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心に響く聖書の言葉


使徒の働き 講解説教

使徒の働き1章10-14節
「イエス・キリストーその昇天A」



1.昇天の理由


A.新しい時代の到来
1:5 「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 イエス様は昇天される際、聖霊のバプテスマが与えられると約束されました。それは新しい時代、教会時代の啓示でした。信じるすべての人に聖霊が与えられ、聖霊によって導かれる時代です。聖霊の内住こそが教会時代の最大の祝福であり、奥義とされていることです。神の霊が人の内に留まるとき、その人の罪は清められ、新しく生まれ、永遠のいのちを持つからです。神様が定められた時代の区分を理解するなら、イエス様がなぜ昇天されなければならなかったのかが分かります。それは聖霊時代到来のためです。もしもイエス様が地上に留まり続けられたなら、信仰者を聖霊によって導かれるという時代は実現できません。人々は目に見えるキリストに従うようになるからです。したがってイエス様が地上から去らなければ聖霊の時代は到来しなかったのです。

ヨハネ 16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

B.聖霊の時代の目的
 では、何のために聖霊の時代が与えられたのでしょうか?・・それは二つの大きな目的のためでした。

@異邦人からも信仰の民を集めるため
使徒 11:18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。

Aイスラエルにねたみを起こさせ、悔い改めさせるため
ローマ 11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

 現在のイスラエルは不信仰の中にありますが、将来、回復のときが必ず来ると預言されており、神様のイスラエルに対する御計画は無くなっていません。教会の長い歴史の中で教えられて来たことは、「ユダヤ人はイエス・キリストを十字架に架けて殺したので、神様に裁かれて祝福を失ってしまった。それゆえ神様の祝福は教会に与えられ、教会が新しいイスラエル、つまり霊的イスラエルとなり、イスラエルに取って代わった」という教えです。これを置換神学と呼びます。イスラエルが教会に置き換えられたというのです。この間違った教えのために、ユダヤ人は迫害されるようになりました。ユダヤ人の高ぶった選民意識も迫害される要因の一つでもありますが、根底には呪われた民族という意識があるのです。しかし、ローマ人への手紙11章では、イスラエルは決して捨てられた民族ではなく、神様は今でもイスラエルを愛しておられると教えています。

ローマ11:25-31 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」 彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 今は異邦人に福音が宣べ伝えられる時代です。イスラエルは不信仰のままですが、異邦人は祝福され、キリストにあって喜び踊っています。それはイスラエルにねたみを起こさせ、彼らが再び父なる神様の御心に立ち返るようになるためです。この期間を設けるためにイエス様は昇天されなければなりませんでした。しかし、聖霊が取り去られる時がもうすぐ来ます。(空中携挙により教会が上げられるとき)その後にイエス様は再臨され、イスラエルの王として地上において全世界を支配されます。
※イエス様が天に帰られたもう一つの理由は、キリスト者に永遠の場所を備えるためです。参照;ヨハネ14:2

2.再臨の約束



1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。


@御使いのことば
 イエス様が天に昇って行かれた後も弟子たちは空をいつまでも見つめていました。今までの弟子たちの行動パターンを考えるなら、落胆して散り散りになってしまう場面です。しかし、気が付くとそばに白い服を着た人が二人立っていました。御使いたちでした。神様は弟子たちの弱さを知っておられ、彼らに御使いを遣わされました。フォローアップと言えるでしょう。御使いの言葉は気落ちしかけていた弟子たちに再び大きな希望を持たせました。

「同じ有様で、またおいでになります。」

 イエス様の再臨の約束です。この言葉によって弟子たちは自分たちが生きている間に主イエス様が再び帰って来られるという希望を持ち続けることが出来ました。実際はそれからもうすぐ二千年が経過しようとしています。聖書を信じない人たちは聖書の預言はでたらめだと笑うでしょう。しかし、次のペテロのことばに目を向けてください。

Uペテロ3:3-9 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 私達にとってはもう二千年ですが、主にとってはたったの二千年です。神様はひとりでも滅びることを望まれず、すべての人が悔い改めに進むことを望んで待っておられるのです。

A再臨(世の終わり)の前兆
 イエス様が預言された世の終わりの前兆を学ぶなら、イエス様の再臨が近いと分かります。私たちが生きている間に空中再臨が起こると私は期待しています。最近の傾向として多くの国々が自国の主張を通そうとして紛争が起きています。日本も、本来仲良くやっていくべきお隣りの国々(韓国、中国、北朝鮮、ロシア)とまったくうまくいっていません。オリンピックは世界平和の象徴ですが、見方を間違えると、自国の選手だけを応援し、敵国の選手をやっつけろ!と、国粋主義に走り始める危険があります。
 世界各地で頻発する大地震や、地球温暖化による異常気象災害、人口増加と食料不足による飢饉があります。世界中のいたるところに核爆弾が配備され、一触即発の状況です。

 何より1900年間離散していたユダヤ人がパレスチナに戻り、イスラエル国が1948年に再建されました。イスラエル国に対する不満が募り、憎まれている世界情勢はまさに世の終わりの前兆です。世界最終戦争に向けての準備が整いつつあります。戦いの場所は黙示録16:16によればメギドの丘、ハルマゲドンです。その最終戦争のただ中にイエス・キリストが再臨されるという預言は全世界の最後の希望となるのです。

 聖書はイエス・キリストがどこに再臨されるのかまで預言しています。それはエルサレム旧市街のすぐ近くにあるオリーブ山だとゼカリヤ書に預言されています。

ゼカリヤ 14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。


 イエス様はオリーブ山から天へ昇って行かれ、オリーブ山へ同じ有様で戻って来られるのです。



3.エルサレムに留まる


1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。


@共に集まった人たち
 弟子たちはオリーブ山からエルサレムへ帰りました。彼らの心境は複雑だったと思います。イエス様が告げた聖霊のバプテスマの約束と、御使いが告げた再臨の約束に希望を持った半面、これから何をやっていったらいいのかという不安と、ユダヤ人たちから迫害されるという恐れもあったはずです。何より、今まで仕えてきたイエス様がいなくなったことは事実でした。

 何をしたらいいのか分からないとき、私達はどうすれば良いのでしょう?・・その答えは祈りです。弟子たちは泊まっている部屋に入り、祈り始めました。11人の弟子たちの名前が記されています。「婦人たち」とは墓を見に行ったマグダラのマリヤ、サロメ、ヤコブとヨハネの母親でしょう。イエス様の母マリヤもいました。そしてイエス様の兄弟たちもいたと記されています。福音書の中では弟たち妹たちは、お兄さんであるイエス様を救い主だと信じていませんでした。しかしこの所で共にいて、祈りに専念していたのです。驚くべき変化です。考えられる理由はただ一つです。復活されたイエス様が彼らにも現われてくださったからでしょう。

※カトリック教会はマリヤが永遠の処女という教義を保持するため、この「兄弟」を「従兄弟」だと解釈しますが、イエス様の兄弟たちは母マリヤと度々共に登場していますから、従兄弟とは考えられません。また、弟たちの名前まで聖書は記しています。
マタイ 13:55-56 この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。

A祈りに専念する
 聖霊が降るまでの約10日間、弟子たちと女たち、そしてイエス様の母マリヤと兄弟たちは心を合わせて祈っていました。「心を合わせて」という語は、「心を一つにする」という意味のギリシャ語が用いられています。私たちクリスチャンが心を一つにして歩んでいくために必要なのは祈りだと教えられます。祈りがなければ一致して働くことが出来ません。なぜなら、私達は一人一人考え方が違うからです。出身地も違います。性格も趣味も、顔つきも体格も、年齢も血液型も違います。また神様から与えられた賜物も違います。教会で一緒に奉仕しましょうと言っても、皆が同じ奉仕をするわけにはいきませんし、それぞれ自分に与えられた賜物を用いて奉仕をすべきです。

 教会に集うクリスチャンたちが一致した考えで働くことは、はじめから不可能に近い事なのです。無理に一致させようとするなら分裂が必ず起こります。しかし、一つだけすべてのクリスチャンに一致する部分があります。それはイエス様を信じて救われ、イエス様の言葉に従っていこうとすることです。イエス様だけが私たちを一つにつなぎ止めるかすがいなのです。そして、一つだけ共にできる奉仕があります。それが祈ることです。イエス様を中心にして集まり、共に祈っていくとき、人間の思いを越えた神様の思いが与えられます。祈りがなければ私たちはバラバラになってしまいます。ですから私たちは祈るために教会に集まりましょう。イエス様がエルサレム神殿に入られたとき、こう叫ばれました。

マタイ 21:13 『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。
(イザヤ56:7から)

 教会は商売の場所ではありません。社交場ではありません。仲良しクラブでもありません。祈りの家でなければならないのです。

 聖霊が降るまでの約10日間、弟子たちは偉大なリーダーを失い、どうしたらいいのか分からず、不安と恐れがありました。しかし、彼らは祈りに専念しました。祈りが彼らの心を平安で満たしました。祈りに専念した時間は無駄とはならず、イエス・キリストの証人として働くための大切な準備となりました。

 祈りは思い煩いから私たちを解放し、神の御前に心を整えます。祈りによって私達の奉仕を人間の栄光のためではなく、神様の栄光のために行えるように整えます。そして、祈りは神様の祝福を引き出す鍵です。祈りは応えられ、私達は感謝と賛美をもって神様の御名をさらに誉め称える者となるのです。




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