本文へスキップ

心に響く聖書の言葉


使徒の働き 講解説教

使徒の働き3章1-26節
「金銀は私にはない」



 今日の聖書箇所は、使徒ペテロとヨハネによって行われた足なえの男をいやすしるしです。他にも多くのしるしを使徒たちは行ったのですが、ルカがあえてこのしるしを取り上げている理由は、教会に対する迫害のきっかけになったという点と共に、神様の永遠に変わらない御心が示されているからです。その神様の御心に注目しましょう。

1.生まれつき足のなえた人

3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。


 当時のエルサレムに住むユダヤ人は、毎日朝9時、昼12時、そして午後3時に礼拝と祈りのためにエルサレム神殿へ登りました。その良い習慣は初代教会のクリスチャンたちにも引き継がれ、使徒たちもいつものように午後三時になるとエルサレム神殿に登って祈り、そして共に集まって教会として集会を持っていたのです。(3:11から、集会の場所はソロモンの廊であったと思われます。)

@四十歳過ぎの男
 神殿の入り口には多くの障がい者が施しを求めるために座っていたと思われます。そこに一人の生まれつき足のなえた人がいました。4章22節によると40歳すぎの男性であったことが分かります。彼は一人では移動できないので、毎日、家族か誰かにおぶってもらって神殿の入り口に置いてもらっていたのでしょう。



A美しの門
 「美しの門」とは、神殿の東側にある門で、この門を抜けるとまっすぐ先が聖所と呼ばれる場所で、そこで人々は礼拝をささげました。美しの門は人の往来が多い場所であったため施しを求める人々が集まっていたと思われます。

 足なえの男が美しの門の入り口に置かれた理由のもう一つは、障がいを持った人はこの門から神殿の奥へ入ることが許されていなかったためです。レビ記の中に次のように規定が定められています。(レビ記以外では、Uサムエル5:6-8を参照)

21:16 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
21:17 「アロンに告げて言え。あなたの代々の子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、神のパンをささげるために近づいてはならない。
21:18 だれでも、身に欠陥のある者は近づいてはならない。目の見えない者、足のなえた者、あるいは手足が短すぎたり、長すぎたりしている者、
21:19 あるいは足や手の折れた者、
21:20 くる病、肺病でやせた者、目に星のある者、湿疹のある者、かさぶたのある者や、こうがんのつぶれた者などである。
21:21 祭司であるアロンの子孫のうち、だれでも身に欠陥のある者は、【主】への火によるささげ物をささげるために近寄ってはならない。彼の身には欠陥があるから、神のパンをささげるために近寄ってはならない。
21:22 しかし彼は、神のパンは、最も聖なるものでも、聖なるものでも食べることができる。
21:23 ただし、垂れ幕の所に行ってはならない。祭壇に近寄ってはならない。彼は身に欠陥があるからである。彼はわたしの聖所を汚してはならない。わたしがそれらを聖別する【主】だからである。」


 ユダヤ人たちはこの律法を守るために、身体に障がいを持つ者は「外庭」(または異邦人の庭と呼ばれる所)までしか入ることが出来ないと定めました。障がい者は外庭から門を通って内庭に入ることが出来ませんでした。その一つの門が美しの門でした。

Bあわれな人生
 彼の生涯を考えると本当にあわれな人生だったに違いありません。生まれつき足が機能しないという事は、一度も自分の足で立ったことがないのです。自分で行きたいところへ行くことが出来ません。風呂に入るにもトイレも人の世話にならなければなりません。自分一人では何も出来ず、家族や周りの人々の世話にならなければなりません。

 福祉など充実していない時代ですから、物乞いをして生活するしか生きる術がない。そしてその障がいは治る望みもなく、生きている限りその障がいを背負って不公平を味わわなければならないのです。神様だけは自分を見捨てられないはずと信じたいのですが、神の律法は障がい者を礼拝の場から締め出していたのです。神を呪いたい気持ちだったかもしれません。

 また、当時のイスラエルでは障がいを持って生まれた子は、先祖か家族の誰かが罪を犯したために、神にさばかれてそうなったと考えられていました。ですから、障がい者は「罪人の子」だと世間から白い目で見られていたのです。

2.使徒ペテロによるいやしの奇蹟

 施しを受けるために美しの門の入り口に置かれた足なえの男の前を、使徒ペテロとヨハネが通り過ぎて門から入ろうとしました。その時、いつものように足なえの男は「私をあわれんでください!」と叫んだのでしょう。ペテロはヨハネと共に彼をじっと見て、「私達を見なさい」と言いました。足なえは、彼らが施しを恵んでくれるものと期待したでしょう。

@完全ないやし
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。


 神様の驚くべき御わざが現わされました。神様が行なわれる奇蹟は常に完全なしるしです。片方の足だけ良くなったのではありません。足が動くようになっただけではありません。
「彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら・・・」――
それは完全な回復でした。リハビリなしに歩けるようになり、「跳ねたりした」とまで書いています。つまり、普通の人と同じまで一瞬にして回復したのです。それは神様の創造のわざとも呼べるでしょう。神様のしるしは常に完全です。それは神様が完全なお方である事を私たちに教えています。

Aペテロの言葉
 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」

 ペテロの言葉はじつに正直です。イエス様の弟子として仕えていた時も貧しい生活でした。そして、教会時代に入り、教会の指導者となっても彼は貧しいままでした。何一つ自分の財産を持たず、すべての物を共有していました。ですから、正真正銘、彼は無一文でした。しかし、彼にあるものがありました。イエス様からいただいた使徒としての権威です。その権威を用いて足なえの足をいやすことが出来ました。金銀を与えることは一時的な助けです。しかしペテロが与えたのは、この男にとって一生涯にわたる大きな助けとなりました。

 これは私達クリスチャンの奉仕でも同じだと思います。使徒たちと同じような奇蹟を行う権威を与えられてはいませんが、ペテロたちが持っていたものを私達も持っています。それは、イエス・キリストの福音です。十字架の贖いによって一切の罪が赦されて永遠のいのちが与えられるという福音です。この福音を宣べ伝えるという事は、一時的な助けや一時的な救いを与えることではありません。生涯にわたる助けであり、永遠の救いを与えるのです。

Bいやされた男
 注目しなければならないのは、いやされた男が「神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。」という事です。それまで彼は賛美をしたことがなかったと思います。イスラエル人として賛美をしたとしても、背負った障がいを思うと心から神様を賛美したことがなかったでしょう。しかし、キリストの御名によっていやされたとき、生まれてはじめて心から賛美したのだと思います。

 そして彼は今まで入ることが出来なかった「美しの門」の中に入ることが出来ました。生まれてから四十年間、多くの人々が美しの門を通って聖所に入っていくのを彼はただただ見ていただけでした。礼拝を終えた人々が喜びに顔を輝かせて出てくる姿を見て、彼はうらやんだに違いありません。

 しかし、今、「生まれてはじめて神殿に入っていくことが出来る!神様に受け入れられた!」と感激しながら彼は美しの門から神殿へ入っていったでしょう。その喜び踊りながら聖所に向かう彼の後ろ姿に、キリストの福音の奥義が現わされているのです。罪びとである私たちを、何の善い働きもない私たちを、父なる神様はあわれんで受け入れてくださるーーこれが福音です。



 ※旧約聖書のすべての律法は神様の聖さと完全さを人々に教えました。アダムが罪を犯して以来、人は呪われた者となり、死ぬ者となりました。災害に苦しみ、障がい者が生まれ、不公平が社会の中に蔓延しました。・・それは神様の御心の世界ではありません。それで父なる神はそのひとり子を世に遣わして、救いを与えられました。キリストの十字架の贖いによって罪を赦し、悪の世界から救い出し、不公平の無い神様の恵みに預からせ、永遠に生きる共同体としてくださったのです。
 神様はその模範をエルサレムの初代教会において実現されました。すべての信者が分け合って生きる共同体です。障がい者はいやされて不公平がなくなりました。異邦人も受け入れられました。神様の御心の世界、御心の教会でした。しかし、イスラエルは神様が与えられた福音による神の平等を受け入れませんでした。福音を拒否し、教会を迫害しました。そのため、イスラエルはかたくなにされ、福音は異邦人に向けられるようになりました。現在も、イスラエルが悔い改めるまで、異邦人の時代が続いているのです。

3.ペテロによる二度目の説教

 いやされた足なえの男は、数十年間、ほとんど毎日、美しの門の入り口に座っていましたから、エルサレムの人たちによく知られていました。いやされた彼に気付いた群衆は何事が起ったのかと驚き、ペテロたちの所へやってきました。そこで、ペテロは再び立ち上がって話し出しました。

3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
3:11 この人が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
3:13 アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたは、この方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
3:14 そのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
3:15 いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
3:16 そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。
3:17 ですから、兄弟たち。私は知っています。あなたがたは、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたのです。
3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
3:19 そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
3:20 それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。
3:21 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
3:22 モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。
3:23 その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』
3:24 また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。
3:25 あなたがたは預言者たちの子孫です。また、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地の諸民族はみな祝福を受ける』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたあの契約の子孫です。
3:26 神は、まずそのしもべを立てて、あなたがたにお遣わしになりました。それは、この方があなたがたを祝福して、ひとりひとりをその邪悪な生活から立ち返らせてくださるためなのです。」


 ペテロは驚いている人たちに、これは自分たちが行なった奇蹟ではなく、神様が行なわれたしるしだと説明しました。そして、神様がモーセ、アブラハムにあらかじめ語られていたこと、またサムエルをはじめとする預言者たちを通して預言されたことはイエス・キリストの事であったと、聖書のことばを再び解き明かしました。
 そして「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」と命じました。このペテロの説教によって多くの人々が弟子に加えられ、その数は男だけで五千人ほどになりました。

 聖書の記事は作り話ではありません。歴史の中で神様が働いておられることを証明するものです。どうかイエス・キリストの十字架の福音を聞いて、信じてください。神様に受け入れられる喜びを持ってください。



次の頁へ  使徒の働きTOPへ