心に響く聖書の言葉

ユダヤ人クリスチャンの割礼問題



 ユダヤ人でありながら、イエス・キリストを信じた人たちをメシアニック・ジュ―(Messianic Jew)と呼びます。その数はユダヤ教の縛りから解放されて近年増え続けています。聖書を学んでいく中で気付くことは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンはキリストにあって一つの普遍的教会となっていますが、契約という点では明らかな区別があります。今回の学びでは、その区別に焦点を当て、ユダヤ人クリスチャンにとって律法とは何か、割礼は必要か、そして異邦人クリスチャンが守るべきことは、等について学びます。

1.アブラハム契約における割礼


 イスラエル民族の起源は、創世記に記された神様とアブラハムとの契約にあります。

17:1 さて、アブラムが九十九歳のとき、【主】はアブラムに現れ、こう言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす。」
17:3 アブラムはひれ伏した。神は彼にこう告げられた。
17:4 「これが、あなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたの名は、もはや、アブラムとは呼ばれない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしがあなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする。王たちが、あなたから出てくるだろう。
17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
17:8 わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」
17:9 また神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、わたしの契約を守らなければならない。あなたも、あなたの後の子孫も、代々にわたって。
17:10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。
17:11 あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。
17:13 あなたの家で生まれたしもべも、金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。
17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。」

 神様がアブラハムと結ばれた契約には、子孫の祝福と、領土の所有が約束されています。そして契約のためにアブラハムとその子孫がすべきことは、ただ一つ、「割礼を受けること」でした。つまり、神様の祝福を受けるためには割礼を受けることが唯一の条件でした。もし、割礼を受けない者があれば、その人は民族から断たれました。
 従って割礼はイスラエルの民として生きる条件であり、彼らの最大のアイデンティティーとなったのです。この事を理解すると、新約聖書の中で割礼問題が幾度も取り上げられ、議論され、迫害の根拠となっていった理由がよく分かってきます。

2.パウロ書簡における割礼の否定

 
 新約聖書では、使徒パウロが割礼問題を多く取り上げています。次の箇所では、「割礼を受けてはいけない、割礼も無割礼も取るに足りない」と教えています。

Tコリント7:18 召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。
7:19 割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。

 次の箇所では、「割礼を受けることはキリストの恵みから落ちることだ」と述べています。

ガラテヤ5:2 よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。
5:3 割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。
5:4 律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
5:5 私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。
5:6 キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 次の箇所では、「肉的な人たちが割礼を強いている」と非難しています。

ガラテヤ6:12 肉において外見を良くしたい者たちが、ただ、キリストの十字架のゆえに自分たちが迫害されないようにと、あなたがたに割礼を強いています
6:13 割礼を受けている者たちは、自分自身では律法を守っていないのに、あなたがたの肉を誇るために、あなたがたに割礼を受けさせたいのです。
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。
6:15 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

 パウロの主張は明らかに、「割礼には意味がなく、大事なのはキリストを信じる信仰だ」ということです。そして次の箇所では、「律法はキリストによって廃棄された」と宣言しています。

エペソ2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、
2:16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

 パウロの書簡を学ぶ限り、律法も割礼もキリストによって廃棄されたので、それに従って生きる必要はないと受け取ることが出来ます。


3.十二使徒たちの考え


 しかし「使徒の働き」を読んでいくと、エルサレムの使徒たちの考えはパウロ書簡の教えと異なっています。次の箇所はパウロとバルナバがアンティオキア教会(異邦人の教会)に滞在していた時の出来事です。

15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 それで、パウロやバルナバと彼らの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバ、そのほかの何人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 「ユダヤから下って来た人たち」とは、エルサレム教会に集っていたユダヤ人です。(使徒15;24参照)彼らはアンティオキア教会の集会に参加し、「キリストを信じても、割礼を受けなければ救われない」と教えたのです。当然そこで教えていたパウロやバルナバと対立し、割礼を受ける受けないで大論争となり、この解決を求めてパウロとバルナバはエルサレムに上り、使徒たち、長老たちと話し合いを持とうとしたのです。

15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会の人々と使徒たちと長老たちに迎えられた。それで、神が彼らとともにいて行われたことをすべて報告した。
15:5 ところが、パリサイ派の者で信者になった人たちが立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきである」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。
15:7 多くの論争があった後、ペテロが立って彼らに言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は以前にあなたがたの中から私をお選びになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされました。
15:8 そして、人の心をご存じである神は、私たちに与えられたのと同じように、異邦人にも聖霊を与えて、彼らのために証しをされました。
15:9 私たちと彼らの間に何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 そうであるなら、なぜ今あなたがたは、私たちの先祖たちも私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みるのですか。
15:11 私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、あの人たちも同じなのです。」
15:12 すると、全会衆は静かになった。そして、バルナバとパウロが、神が彼らを通して異邦人の間で行われたしるしと不思議について話すのに、耳を傾けた。
15:13 二人が話し終えると、ヤコブが応じて言った。「兄弟たち、私の言うことを聞いてください。
15:14 神が初めに、どのように異邦人を顧みて、彼らの中から御名のために民をお召しになったかについては、シメオンが説明しました。
15:15 預言者たちのことばもこれと一致していて、次のように書かれています。
15:16 『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。
15:17 それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。
15:18 ──昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』
15:19 ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように、彼らに書き送るべきです。
15:21 モーセの律法は、昔から町ごとに宣べ伝える者たちがいて、安息日ごとに諸会堂で読まれているからです。」

 このエルサレム会議での決議をまとめるなら、
@異邦人クリスチャンに割礼は求めない――割礼を受けなくてもイエス・キリストを信じる信仰によって救われる
A会堂でモーセの律法が読まれるので、最低限の事、すなわち、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けてほしい

 この決議はパウロとバルナバにとって納得のいくことでした。(パウロたちが譲歩したのではない。ガラテヤ2:5参照) ただ、ここで注目すべき点は、この決議は異邦人クリスチャンに対してであり、ユダヤ人クリスチャンに対してではありません。要するにユダヤ人クリスチャンにとって割礼を受ける事は当然であり、この事に関しては全く問題とされていません。(割礼を受ける受けないが問題とされる以前に、ユダヤ人は生まれて八日目の割礼を皆、受けていたので問題視されなかったのでしょう。ただし、ユダヤ人クリスチャンに子どもが生まれた場合、割礼を受けさせるのかという問題が生じます。)

4.ユダヤ人クリスチャンは割礼を受けるべきか?


 では、ユダヤ人クリスチャンは現在の教会時代において割礼を受けるべきでしょうか?――私はこのことについて、「神様がユダヤ人に与えられた契約として、彼らは割礼を受けるべき」だと聖書は教えていると考えます。その根拠は次の四つです。

@エルサレムの使徒たちはユダヤ人の割礼を全く問題視していない

 前述の使徒の働き15章でのエルサレム会議における議論は、異邦人クリスチャンに対する割礼問題であり、その結論は彼らに割礼を命じないというものでした。そして使徒の働き21章では、パウロが再びエルサレムへ上ってきたとき、エルサレムの指導者たちは次のようにパウロに提案しています。

21:19 彼らにあいさつしてから、パウロは自分の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ説明した。
21:20 彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。
21:21 ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。
21:22 それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。
21:23 ですから、私たちの言うとおりにしてください。私たちの中に、誓願を立てている者が四人います。
21:24 この人たちを連れて行って、一緒に身を清め、彼らが頭を剃る費用を出してあげてください。そうすれば、あなたについて聞かされていることは根も葉もないことで、あなたも律法を守って正しく歩んでいることが、皆に分かるでしょう。
21:25 信仰に入った異邦人に関しては、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、淫らな行いを避けるべきであると決定し、すでに書き送りました。」

 ここでの議論の中心は、パウロがユダヤ人クリスチャンに対して「子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな」と教えているということです。それが誤解だということを証明するために、モーセの律法に従ってナジル人の誓願を立てた人たちの費用を出しなさいと提案したのです。パウロはこれに同意しました。もし、パウロが書簡で教えているように、「あなたがたが割礼を受けるなら、キリストから離れ、恵みから落ちてしまう」と信じているのなら、完全拒否したはずです。従って、パウロもユダヤ人クリスチャンが子どもに割礼を施すのは正しいことだと理解していることになります。

Aパウロの主張は異邦人クリスチャンに限定されている

 パウロの書簡における主張を注意して読むなら、それが異邦人クリスチャンに向けられた教えであることが分かります。割礼問題を特に取り上げている「ローマ人への手紙」「ガラテヤ人への手紙」は、異邦人クリスチャンに宛てられた手紙であり、彼らに割礼を強要しようとする人々を非難しているのであり、ユダヤ人クリスチャンに対する割礼問題ではありません。異邦人クリスチャンに対して割礼を強要したり、「異邦人が救われるためには割礼を受けなければならない」という教えを断固拒否しているのであり、それは「異邦人への使徒」としてのパウロの信念に基づく主張でした。

 パウロはローマ人の手紙で、ユダヤ人と割礼について次のように書いています。

3:1 それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼に何の益があるのですか。
3:2 あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。

 明らかにユダヤ人にとって割礼は益があることだと書いています。このローマ人への手紙3章では、信仰義認が教えられ、ユダヤ人も異邦人も信仰によって義とされるとパウロは主張しています。その結論は、

3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。
3:30 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。

 このように、割礼を受けるユダヤ人も、割礼を受けない異邦人クリスチャンも、信仰によって義と認められると教えているのであって、ユダヤ人クリスチャンが割礼を受けることは全く問題としていません。

B教会時代においてもユダヤ人と異邦人の区別がある

 使徒パウロが書いた「エペソ人への手紙」では、ユダヤ人も異邦人もキリストによって一つとされ、一つの教会となっていることが教えられています。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。
2:20 使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。
2:21 このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。

 この箇所を読むと、教会時代においてユダヤ人と異邦人の区別は全くなくなっていると受け取られがちですが、他の聖書箇所では教会時代においてもユダヤ人と異邦人の区別を保っていることが分かります。次の聖書箇所ではその区別が明らかです。

◎ガラテヤ人への手紙2章
2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けている者への福音を委ねられているように、私は割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました。
2:8 ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し出しました。それは、私たちが異邦人のところに行き、彼らが割礼を受けている人々のところに行くためでした。

 パウロは自分を「異邦人への使徒」だと主張しました。しかしそれは「12使徒」たちにとって受け入れ難い事でした。「12使徒」はイエス・キリストによって直接任命され、与えられた権威でした。彼らは教会時代の基礎として大切な役割を担いました。彼らはユダヤ人(割礼を受けている者)への使徒として任命されたのです。そこへパウロが来て「私は異邦人への使徒として任命された」と言うのです。当然、パウロの使徒職が疑問視されましたが、話し合いの末、エルサレムの使徒たちは神がパウロを「異邦人への使徒」として任命されたことを承認しました。
 もし、ユダヤ人と異邦人の区別がないなら、12使徒だけでよかったはずですが、神様はあえて別くくりの「異邦人への使徒」としてパウロを立てられたのです。

◎ローマ人への手紙9〜11章
9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

11:11 それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。
11:12 彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。
11:13 そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。
11:14 私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。

 この箇所でもイスラエルと異邦人が完全に分けられています。パウロの考えはこうです――教会時代においてイスラエルは不信仰の中にいて救われる人は少ないけれど、異邦人が救われ喜んでいる姿を見てイスラエルが妬みを持ち、福音に目を向けるようになってほしい・・・。そしてパウロの結論は、イスラエルの将来に目を向け、次のように記しています。

11:25 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
11:27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
11:28 彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。
11:29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。

 パウロは明らかに教会時代におけるイスラエルと異邦人を区別しており、神様のイスラエルに対するご計画はキリスト再臨まで続いていると証しています。そして神がイスラエルに与えられた賜物と召命は取り消されない!と宣言しているのです。

Cアブラハム契約は現在でも有効である

 ユダヤ人クリスチャンが割礼を受けるべきかという問いに解答を得るためには、その契約が現在でも有効であるかないかを判断すべきです。

 割礼が契約として命じられたのは、前述の創世記17章に記されたアブラハムとの契約でした。

17:10 次のことが、わたしとあなたがたとの間で、またあなたの後の子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい。

 この契約はアブラハムからその息子イサク、そしてヤコブ(後にイスラエルと改名)に引き継がれ、イスラエルの民と結ばれた契約となっています。(創世記17;19参照)
 では、この契約は現在でも有効でしょうか?――聖書中、どこにもこの契約が破棄されたと記されていないので有効です。勘違いされやすいのは、割礼がモーセの律法において改めて規定されているため(レビ記12;3)、割礼=モーセの律法 と受け取られてしまい、割礼を受けることはモーセの律法を守り行おうとすることだとして否定されがちです。しかし、これはアブラハムと結ばれた契約であって、現在でも有効な契約であり、したがってイスラエル人は割礼を受けるべきなのです。

 福音書中、イエス様が割礼問題を取り上げられたのはヨハネ7章の一箇所だけです。

7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。
7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。
7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

 ここでの論点は、律法では安息日に労働を禁じているのに、割礼の施術は安息日でも行っているのはなぜか?ということです。それは神がアブラハムと結ばれた契約であり、律法の上を行く神の御心だからです。ですから、イエス・キリストが安息日に人を癒されたことも神の御心であり、律法の上を行くことだと主張されたのです。つまり、モーセの律法より優先される事(父なる神の御心、契約)があることをイエス様は教えられたのです。

5.モーセの律法は現在でも有効か?


 それでは律法についてはどうでしょうか?ユダヤ人クリスチャンは教会時代において律法に従って生活すべきでしょうか?――おそらく多くの方々は律法は廃棄されたのだから必要ないと言われるでしょう。しかし、モーセの律法すべてが無効になったと断言できるでしょうか?モーセの十戒は過去の遺産となってしまったのでしょうか?――新約聖書では、律法の有効性を教える箇所も少なくありません。

マタイ5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。

Tテモテ1:8 私たちは知っています。律法は、次のことを知っていて適切に用いるなら、良いものです。
1:9 すなわち、律法は正しい人のためにあるのではなく、不法な者や不従順な者、不敬虔な者や罪深い者、汚れた者や俗悪な者、父を殺す者や母を殺す者、人を殺す者、
1:10 淫らな者、男色をする者、人を誘拐する者、嘘をつく者、偽証する者のために、また、そのほかの健全な教えに反する行為のためにあるのです。

 そしてすでに述べたように、エルサレムの初代教会においてユダヤ人クリスチャンは皆、モーセの律法に従っていました。

使徒21:20 彼らはこれを聞いて神をほめたたえ、パウロに言った。「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。
21:21 ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。

 その一方、パウロ書簡では律法が無効になったと教えています。

ローマ 7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

ガラテヤ 3:19 それでは、律法とは何でしょうか。それは、約束を受けたこの子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたものです。

エペソ2:14 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、
2:15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。

 パウロの書簡では、律法は完全に悪者扱いで、律法は廃棄されたと宣言しています。この矛盾を私たちはどう理解すればよいのでしょうか?――この解決は、やはり割礼問題と同様、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの区別をすることです。パウロの書簡は異邦人クリスチャンに宛てて書かれた教えであり、異邦人に律法は与えられておらず、律法を守り行うことは無意味だと教えています。そして律法と恵みを対比させ、救いは恵みによるのであって、律法を守り行うことは救いにまったく関係がないことを強調しているのです。

 また、パウロが「戒めの律法を廃棄されました」と言う時、律法をすべて否定しているのではありません。なぜならモーセの律法には有益な教えや道徳的倫理的教えもあり、そして神の愛が教えられているからです。ですから廃棄されたというのは「戒めの律法」に限られており、それは罪を犯した者に対して懲罰を科す規定です。それはキリストの十字架の贖いによって罪の赦しが与えられたのですから、当然の廃棄だと言えます。

 ではユダヤ人クリスチャンにとって律法は現在でも有効でしょうか?――有効である律法と無効となった律法があるというのがこの質問に対する答えです。パウロはイスラエルについて次のように書きました。

ローマ 9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。

 また、教会時代におけるイスラエル人について知るには、彼らのために書かれた書簡を学ぶ必要があります。イスラエル人に宛てて書かれた「へブル人への手紙」には律法について重要な教えが詰め込まれています。

ヘブル7:12 祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。

ヘブル7:24 イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。
7:25 したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。
7:26 このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

 へブル人への手紙の著者は、イエス・キリストが新しい大祭司として立てられたと宣言しています。律法によれば祭司職はレビ族から任命されますが、イエス・キリストはユダ族であり、つまり彼は律法によらずに立てられた大祭司なのです。それゆえ律法も変わるべきだと教えています。そしてへブル人への手紙ではおもに二つの変更を教えています。

@新しい契約が結ばれた

ヘブル8:7 もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。
ヘブル9:15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。

 一つ目の変更点は、新しい契約が結ばれたことです。モーセを通して与えられた律法には欠けがあり(完全な救いを与えることが出来なかった)、何も全うしなかったので、新しい契約がキリストを通して結ばれました。それはモーセの律法の欠けを満たした完全な律法となっています。

A毎日いけにえをささげる必要がない――いけにえ制度の撤廃

7:27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。

 イエス・キリストを永遠の大祭司とする新しい契約では、いけにえを献げる必要はありません。これこそモーセの律法の最大の変更点です。イエス・キリストが十字架の上で聖い血を流され、罪の贖いをされたので、罪の赦しが与えられました。それゆえ、動物のいけにえの血を流す必要は無くなったのです。※

 結論を言えば、ユダヤ人クリスチャンにとって律法は必要ですが、それはキリストによって変更され完成された律法だと言えます。また、モーセの十戒はユダヤ人に与えられた戒めであり、それを生活の規範とすることは何の支障もありません。(救いの教義ではない)

出エジプト 20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

 この十戒の命令も、ユダヤ人クリスチャンが正しく理解して行うなら、神様の祝福にあずかるのです。「ユダヤ人もクリスチャンになったら日曜日に礼拝」――ではなく、ユダヤ人クリスチャンは安息日(土曜日)に仕事を休み、礼拝をすることが父なる神様の御心なのです。

 また、イスラエルに命じられている三大祭【過越祭(ペサハ)、七週の祭り(シャブオット)、仮庵の祭(スコット)】を祝うことも正しいことです。ただし、クリスチャンとしての祝い方があることを理解すべきです。


6.異邦人クリスチャンが守るべき教え


 では、異邦人クリスチャンである私たちにとって「モーセの十戒」は有効でしょうか?また、エルサレム教会が命じた事に従うべきでしょうか?

@モーセの十戒

 モーセの十戒はイスラエルに与えられており、異邦人には与えられていません。ただし、十戒には神様の御心が示されているので、異邦人クリスチャンはモーセの十戒を学び、そこに示されている神様の御心を知ることが大切です。神様を愛すること、隣人を愛することが十戒の基礎であり、それは異邦人クリスチャンにとっても必要な教えです。「安息日」に縛られる必要はありませんが、週に一日は仕事を休み、礼拝する時を持つことは神様の御心です。主イエス・キリストが墓からよみがえられた日曜日の朝に礼拝をするという教会が勝ち取ってきた事を尊重したいものです。

Aエルサレム教会の命令

 エルサレム教会の使徒たちは、異邦人クリスチャンに対して次のことを命じました。
「偶像に供えて汚れたものと、淫らな行いと、絞め殺したものと、血とを避けるように」(使徒15;20)
 この命令は、同じ町に住むユダヤ人クリスチャンたちにつまずきを与えないために、という配慮のためでしたが、現在でも有効な命令だと言えます。

 偶像に備えて汚れたもの――使徒パウロが偶像に備えられた肉についてTコリント10章で詳しく教えています。結論としては、信仰に立って考えるなら偶像に備えられた肉には何の力もないので、食べても良いのだが、つまずく人もいるので配慮が必要だと述べており、エルサレム会議の決議と変わりません。

 この命令の根底にあるのは「偶像礼拝」です。パウロも偶像に備えられた肉問題の前提として次のことを命じています。

Tコリント10:14 ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。

 そして偶像にささげられた物は悪霊にささげられているのであり、それを食べることは悪霊の食卓に着くことだとまで言っています。ですから異邦人クリスチャンである私たちにとって「偶像に供えて汚れたもの」を避けることは偶像礼拝から遠ざかるという意味でも必要なことだと言えます。


 淫らな行い――淫行、姦淫、不品行は聖書のどの時代においても神様が忌み嫌われる人間の罪として教えられています。それは新約時代に入っても同じです。使徒パウロでさえ次のように書いています。

Tコリント6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

 絞め殺したものと、血――これは分けて考える必要はありません。絞め殺した動物の肉には血が入ってしまうからです。この血についての戒めは創世記の中にまず見ることが出来ます。

創世記 9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。
9:4 ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
9:5 わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。

 そしてレビ記では律法として記され、詳しい説明が加えられました。

レビ17:10 イスラエルの家の者、あるいは彼らの間に寄留している者のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べた者に敵対してわたしの顔を向け、その人をその民の間から断ち切る。
17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥(なだ)めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。
17:12 それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言う。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間に寄留している者も血を食べてはならない。
17:13 イスラエルの子らや彼らの間に寄留している者のだれでも、食べることができる獣や鳥を狩りで捕らえた人は、その血を注ぎ出し、土でおおう。
17:14 すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言ったのである。『あなたがたは、いかなる肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られる』と。

 新約聖書においても、血はいのちと同じように扱われ、罪の贖いをするのは血であるという教えに基づき、キリストが十字架上で血を流され、贖いが成されたと宣言されています。したがって、神様の人間に対するご計画の中で血はいのちと同様に重要な位置を占めており、それを人が食べることは神様のご計画と御心に対する反抗だと言えます。ですから、クリスチャンは血を避け、血の滴るようなステーキを食べるべきではありません。ただし輸血はいのちを救うためであり、血を食べる事ではないので、この戒めに当てはまりません。

 この血の教えはモーセの律法から始まったのではなく、ノアの時代から命じられていることですから、全世界の人に対して有効であり、教会時代に生きるイスラエル人も異邦人も守るべき教えだと言えます。

-----------------------

※モーセを通して結ばれた律法は、「祝福とのろい」をもたらすものでした。

申命記 11:26 見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福とのろいを置く。

 イスラエルが律法に従えば祝福が与えられ、律法に従わないなら呪われるというものです。しかし人は皆、罪人ですから神様の律法に形だけは従えても心から従うことが出来ません。形式主義、偽善、反抗という影が常に付きまといます。イスラエルは歴史の中で幾度も律法から外れ、その度に神様のさばきを受けました。それは人間の欠けが問題なのですが、神様はそれを律法の欠けだと教えられています。しかし、その欠けをイエス・キリストが満たし、完全なものとしてくださいました。それは罪の完全な赦しと、聖霊による新しい心を与える事によって実現されたのです。

ヘブル10:14 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。
10:15 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、
10:16 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、
10:17 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。
10:18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

 イエス・キリストは律法の闇の部分である呪いを、ご自身が呪われた者となることによって神のさばきを受け、取り除かれたのです。

---------------------

 以上、述べてきたことは神学上、さまざまな異論がある聖書解釈ですが、これらの聖書の教えについて議論が交わされ、多くのクリスチャンが神様の御心をさらに知るようになることを願います。