イエス様はガリラヤで弟子たちと会うと言われました。そのことを十字架に架かられる前にも弟子たちに言われました。

マタイ26:32 「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

 なぜ、ガリラヤなのでしょう?・・その理由は二つ考えられます。

・ガリラヤがイエス様の伝道のスタート地点でしたし、弟子たちにとっても使徒として召された場所でした。そして、再び教会時代における新しい任命を与えるためにガリラヤを選ばれたのでしょう。ヨハネによる福音書では、ガリラヤ湖でペテロに対して「わたしの羊を飼いなさい」と三度、命じられたことが記されています。「福音の使徒」として再び召命するため、最もふさわしい場所――それがガリラヤなのです。

・もう一つの理由は、預言です。
マタイ4:14-16 これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」

 この箇所では、イエス様がガリラヤから宣教を始められたことを預言の成就だとしているのですが、二重預言として「新しい時代における福音の光がガリラヤに上った」と解釈することも可能です。



③番兵たち
28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。
28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、
28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。
28:14 もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」
28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

 番兵たちは総督ピラトの所へは恐れて戻ることが出来ませんでした。「天使が現われて遺体がなくなってしまった」などと総督に話しても納得してもらえないでしょう。任務を怠ったという事で処刑されてしまうと恐れました。彼らは祭司長たちの所へ行って相談しました。祭司長たちは番兵たちの話を聞いてイエス様の復活を信じたでしょうか?――いいえ、彼らは先祖たちと同じようにうなじのこわい人々で、信じるどころか、さらに悪事を重ねました。

 彼らは兵士たちに賄賂を渡して、「居眠りしている間に弟子たちが遺体を盗んでいったと証言しなさい。後の事は何とかするから」と言って、あくまでキリストを信じず、弟子たちを犯罪者に仕立て上げようとしたのです。

3.復活の証言


①番兵たちの証言
 よく考えるなら、番兵たちの証言は偽証だと誰でもわかります。番兵数人が全員同時に居眠りをしていたとは考えられません。そして番兵たちが居眠りしている間に、イエスの弟子たちがやって来て、封印を壊し、音を立てずに墓の入り口の大きな石を動かし、遺体を気付かれずに盗んでいった、という事は考えられないことです。また、番兵が眠っていたなら、遺体を盗んでいったのが弟子達だとどうしてわかるでしょう。明らかにつじつまの合わない証言です。しかし、復活を信じようとしない人たちにとっては、それしか説明する方法がなかったのです。

②弟子たちの証言
 百歩譲って、弟子たちがイエス様の遺体を盗んだと考えてみましょう。何のためにそんな事をしたのでしょうか?ユダヤ社会に対する恨みから、キリスト教を作って対抗したかったのでしょうか?自分たちが信じてきたイエス様をメシアに仕立て上げて新しい宗教団体を作りたかったのでしょうか?・・いずれにしても、弟子達には何の得もありません。

 彼らはその後、キリストの復活の証人として伝道しましたが、ユダヤ人からもローマ帝国からも激しい迫害を受け続けました。社会から憎まれ、牢獄につながれ、拷問を受けた挙句、ほとんどの弟子たちは殉教の死を遂げました。彼らは処刑される最期までキリストが復活されたことを証言し続けたのです。番兵たちのように自分の身を守るために、また報酬をもらって嘘の証言をする人もいるでしょう。しかし、キリストの復活の証人たちは、迫害され貧しくなることを覚悟の上で証言したのです。



③教会の成長
 弟子達の命がけの福音宣教によって、人々が救われ、キリストの教会が成長しました。ユダヤでは土曜日が安息日で休みでしたが、次第にイエス様が復活された日曜日の朝に人々は教会に集まり、礼拝を持つようになりました。このこともイエス様が日曜日の朝に復活された証明の一つです。

 私たちクリスチャンは、十字架に架かって死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられた主イエス・キリストの福音を信じ、その復活を記念して毎週日曜日の朝に集まり、父なる神様に礼拝をささげます。ですから、毎週が特別礼拝であり、キリストの復活を記念するお祭りです。

④生きる希望
 キリストが墓の中からよみがえったという福音は、私たちに永遠の希望を与えます。使徒パウロは次のように復活の意義を述べています。

Ⅰコリント15:19-21 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

 キリストがよみがえったのは初穂としてです。キリストの復活は「私たちも、死んで、葬られて、そしてよみがえる」ことの証明です。死とよみに打ち勝ってよみがえられたキリストこそ私たちの希望の保証です。



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※復活されたイエス様の最初の言葉が「おはよう」と言うのは軽い感じがします。おそらくイエス様は「シャローム」とヘブル語で挨拶されたと思います。それをギリシャ語にすると「カイレテ」になります。そのため、文語訳では「安かれ」、口語訳では「平安あれ」と訳されています。

 ルカ24:36,ヨハネ20:19,21,26で、「平安があなたがたにあるように」(ギリシャ語εἰρήνη ὑμῖν)と訳されたイエス様のことばもおそらく「シャローム」だったと思われます。これらの箇所では挨拶としてではなく、その意味を重視して「カイレテ」ではなく「エイレネεἰρήνη」のギリシャ語を用いたと考えられます。